アルール歴2182年 10月7日(+5時間)
――カナリス特別行動班武術顧問の場合――
――意識が戻ってくる。最悪の二日酔いを何百倍にもしたような吐き気とめまい、悪寒と痺れが襲ってきて、わずかに遅れて強烈な痛みが喉の奥からせり上がってきた。脳が揺れているのを感じる。視界は霧がかかったように定まらず、あらゆる内臓が刺すように痛い。
何が、起こった?
朦朧としながらも、そんなことを考える。
だがその疑念は、一瞬で解決した。ぼんやりとした視界の向こうに、憎きナオキの姿があったのだ。
反射的に、彼に躍りかかろうとする。
けれど身体はまったく動こうとしなかった。
代わりに言葉にならない激痛が全身を揺るがし、私は無様にも呻き声をあげていた。
私の呻き声に気づいたのか、ナオキがこちらに視線を向ける。
粗末な椅子に座ってなにやら書き物をしていた彼は、椅子から立ち上がると、私の前に立った。それでようやく、自分が椅子に座らされていて、かつ幾重にも拘束されているのだという事実に気がつく。
捕らえられた、のか。
だがいったい。どうやって?
部下たちは――部下たちはどうなったんだ?
痛みでフラフラする思考を必死で巡らせていると、ナオキは私の目の前で立ち止まった。
「そのまま死ぬから無駄だと医者は言ってたんだが……カナリスさん、やっぱりあんた、人間じゃあないよ。でも良かった。俺としては一度、あんたと話がしておきたかったんだ」
こみ上げる吐き気をこらえながら、私はナオキを睨みつける。
「まずは状況を説明しておこう。ここは――まぁ、どこでもいいだろう。どこだって一緒だ。ともあれ、あんたがザリナを殺したあの場所からは、そんなに離れちゃいない。
あんたらはザリナと赤牙団の精鋭部隊をぶっ殺したけれど、俺達はあんた以外の全員を殺った。あんたも右腕に矢を受けて、衝撃で右腕が千切れ飛んだけど、奇跡的に意識を取り戻した。
あんたに応急手当したのは、俺たちだ。言うまでもないけど、礼はいらない。そもそも重クロスボウの直撃を受けたら、普通の人間なら衝撃でショック死する。なのにあんたは生き延びた。いまこうやって俺があんたと話ができてるのは、ひとえにあんたの積み重ねてきた鍛錬の成果だ」
そう、か――私は……また、負けた、のか。
どうにもならない、重たい絶望が湧き上がってくる。
けれどそれと同時に、心の奥底から「まだ勝負は終わっていない」という言葉が蘇ってきた。見習い時代、師匠との模擬戦で叩きのめされては地面に倒れるたび、師匠が叫んだ言葉。
そうだ。まだ私は、死んでいない。
だからまだ、勝負は終わっていない。
身体的には一矢報いることすら叶わないとしても、それでもまだ、何かができる可能性はある――その可能性を、敵自身が広げた。明らかに彼もまた消耗し、油断しているのだ。
「さて。あんたと話がしたかったんだけど……何を話そうとしてたんだったか。
いやさ、俺もさ、ちょっとね、やっぱ動揺してるんだよ。
正直言うと、大声で適当なことを叫びながら、あんたをナイフでめった刺しにしてぶっ殺したい。そんな気持ちで一杯なんだ。
でもさ、俺は自分の手で直接人を殺せるほどの度胸が、ないんだよ。だからナイフを握っても、たぶん、俺にはあんたを殺せない。
だから――だから、何なんだろうな?
