アルール歴2188年 10月22日(+12分)
――ライザンドラの場合――
神前討議にはいろいろと様式や儀式があったりするが、今回は最も簡単な手続きを取ることにした。つまりホフマン司祭と私が揃って神に誓いの言葉を述べるという、これ以上は簡素化できず、かつ神前討議の本質を突いた手続きだ。
今回の場合、審判はこの場にいる領民たちということになるので、「最終的に領民による評決を取って、より多くの支持を得たほうの勝ち」という勝利条件設定についても、ホフマン司祭と私の誓いをもって確定させる。
念のため主堂にいる領民たちにバディを組ませて、人の出入りが起こらない(起こってもトレースできる)ようにしたあたり、ホフマン司祭は本質的には生真面目な人なんだなあと感心もする。これがミョルニル派なら、「やるか」「やろう」で適当に始めてしまうところだ。
神前討議の先手を取ったのは、ホフマン司祭だ。「格上の登壇者から先に話す」のは、伝統的なルールだからだ。
こういった問答はだいたいその聖職者の格が実力と比例しているし、先に格上の聖職者が話をすることで「もはや議論の余地もなく勝敗は決まった」と判定されることも珍しくない。これは何もそういう不正じみた判定が下されることが多いというのではなく、後手を取った聖職者が圧倒されてしまって何も言えなくなっている状況に対し、哀れみをもって対処されることがままある、という話だ。
そして実際、ホフマン司祭の説法は実に見事だった。
「ライザンドラ修道士は、諸君らが腐敗していると語った。
なるほど、私もその見解にはまったくもって同意する! 諸君らは腐敗しており、堕落しており、天国の門は諸君らにとっては相当に重たい門となるだろう。
だがそれは、当然のことなのだ」
先手を活かして、ホフマン司祭はこちらの主張の根幹を潰しにきた。
私が主訴とした「信徒の腐敗」それそのものには異議を唱えず、「信徒が腐敗していると訴えること」に異議を唱えようという作戦か、さもなくば「信徒が腐敗するのは神の意に逆らってはいない」と論を進める作戦か。どちらも王道と言える。
「勘違いしてはならない。
諸君らは間違った統治者によって、間違った指導をされていたから、腐敗したのではない。
むしろそれは、逆だ。
諸君らは間違った統治者によって、間違った指導をされることにより、人として間違った道を歩まされることになったのである。
思い起こしてみたまえ。先代のニリアン卿がこの地を統治している頃、諸君らの生活のどこに豊かさがあった? 文化があった? 人として生きる余裕があった?
諸君らはそれらすべてから切り離されて生きることを強いられた。結果的に諸君らは腐敗や堕落するのではなく、先代ニリアン卿が操る人形として、己の意志を持つことすら許されぬままに生きることになった」
詭弁もいい加減にしろと言いたいところだが、ここを足がかりにして彼の主張を崩すのは難しいだろう。「君たちは悪くない、悪かったのは君たちを統治した統治者だ」という論法は、今回の審判たちにはとても効く。
「そうやって偽りの敬意を植え付けられた諸君らは、厩舎で飼われる家畜のような人生を、真の人生だと思い込んだ。
だが、今や諸君らは真の人生を知っている。
人が、人として生きるということを、知っている。
無論、私は司祭だ。そしてあの審問会派の、二級審問官でもある。
それゆえ諸君らには清貧を説き、節制を説き、勤労を説いてきた。酒や煙草、男女の婚前交渉、賭場をはじめとした遊行や、浮ついた歌舞音曲の類については、特に厳しく説教してきたという自負がある。
だが……」
ここで一呼吸おいて、誤差の範囲に収まるような微笑を浮かべたホフマン司祭を見た私は、改めて確信する。
やはり審問会派は、明確な意図をもって、凄腕の司祭をこの地に送り込んできたのだ。間違いなく、いまの審問会派にとってサンサ教区は、それだけの価値を持っている。
「……だが諸君らも知っているように、私はサンサ教区で作られる蜂蜜酒が好きだ。
それに、諸君らが手塩にかけて作る干し柿は、帝都の職人たちが作る最高級の菓子に勝る――とまで言えばさすがに神の前で嘘をつくことにもなろうが、少なくともダーヴの街で砂糖まみれの物体を作って悦に入っている連中が売る菓子の何倍も、何十倍も、素晴らしいものだと思っている。
また、ダーヴの街を訪れた〈流浪の詩人〉マネウスをニリアン領に招いたのは、実のところ私だ。
なぜなら私もまた、酒で心を慰め、甘味で体を甘やかし、浅薄な英雄譚に心を躍らせる、過ち多き人間だからだ。
その一点において――つまりは神の前において、私と諸君らに、それほど大きな差はない」
おそらくホフマン司祭は、常日頃からこうなる可能性を考えていたのだろう。己の地位を脅かすものが、言葉をもって挑戦してきた場合に備えて、周到な仕込みをしてきたのだ。
常日頃から厳格で冷厳な司祭として振る舞い続けると同時に、「自分には人間らしい弱さがある」ことをちらほらと垣間見せる。ホフマン司祭はそれらすべてを伏線として、「自分は諸君らのことを完全に理解する守護者にして同志である」という説得力に変えてみせようとしている。
「諸君らと苦楽を共にしてきた私は、諸君らの苦しみが、悩みが、迷いが、理解できる。
だから私は、胸を張ってこう言うことができる。
『諸君らの苦しみも、悩みも、迷いも、すべては人としての苦しみであり、悩みであり、迷いである』と」
そらきた。パウル1級審問官が聞いたらどこまでも冷たい笑みを浮かべそうな説法だが、今のこの場でホフマン司祭が語る「私には諸君らの苦しみが理解できる」という言葉には、麻薬のような魅力がある。
「繰り返して、言おう。
私は司祭であり、それはそれは恐ろしい審問会派の、二級審問官だ。ゆえに私は諸君らに清貧と、節制と、勤労を求める。そこが変わることは、歴史が終わるその日まで、けしてあり得ない。
だが、思い出せ。
諸君らは先代ニリアン卿の時代にあって、清貧や節制、勤労を求められただろうか?
