アルール歴2189年 12月7日(+3秒)
――神城ナオキの場合――
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「これはナオキにしか言うつもりはありませんが、ライザンドラは神の啓示を得たことがあります。
あれが本当に神の啓示だったのか、それとも悪魔の囁きでしかなかったのか。判断はつきかねますが、そこは問うだけ無駄というものでしょう。ですので『神の啓示だった』と考えることにしています。
あんなものを長時間体験したら、教皇といえども狂気に追い込まれるだろう、とも感じましたし」
おいおい。
その言葉を聞いた俺の気持ちを一言で表すなら、そうとしか言いようがない。
だが、俺は急いで気持ちを切り替える。この世界には神だの悪魔だのが実在している。だから神の啓示は、本当にあり得る。
「その啓示は、ハルナさんに誰かが語りかける言葉でした。
『地にあまねく信徒がみな聖書を読み、神の教えを自らの頭で理解するようになったとしよう。ハルナはそんな未来が幸福であると信じるかい?』
推測でしかありませんが、これはハルナさんの祖父、コーイン司祭の言葉であろうと思われます」
……ここでコーイン司祭か!
彼もまた、ほぼ疑いなく俺と同じ世界から飛ばされた人間だ。
帝都で俺が調べた範囲で言えば、おそらくはガチの仏教系聖職者、要するに坊主だ。相当なインテリだったようで、俺の知識なんかじゃまるで及ばないレベルでキリスト教やイスラム教も研究していた可能性が高い。
「この言葉を聞いた私は、それからというもの、コーイン司祭が発した問いについて考え続けました。
そしてそのうち、この言葉の持つ特殊性に気づいたんです。
最も注目すべきポイントは、天才の名をほしいがままにしたコーイン司祭をして、この問いは疑問形のまま終わっている、ということです。そしてもう一人の天才であるハルナさんもまた、おそらくはこの問いに対する答えを出せていません。
つまりこれは、二人の天才をして答えが出ない問いということです」
そりゃそうだ、宗教改革を未だ体験していないこの世界の人間に、その正確な予測などできるはずが――と反射的に考えた俺は、直後にそれが成り立たないことに思い至った。
ハルナは、仕方ないかもしれない。だがあのコーイン司祭が宗教改革の経緯を知らないなど、考えられない。コーイン司祭は孫たちに日本の軍艦の名前をつけているうえ、筋金入りのシャーロキアンだ。彼が宗教改革以前の人間だということもあり得ない。
「でもこれ自体は、そんなに驚くことでもありません。
何のはずみかライザンドラも司祭位を得るに至りましたが、だからこそ間違いなく言えることとして、教会が認める聖職者は神意なるものを完全には理解できていない、ということがあります。
『わからない』ことは、司祭位を持つ人間にとってみれば、珍しいことではないんです。
ですが誤解してほしくないのですが、神意のすべてが理解できていないわけではありません。現に条件さえ揃えれば〈豊穣の儀式〉は必ず成功しますし、審問会派にもそういった奇跡はあります」
ここまで言われて、俺は徐々にはっきりと、自分が何に気づいていなかったのかを悟ろうとしていた。
だが。だとすれば、それは――。
「教会は神意のありようを、実験や観測を経て、一歩一歩着実に解明してきました。
『すべての謎が解けたのか』と問われれば『いいえ』と答えるほかありませんが、『わかっている』部分だってたくさんあります。一般的な生活に関わる範囲であれば、『わかっている』領域のほうがずっと広いとすら言えます」
そう。そうだ。
俺はカナリスに言ったじゃあないか。
「あんたらが持ってる神の概念って、宗教ってより、科学だ」と。
この世界における神学と宗教は、俺の前世における科学や哲学や倫理学といったものと、不可分に入り混じっているのだ。
だのに俺は、その事実から意図的に目をそらした。
「ともあれ、司祭として神意に迫ろうとする者は、多かれ少なかれ神意への畏れを抱いています。
パウル1級審問官は、迷える信徒に対して『わかった』という言葉だけは使ってはならない、と説きました。
ユーリーン司祭に至っては純粋神学の極北のような世界において、『畏れ迷いながらも神を信じることにこそ、信仰の本質はある』とまで語っています。
かように司祭たるもの、『人間の知は有限である』ことを蔑ろにはしません。つまり、例えば信徒から『自分はなぜこの世に生まれたのか?』と問い詰められていったら、どこかの段階で『わからない』と答えるしかないという現実と、真摯に向き合っています。
その問いに対して司祭という立場で言えるのは、『わからないが、こういう考え方もできる』が精一杯なのです――昔から、そこに政治的な誘導が乗ることも多いとはいえ」
ライザンドラが語る通りだ。
ユーリーン司祭。カナリス特捜審問官。ハルナ3級審問官。パウル1級審問官。直接の面識はないが、老マルタ。
誰もが誠実で、謙虚で、己の限界をわきまえ、それゆえに苦しみ、もがき、それでも己のためではなく隣人のために生きることをもって是とした――もちろん小狡いところも、脆いところも、己を律しきれないところも持ち合わせた――尊敬すべき人々ではなかったか。それがこの世界の聖職者ではなかったか。
だのに俺は、モラトリアムをこじらせた豚どもや、メシア願望をこじらせた老害や、政治ゲームにしか興味のない陰謀家崩れどもや、麻薬に逃げた俺の同業者――最後に至ってはこの世界の人間ですらない――を見て、「こっちの聖職者」を規定した。