まあ、いいや。カナリスさん、何か俺に聞きたいこと、ある?」
支離滅裂なナオキの言葉を聞きながら、私は自分が為すべきことを考える。
現実的に言えば、私はもう死体だ。万に一つも逆転の可能性はない。だがもし十万が一、百万が一、勝機があり得るとすれば、それは時間を稼ぐことから始まる。
ナオキは私の部下も全員殺したと言ったが、それが真実である証拠はどこにもない。うまく狙撃から逃れた部下たちがこの場に突入してくる可能性は、限りなくゼロだが、ゼロではない。そしてその可能性をごくわずかでも増やすためには、少しでも時間を稼がねばならない。
だから私は咄嗟に、ダーヴの街において最も疑問に感じていたことを、ナオキに投げかけてみた。
「ケイラス司祭を、覚えているか? 帝都からサンサ教区に追放され、ダーヴで薬物カルトを仕切っていた男だ。そう――確か貴様はヤツからじきじきの脅迫状めいたものまで受け取っている。
教えろ。貴様とケイラスは、どんな関係だったんだ?」
私の問いを聞いて、ナオキは少し驚いたような顔をした。
「ははあ。ケイラス司祭、ね。いいところ突いてくるね、相変わらず。
でも悪いんだけど、結論から言うと、俺もよく分かってないんだ。『絶対にこれで正しい』っていう答えは、俺も持ってないのさ。
だから今から話すことの7割くらいは、俺の推測っていうか、妄想に近い。それを最初に断っておく」
――なんだと?
ではケイラスとナオキは、本当になんのつながりもなかった、というのか?
混乱する私をよそに、ナオキは滔々と語り続けた。
「まず話の大前提なんだけどさ。俺もケイラスも、もともとはこの世界の住人じゃあないんだ。といっても別に天国とか地獄とかから来たんじゃなくて、こことは別の、くだらなくて惨めでありふれた世界から、何かの理由で送り込まれた人間、ってこと。
はは、いきなり馬鹿げた妄想みたいな話になったな。
でもさ、本当なんだよ。それに同類は、俺やケイラスだけじゃあない。コーイン司祭ってのもそうだし、それからあんたらが崇めてる賢者アムンゼンってのも、ほぼ間違いなく俺たちのご同輩だ。
つうかさ、あんたらが『神代』と呼んでる、英雄と魔法の時代があるだろ? あれって要するに、俺たちみたいな連中が大量に――しかも戦争用の道具と一緒に――こっちに送り込まれてた時代みたいなんだよな。帝都の図書館で神代の叙事詩をいくつか読んだけど、どうもミリオタ大歓喜! みたいな状況だったっぽいんだ。あれだな、ゼロ魔とかダンバインとか、とにかくそんな感じだな。
でまあ、敵にも味方にもサイトやショウみたいなのが戦車だのロボットだのに乗って暴れまわるってのは、さすがに問題だ。神代の終わりってのは、つまりは、『そういう戦争はもうやめよう』っていう、休戦協定ってことだな」
ナオキの語る、文字通りの妄想は、私の心を妙に苛立たせた。
けれど今はそれを発露するべきタイミングではない。彼にもっと喋らせて、少しでも時間を稼がねばならない。
「だからケイラスと俺との関係っていうことで言うと、『もともと住んでた世界が同じでした』ってことになる。
だがなあ、俺が住んでた世界って、この世界に負けないくらい広いのよ。しかも人間がめっちゃいる。ざっと70億。すごい数だよな。だからケイラスが元の世界でどんなヤツだったかなんて知らないし、当然だけど会ったこともない。つうか本当に同じ時代の人間なのかどうかも、怪しい。テレビ伝道師なんて言葉がスルっと出てくるからには、冷戦華やかりし時代の人間なのかもな。
ともあれ、ここまでは話の枕だ。問題はここから先だな」
痛みのせいか、ナオキが話している言葉の意味がまるで理解できない。
それとも――本当にナオキは別の世界から来た人間で、彼はいまその世界にしかない概念について語っている、ということなのか?
「俺もケイラスがいったいなぜ――いや、なんのためにこっちに飛ばされたのか、そしていまの奴さんは何を狙っているのか、さっぱり分からなかった。実際、今でもわからん。
ただ俺は、ザリナの忠告に従って、2つの可能性に分けて考えてみた」
2つの……可能性? そんな少ないパターンに分けられるのか?