求められるはずがない!
諸君らに清貧を求めようにも、諸君らには使うカネがなかった。
諸君らに節制を求めようにも、諸君らには口にする食い物がなかった。
諸君らに勤労を求めようにも、諸君らは牛馬のごとく働く以外の可能性がなかった」
確かに、少なくともユーリーン司祭が彼らに清貧・節制・勤労を説くことはなかった。ホフマン司祭が指摘するように、その必要がなかったからだ。
「聖ユーリーンの英断により審問会派とデリク家の手厚い支援を受けるに至ったこのニリアン領は、ようやく、人間が生きる土地となった。
それゆえに、ようやく諸君らは、人として堕落できるようになった。人として腐敗できるようになった。
これは間違いなく、諸君らが正しい道を一歩前に進んだ証拠である。
諸君らはただの家畜から、人間へと変わったのだ。
なるほど、諸君らのなかには腐敗や堕落に心を迷わせている者もいる。だがそれは、諸君らがまさに人間であり、神の子であるからだ。
家畜として飼われているだけの人間は、腐敗だの堕落だの言う以前に、もはや異端者にすら近い存在である」
ホフマン司祭の説法は、簡潔でありながらも、要点はけして外していない。それこそ帝都のアルール大聖堂でこれを語ったとしても、批判は出ないだろう。むしろ少なからぬ玄人筋からも拍手が沸き起こるに違いない。
事実、清貧・節制・勤労を説くまでもなく実践しているコミュニティというのは、往々にして異端の巣窟となる。信仰の実践と純化への欲求は表裏一体をなすことは珍しくなく、行き過ぎた純化への欲求は、実にたやすく異端教団を作り上げる。純化と先鋭化、そして先鋭化と異端化は、容易に切り離せるものではないのだ。
ホフマン司祭の『家畜として飼われているだけの人間は、腐敗だの堕落だの言う以前に、もはや異端者にすら近い存在である』という言葉は、このあたりの事情を巧みに捉えている。
「無論、かつてこの村でユーリーン司祭が主導した改革の成果には、驚嘆すべきものがある。
だがかの改革には2つの問題があった。
1つは改革を主導した人物のうち、その2名がいかがわしい悪事に手を染めていたということだ。
先代ニリアン卿はサンサ山中の野盗と取り引きをしており、ナオキなる人物は今もカナリス審問官が追跡している。
聖ユーリーンがあえて改革の手を止め、我々審問会派にニリアン領の精査を委ねたのは、この2人による汚染を恐れてのことだ」
カナリス審問官が今なおナオキを追っている――とは、物は言いようというところか。
してみるとやはり審問会派はナオキを真面目には追ってはいないし(真剣に追っているならさすがにナオキは捕縛されているはずだ)、カナリス審問官はどこかで倒れた可能性が高い。
「カナリス特捜審問官とハルナ3級審問官(らしき人物)が2人でこの世の悪を暴いて回っている」という流行歌は今もあちこちで耳にするが、その歌を耳にするということ自体が、もはやカナリス審問官がこの世の人ではない可能性を暗示している。
そして2級審問官が神の前で「カナリス審問官は今なお追跡を続けている」と語った以上、審問会派もまた彼の行方を掴んでいないか、彼は既に死んだと断定している(だが政治的な理由に基いて「追跡し続けている」ことにしている)ということだ。
「そしてまた、かの改革にはもう1つ問題があった。
簡単にいえば、かの改革では、ニリアン領はさして儲からなかったのだ。
なるほど、諸君らも作ったという竹簡聖書は、諸君らにしてみれば驚くべき価格で販売された。
だがその売り上げの半分は、デリク卿が受け取っている。残った半分のうち、その多くは先代ニリアン卿が財政を補填するために使い、また聖ユーリーンの手による学校の運営にも使われた。諸君らの手に残った金額は、あまりにもささやかなものに過ぎない。
実際、いまのニリアン領が得ている補助金の総額は、かの改革の時代にニリアン領が得ていた収入の、約10倍に達する。諸君らが努力に努力を重ね、竹簡聖書を20倍近く作って、ようやく到達する金額だ」
相当の規模でカネを投入しているとは思っていたが、この規模か!