そしてあんなにも羨み、ときに嫉妬した偉大な聖職者たちから、意図的に目をそらした。
手の中に、カナリスを刺したときの感覚が蘇ってくる。
「さて、では人間の弱さを知り尽くしたナオキに聞きます。
ここにおいて『地にあまねく信徒がみな聖書を読み、神の教えを自らの頭で理解するようになった』ら、何が起きますか?」
右手に今なお残る生々しい感触に、強烈な目眩がする。
吐きそうなくらい、視界が回る。
だがそれでも、俺は問われるがままに、答えていた。
「理想論で言えば、誰もが神意への畏れを抱きつつ、一歩でも既知の領域を広げようと、不断の努力を積み重ねるだろう。
そしていつか、そんな世界が実現する可能性もある。
だが、すぐにそうなることは、あり得ない。
むしろ――起こるのは、その真逆だ」
ひどく、吐き気がする。
「人は『わからない』ことを、そう簡単には受け入れられない。
もっとはっきり言えば、『わからない』ってのは、気持ちが悪かったり、怖かったりする。『恐ろしいバケモノ』が持つ恐ろしさの本質が、『わからない』ことにあるように。
逆に、人にとって『わかる』ことは、快楽の一種だ。セックスやオナニーと同じくらい、『わかる』ことは気持ちがいい。中毒性すらある。
だから神意っていう圧倒的な『わからなさ』が、何の準備もなしに万人に向けて解き放たれたら、ほとんどの人間はその『わからなさ』から逃げ出すだろう。そしてどうにかして『わかった』ことに、全力ですがりつく」
喉が乾く。
俺が踏み越えようとした一線は、俺の前世における歴史知識に基づいた理解など、完全に超越していた。
ここは、異世界だ。
前世のノウハウで無双できることもあるが、この世界で必死になって生きている連中へのリスペクトを欠けば、そのツケはやがて俺に戻ってくる。
「『わからなさ』から逃げる人々は、『わかった』と宣言する人々の声を聞こうとするだろう。そしてその声のうち、自分にとって最も気持ちが良い声を選りすぐって、『ちゃんと理解した』と考えるようになる。
だがそれは、本当に自分で生み出した理解じゃあない。ただ単に『誰かがそこに並べたもの』から『選んだ』だけだ。
そしてその選択にしたって、本当に一貫性があるわけじゃあない。根拠を問い詰めていけば、そのほとんどは『なんとなく』でしかない。
人間、そんなもんだ。俺たちが『自分の意思だ』と思ってるものの大半は、偏りのあるランダムな選択でしかない」
つまり。
「つまり俺も、コーインやハルナと同じことしか言えない。
この剥き出しのランダムが連鎖する先で何が起こるかなんて、断定は不可能だ。
もしかしたら帝国も教会も、かつてないほど強大化するかもしれない。
もしかしたらこの先、人類はズルズルと泥沼の殺し合いを続けるようになるかもしれない。
わからん。何が起こり得るかは語れるし、ある程度までなら絞り込みもできるだろうが、『こんなことが起こる』と語ることは、できない」
今まで俺は、前世における宗教改革の歴史を部分的に模倣しつつ、カルト屋の手口を悪用することで、先手を打ち続けられた。「こうすればこうなる」という、確信を持って行動できた。
だが俺が立ち向かっているのが、俺の前世でいう「宗教」とは本質的には一致しない以上――しかも俺はこの世界における神学を攻略対象として研究はしたが、本気で向き合ったわけではない以上――「これからこの世界がどうなるか」は、あまりにも不確かだ。
今までは俺のやり方が一種の奇襲として機能したからたまたま上手くいっただけであり、ここまでだって予定のコースから大きく逸れる可能性はあったのだ。
だからもう俺には、「世界はこれからこうなる」だなんて、言えない。
前世で「これから世界はどうなりますか」と信徒から聞かれたとき、「混乱と苦難の時代が続くでしょう」程度のテンプレ回答しかできなかったように。
ああ――もしかしてコーイン司祭が死を選んだのも、そういうことだったのかもしれない。
コーイン司祭もまた、最善を尽くしたのだろう。つまり前世の知識をこっちの世界に持ち込んで、本当なら分からないはずの謎を解き明かし、人々を救った。俺より断然スペックが上の人間が、世界を良くするために力を尽くしたんだから、さぞかし素晴らしい時代になったに違いない。
けれどコーイン司祭ですらどこかの段階で、「このままでは予測どおりの結果が得られるかどうか分からない」――つまり自分の努力の先で、もしかしたら決定的な破綻が起こるかもしれないという壁にぶつかったんじゃあないだろうか。
そしてそこで追いうちのように、賢者アムンゼンが遺した〈計画書〉の存在を知ったなら。
俺はずっと、あの〈計画書〉は賢者アムンゼンがイキっただけだろうと思っていた。だがあれもまた「この先がどうなるのかもう分からない」という壁にぶつかった賢者アムンゼンの、末期の悲鳴だったのかもしれない。
誰にも相談できない悩みと不安を抱えて苦しんでいるコーイン司祭が、この世界を停滞させる元凶になっている文書として同業者の断末魔を見てしまったら。
そりゃあ「もうわからない」と言い残して死にたくもなるだろう。まったく、神の啓示に相応しい、おそろしくクソッタレな問いにして、絶望感しかない遺言の連鎖だ。
そうやって勝手に呼吸困難に陥りそうになっている俺を、ライザンドラはさらに追い詰める。