「この世界には、神と悪魔の力が働いている。こいつは間違いのない事実だ。ってことはほとんど疑いなく、俺やケイラスをここに送り込んだのは、神か悪魔だ。それ以外って可能性もあるにはあるが、まずはこの2つに絞ってもいいだろう。
じゃあ、ここで問題だ。ケイラスをこの世界に送り込んだのは、神なのか、悪魔なのか?」
薬物カルトを作るような男であれば、悪魔の手先で間違いあるまいに。
「俺にとっても、これはとんでもなく厄介な問題だった。なにせ完全なノーヒントなうえに、間違ったら即死まであり得るからな。
でもザリナが、気づかせてくれた。そんなのは、どっちでも一緒だってな。
だってさ、俺自身にしたって、俺をここに送り込んだのが神なのか悪魔なのか、よく分かってないんだ。それっておそらくケイラスも同じで、分かってなかったんだろう。
そうじゃなきゃ、帝都からド田舎に飛ばされるなんていうヘマをやらかしたケイラスは、俺を仲間と信じて助けを求めるか、敵と信じてぶっ殺しに来るか、ともあれそのあたり、なんらか探りを入れに来てたはずだ。
それすら思いつかない無能って可能性もなくはないが、神にせよ悪魔にせよ、そこまで極端な木偶の坊を送り込んだりはしねえだろ?」
――確かに。少なくとも帝都時代のケイラスは帝都で一番の人気司祭であり、次期教皇とも噂される強烈なカリスマの持ち主だった。
そして事実、彼は失脚後もダーヴの街を闇から支配し、我々の追跡をかわし続けるだけの能力を示し続けた。
「ところがケイラスがやったことと言えば、俺を怖がるかのように最低限の接触しかしてこないと思えば、自分が窮地に立たされると俺の事務所に意味不明な脅迫状を送りつけてきたりと、まるで支離滅裂だ。
つまりケイラスは、俺のことが敵なのか味方なのか読みきれなかったし、読もうとする努力もしなかったってことだ。
なぜ? 正確な理由は、わからん。わかるもんか。
でもいくつか推測は、できる。
ケイラスだって、俺が敵なのか味方なのか、悩んだだろう。でもよくよく考えてみると、俺が敵だろうが味方だろうが、あいつがやるべきことは一緒なんだよ。
俺が敵ならば、戦って排除しなくちゃならない。
俺が味方ならば――それでも、戦って排除するしかない。だって俺が味方だとすれば、俺のポジションってつまり、『帝都を追放された無能なエージェントをどうにかする』立場ってことだろう?」
私は思わず嘆息していた。
例えば私が――まさに今のように――任務にしくじったとする。そして審問会派は事態を収拾するため、増援として1級審問官を送り込んできたとしよう。
私ならば己の無力を恥じ、派遣された1級審問官の指示に従って行動することを誓うだろう。
けれどそれはけして人類普遍の行動方針では、ない。増援として訪れた1級審問官にとりあえず頭を下げて指示に従っておいて、チャンスを見計らって「殉教してもらう」という卑劣な策を弄する者は、審問会派の歴史においてすら、ゼロではなかった。
改めて、痛感する。ナオキは、恐ろしい。
彼が強いからではない。
彼は人間の弱さを、知り抜いている。
「いわゆる論理的な思考をすれば、ケイラスは俺を殺すしかなかった。
だのに彼は実質、何もしなかった。
要は彼は、そこで他人と喧嘩しよう、しなくちゃダメだと思いきれる人間じゃあ、なかったんだ。
彼は自分より格下だという確信のあるこの世界の人間相手には傲岸不遜に立ち回れたけれど、同じ世界から来た俺に対しては、童貞インテリ野郎っていう本来の彼自身を越えることができなかったんだよ。
ま、とはいえ一応の基本方針としては、俺と殺し合おうと思ってたみたいだけどな。
一時期あいつが突然いい子ちゃんになったのは、多分その兆候だ。あいつがダーヴの街で飼ってた信者どもを動かすためには、あいつは連中にとっての理想の教祖の顔を見せなきゃならなかったんだろう。
けれどそれまでと違って、あいつにはエミルっていう金魚の糞が24時間体制でくっついてた。結果あいつは外界でも、いい子を演じ続けるしかなくなったってわけだ」
ナオキの言葉を聞きながら、私はまったく別のことを考えていた。
もしケイラスが神の使徒であり、ナオキが大異端であるとしたら。
本人にはなんら非のなかったケイラスをサンサへと追放した教会は、抜本的に何もかも誤っているということではないだろうか?