とはいえ、審問会派が主導し、大貴族たるデリク卿が支援するとなれば、この規模の支援をサンサ教区全体に投下するのも不可能ではない。それに、今後もずっと今の規模の支援を続けるとは、到底思えない。ある程度までサンサ教区が落ち着き、また帝都の政治が安定した段階で、援助は少しずつ先細っていくだろう。それはもう、そんなものだとしか言いようがない。
「つまりかの改革は、目指した方向に問題があったと言わざるを得ないだろう。
もしここが帝都にほど近い農村であれば、それでも良かった。だがサンサ教区という、大自然によって人間が試される土地にあっては、あまりにも高い理想を求めすぎていたのだ。
聖ユーリーンの理想を否定はしないが、『聖ユーリーンらしい事業だ』とは思う。私のような凡俗にしてみれば『まずは本よりもパンではないか』と言いたいところだし、今後もこの村の農業基盤に対する投資は継続的に行われる予定だ。
ゆえに、私は諸君らにこう告げよう。
諸君らはまず、過酷な統治によって傷ついた魂を安らがせよ。明日の食事を、今年の冬を案じることなく生きる、まっとうな暮らしに慣れることだ。
そして人として畑を耕し、野に禽獣を追い、家畜たちを太らせよ。人として働き、人として神に祈ることを、学ぶのだ。
それはけして、簡単なことではない。おそらくは私はその行く末を最後まで見届けられないだろうし、諸君らの多くもそうだろう。
だが諸君らの子や孫の代になれば、ただただ祈り働くだけの段階を越え、ある者は文字を学び、ある者は数を学び、より豊かな未来に向かって前進しはじめる。
村には子供たちの笑い声が絶えず、老人たちは手仕事をしながら孫に知恵を授けていくだろう。
領主の倉庫は常に蓄えを欠かさず、たとえ試練のときが来たとしても、飢える者はいないだろう。
諸君らはまさに今、そんな未来へと続く階段の、第一歩に足をかけたのだ。
諸君らがその階段を正しく登っていけるよう、私は最大の支援を続けよう。まったき人の営みを取り戻すべく、今後とも諸君らとともに祈り、また働いていけるものと、私は確信している。
――天に栄光を。地に繁栄を。人の魂に、平穏あれ」
ホフマン司祭は両手を広げ、説法を終えた。領民たちはそんなホフマン司祭に向かって、最初は遠慮がちに、それから徐々に激しく、拍手を送っている。なかには感動のあまり涙を流してる人もいるようだ。
それが不思議だとは、思わない。
彼の説法は理路整然としながらも感動的であり、子や孫の世代における村の繁栄を具体的に予感させるものだった。
また「ホフマン司祭は死ぬまで我々を助けてくれる」という思いもまた、長年に渡って司祭の流刑地だったこの村の住人にとってみれば、感涙に相応しいものだったに違いない。
私にしてみれば「おそらくは私はその行く末を最後まで見届けられない」という言い回しは「いつか審問会派の下級司祭と交代する」という宣言にしか聞こえないが、村人にとってみれば「死ぬまでこの村で司祭としての勤めを果たす」ように思えたことだろう。
ここまでの説法を通じてホフマン司祭に対する同志意識を高めていた村人たちが、この宣言によって感情を大きく揺さぶられたのは、実に当然のことだ。
ホフマン司祭も、自分の説法に手応えを感じているのだろう。彼の表情は冷徹な審問官の鉄面皮そのものだが、彼のトレードマークとも言える銀縁眼鏡の奥に隠れた瞳には、いわゆるドヤ顔めいたものが強く感じられる。
さて。ならば次は、私の番だ。
ホフマン司祭を侮るわけではないし、事実、彼は優れた司祭だとも思う。
それでも、私が日々相対してきた人たち――カナリス特捜審問官にハルナ3級審問官、パウル1級審問官に老マルタ、さらには彼らが教皇に相応しい人物として認めたユーリーン司祭という、筋金入りの神の僕たち――に比べれば、彼の気迫はあまりにも足りない。
それに、ホフマン司祭は私を窮地に追い込んだとでも思っているかもしれないが、ミョルニル派の〈渡り鳥の門〉として過ごした極限の3年間を思えば、こんなものは児戯に等しい。
だから――とっとと、ケリをつけよう。
今夜のうちに済ませておくべきことは、まだまだ多いのだから。