その恐怖のあまり、私はその疑念を口走っていた。
だがナオキの答えは、想像を遥かに越えていた。
「俺としては、たとえケイラスが実は神の使徒だったとしても、あんたらがケイラスを殺した――まあ、事実上の殺しだよな――のは、間違いじゃあないと思うんだよ。
この世界は、この世界に生きる人間たち、つまりはあんたらのものだ。
あんたらが、あんたらの神様と一緒に悩んで、苦しんで、血を流して、ときどきちょっと笑ったりして、そうやって前に進めたり、ときには大きく後退したりして、七転八倒しながら、あんたら自身が変えていくべきものだ。俺たちみたいな余所者が、くちばしを突っ込むべきじゃあないんだよ。
だからあんたらがケイラスを排除したのは、一種の抗原抗体反応みたいなものだと思う。
実際、コーイン司祭だって似たような絶望感に耐えかねて自殺したんじゃないのか? 大昔に自分の同類が遺した〈計画書〉なんていう厨2スピリッツ満載の物体が、こっちの世界の人間たちの創意工夫を何百年も縛ってきたとなれば、頭がいい人間ならその場で死ぬしかないだろ」
高徳の老司祭もかくやという透徹した見解(半分くらいは意味不明だが)に、思わずナオキの顔をまじまじと見てしまう。そんな私に目もくれず、ナオキは語り続けた。
「これは俺の私見なんだけどさ。教皇に降りた大異端の啓示が示してたのは、ケイラスのことだと思ってる。
俺は俺でいろいろ理由もあるから、あんたらの神様についても詳しく調べてみたんだけどさ。なるほど、こりゃ良くできてると感心した。
その上であえて言えばさ、あんたらが持ってる神の概念って、宗教ってより、科学なんだよね。
宗教も科学も真実であるっていう一点では一緒なんだけど、宗教は信じている人間にとってのみ真実であるのに対して、科学は信じようが信じまいが真実であることに揺らぎがない。そう考えると、あんたらの神は、実に科学的な概念なんだよ。
だけど、ケイラスが語って、帝都の民衆に涙を流させた〈神〉は、それとは違う。
ケイラスが説法で強調した論点は、宗教であって、科学じゃあなかった。だからこそ帝都の民衆は感涙にむせぶことになったんだろう。要は彼は、市民どもにとってみると、情緒的でわかりやすく、かつ純粋だったんだ。
でもさ、だからこそ『ケイラスは異端だ』としか言いようがない。もし当時の教会が――ほとんど偶然だったとはいえ――ケイラスを追放しなかったら、今頃はフランシス説が吹っ飛んでたかもしれない。無学な民衆にとってみると、『クズみたいな坊主でも偉大な神の奇跡を行使できる』ってのは、どうしたって納得できんからな。ボニサグス派は全力で抵抗するだろうが、あいつら政治戦はからっきしだからなあ!
まあ、せめてケイラスがカソリック系なら良かったんだろうが。あいつの説法の記録を読む限りじゃあ、あいつの正体はかなりヤバいカルトの教祖様だ。あいつは無自覚な確信を持って、フランシス説をぶっ壊したと思うよ。
でもそうなりゃ――いったい、何人が死ぬことになるのやら、だ」
あまりにも衝撃的なナオキの言葉に、私は反射的に反駁しようとして、まるで果たせなかった。私は教理が主戦場ではないが、それでもなお、ナオキの主張に(ところどころ意味不明な単語が混ざるとは言え)スキはないように思えた。
だが。
それならなぜ、ナオキはこんなことをしたのか?
もしケイラスこそが大異端であり、ナオキはそうではないとする彼の説が正しいなら、なぜナオキは我々と戦う道を選んだのか?
だから私は、震える声で、究極の問いを放つ。
「ナオキ。
お前はいったい、何者なんだ?」
私の問いを聞いて、ナオキは小さく笑った。
「俺は、ただの小悪党だ。
生まれも育ちも、おっそろしくどこにでもいる、チンケな小悪党だよ」
薄ら笑いを浮かべる彼に、私はなおも食い下がる。
「それでは説明がつかない。どこにでもいる小悪党が帝都の政治を揺るがし、結果的に2人の教皇を殺し、1つの大貴族の血統をほぼ途絶えさせ、あげく我ら審問会派を赤子の手をひねるように打ち破るなど、あり得るものか。
もしそれが可能だというなら、帝国も教会も、とうの昔に瓦解しているだろう」
私の糾弾に、ナオキは表情を引き締めた。
けれどその口から漏れた言葉は、またしても完全に予想を越えていた。
「カナリスさん。それは、買いかぶりだ。あんたは俺を、買いかぶってる。
でもその買いかぶりを、俺は死ぬまでずっと誇りに思うよ。
だって俺は、俺にしてみれば圧倒的に格上のあんたを殺す、ただそれだけのために、すべてを仕組んできたんだから」
そう言いながら、ナオキは私の目を覗き込んだ。
私も負けじと彼の視線を受け止める。
「時代の天才ハルナ・シャレットから全幅の信頼を寄せられ、かつ、審問会派きっての武闘派。ハルナはあんたのことを『最強の審問官』と呼んだけれど、俺も完全に同意するさ。
だからこそ俺は何が何でも、あんたを殺さなくちゃいけなかった。あんたさえ殺せば、それこそあんたが軽蔑する今の教会なんて、恐れるに足りない――とまでは言わないが、俺にとってみれば必要十分な時間が稼げる。
もちろん、俺があんたの存在を知ったのは、あんたがダーヴの街に来てからのことだ。だから最初から何もかもすべてあんたを殺すために仕組んだ、ってわけじゃあない。
でもあんたと会ってからは、俺は自分の持つ何もかもを、あんたを殺すための伏線として仕込んでいった。寝ても覚めても、あんたのことばかり考えた。あんたならどう考える。あんたなら何に怒る。あんたなら何を利用する。ひたすら、そんなことばかり考え続けた。
幸い、日がな一日、ひたすらそれだけを考えるだけでいいっていう状況は、あんたらが作ってくれたしな」
ナオキの言葉は、驚くほど淡々としていた。
そこにはとても、人間一人を絶対に殺すと心に決めて、そのために無限の罠を張ってきた人間ならば持っているであろう執念や執着といったものは、感じられなかった。
それからしばらく、ナオキは黙り込んでいた。
けれどようやく意を決したと言わんばかりの顔になると「わけわかんないと思うけどさ」と前置きしながら、不思議な告白をし始めた。
「――俺はね、武術とか全然わかんなくてさ。
ガキの頃は喧嘩に巻き込まれたこともあったけど、まぁ雑魚のワンノブゼムでさ。鉄パイプとか釘バットとか振り回すようなガチ勢からは距離とってたし。そもそも俺、オタクだったしさ。
でもさ、俺が住んでた田舎だと、貧乏なガキの娯楽って言えば喧嘩とバイクとセックス、あとはアンパンくらいでさ。アニメとか漫画とか好きだってのがバレると、それだけでもうイジメとカツアゲのターゲットなわけ。ま、それでも俺は、アニメも漫画も隠れて見てたけどさ」
ナオキはそこでふと長く息を吐くと、数歩後ずさって、彼が最初に腰掛けていた椅子に座り直した。私とナオキの視線が、同じ高さになる。
彼は大きく深呼吸すると、机の上に置いてあった酒瓶を手に取り、ぐいっと煽った。結構な量が彼の口元からこぼれ、甘ったるい香りが室内に充満する。
「そうやってビクビクしながら生きてたんだけど、あるとき気づいたんだ。
ド田舎の不良どもってアホしかいねえからさ、バイクを盗んでくるのはいいんだけど、盗んだバイクがそんなにイケてないのを、どうしようもない。雑誌とかに出てくるみたいにペイントするとか、そういうパーツつけるとか、ほとんど無理なんだ。
で、ラッキーなことに俺の家は自動車整備の店っていうか、まぁほら、トラクターとか軽トラとかを整備する、ちっちゃな店をやってた。親父はもともと愛知のあたりで自動車のプロだったらしいんだけど、なんか会社と揉めて、それで田舎にちっぽけな自分の城を作ったってわけさ。まあ、上手くいかなかったんだけどさ。
ともあれ、俺は親父に頼み込んで、自動車整備を基礎から勉強させてもらった。
で、見よう見まねでバイクの修理もやってみた。工具とかは家に全部あるからさ。親父に指導されていろいろやってたら、半年もかからずだいぶメカに強くなったわけよ」
まくし立てるように喋るうちに酔いが回ってきたのか、ナオキの口調はひどく砕けたものになりつつあった。同時に、まるで意味不明な単語の量も増える。そのことは彼が「別の世界から送り込まれてきた人間である」という事実を、どうしようもなく裏付けるようにも思えた。
「あれ、何の話だったっけ? ああそうだ、武術な。そう、武術。
中3の頃には、俺はもう地元の不良どもの間じゃ、『神城モータースのナオキ』で名前が通ってた。あいつらがバイクをデコりたいとか、なんか調子が悪いとか、そういうご要望を承っては、小遣い程度のカネをもらってた。
そりゃ最初のころは無料だったけど、不良のチームのボスが俺に小遣いを渡してからは、まぁ最低でも100円くらいは手間賃を払ってくれた。エンジニアにカネを払うのがカッコイイ、みたいな、妙なブームができたわけ。
そうやって稼いだカネで、俺はゲームを買った。携帯ゲーム機な。
そりゃもう、アホかってほど遊んだよ。狂ったように遊んだ。俺がそういうオタクめいたことをしてても、『神城モータースのナオキはやっぱりオタクだった』ってのがちょっとした笑い話になる程度で済んだからな。エンジニアがオタクだってのは、シンナーで溶けた頭でも理解できたんだよ」
ナオキが酒を煽り、激しく咳き込んで、そのほとんどを吐き戻した。
それでも彼は、何かに取り憑かれたかのように喋り続けた。
「でさ。俺がハマったゲームにさ、でっかい剣とか振り回して、でっかい竜とかを狩るゲームがあってさ。でもそのゲームだと、でっかい剣を振り回すと、どうしても振り回したあとに隙ができるのよ。大技とか使うとスタミナも減るしさ。
まぁ、ゲームとしてはそれでいいと思うし、俺は全然それで納得してたんだけど。
たださ。現実が本当にそうなのかってことになると、怪しいんだよな。だって所詮ゲームだろ? ゲームではそうだからってところに、命を賭けるわけにはいかないじゃねえか。
だから俺はこっちに来て、ザリナの様子を見て、実際に話も聞いてみて、ああいうデカイ剣を振り回したら、やっぱり隙ってのができるってのを確認したわけ」
支離滅裂としか思えない、奔流のような自分語り。だが言葉の勢いに反して、彼の表情はほとんど動かなかった。
「ま、そういう、ことだよ。
俺は中坊の頃にハマったゲームの得意技を、再現してみたんだ。
まずは、わざと大振りの攻撃で、相手を痛めつける。
ダメージを受けた相手は、俺に隙ができたのを見て、全力で反撃に来る。
でもさ、そうやって全力で反撃したら、当然その敵にだって隙ができるんだよな」
言いながら、ナオキはまた酒を煽った。
「理想を言えばさ。最初の一発の大振りで、あんたを仕留められればよかった。でも、無理だったんだよ。どう考えたって。審問会派の中でも武闘派中の武闘派なあんたを一撃必殺で殺すなんて、とても無理だった。
それで俺は、最初の一発の大振りで、あんたの右腕を切り落とすことだけを考えた。
ハルナを潰せば、あんたは絶対に怒り狂う。そんなのはあんたら二人を見てりゃすぐに分かった。あんたは鍛え上げた鋼の理性で自分の怒りを封じるだろうけど、だからといって怒りの炎を消してしまえるわけじゃあない。
だからあんたはどこかでうまいこと理性と感情に折り合いをつけて、そのどっちもが納得できる筋道を立てた上で、俺を殺しに来る」
寒気にも似た怒りが――あるいは怒りにも似た寒気が、全身を駆け巡る。
だが「ハルナを潰す」という言葉に対して反射的に湧き上がった怒りにしては、それはどこか奇妙だった。
人として踏み越えてはならない一線のすべてを踏みにじるかのような策を淡々と口にするナオキに対して本能的に湧き上がった悍けにしても、それはどこか奇妙だった。
「あんたくらいに場数を踏んだ戦士なら、こう考えたはずだ――『俺が受けた痛みを数倍にして返してやる』ってな。戦士ってのは、そんなもんだ。そうじゃなきゃ暴力が横行する現場じゃあやっていけない。
だからあんたは、ハルナを潰された借りを返すために、まずは俺の右腕を潰しにくる。俺を殺すより先に、絶対に、だ。
そしてあんたはここにやってきて、俺の右腕を潰した。
あんたも頭では、ザリナを殺すよりも俺を殺すほうを優先すべきだって、分かってたはずだ。でも、できない。できないんだよ。それは、無理なんだ。人間、そんなに聞き分けよく、できてない。何かしら理由をつけて――状況的に見て仕方ないとか、そういう理由を見つけて――あんたはザリナを殺すチャンスを、確実にものにする。それはもう、仕方ないことなんだよ」
異様なまでの精度をもった洞察を聞きながら、私は己の内側で蠢く謎の感情に、戸惑っていた。
怒り。恐怖。あるいは、憎しみ。
それらの言葉は、今の私が抱いている思いを言い表すようで、それでいて茫洋たる違和感が残る言葉でもあった。
「でもさ、カナリスさん。あんたやっぱ、すごいよ。凄まじい。人間離れしてる。
俺はあんたが怒りに飲まれて、後先考えずに俺をぶっ殺しに来るはずだと、少なくとも2回ほど確信した。でもきっとあんたは、自分の怒りがどこかおかしいことに、本能的に気づいてたんじゃないのかな。本能的ってのがアレなら、あんたが積み重ねてきた鍛錬が、あんたに俺の罠の本質を囁いてたんだよ。
だからあんたは、自分の怒りに対してひどく懐疑的であり続けた。そのせいでまわりから見りゃあ、あんたはどうにも優柔不断で首尾一貫しない男に見られたかもしれない。でも、それで正しかったんだ。実際、あんたはザリナを殺す前の段階で、『自分が怒りで我を忘れるように仕向けられている』ことに、気づいてたよな?
あんたは結局、俺の罠を完全には踏み抜かなかった。あんたがどこにでもいる戦士でしかなかったら、あんたはザリナを殺してから、あいつを死姦してただろう。それくらいのことを、俺はあんたに仕掛けたんだから。
あんたの冷静な判断力は、ほとんど崩れなかった。いまあんたが死にかけてて、俺があんたの目の前で酒を飲んでるのは、純粋に、運の采配だ。立場が逆になってる可能性は、いくらでもあった」
ナオキの言葉はどうしようもなく平板で、そこからは何の思いも感じ取れなかった。
そしてこの期に及んで私は、彼との対話の決定的な異常さに気づいた。
彼はこの場における紛れもない勝者であり、しかもその勝利は教会にとってみれば歴史的汚点としか言いようがないほど、とてつもない偉業だ。彼は己の勝利をもっと誇っていいし、むしろ誇ってもらわないことには我々が惨めすぎる。
けれど彼は己の勝利に胸を張るどころか、我々の健闘を惜しみなく称えるばかりだ――否、むしろ彼は自分が勝ってしまったことを、激しく悔いているようにすら思える。
そして彼のそんな態度を、私はここに至るまでごく自然に受け入れていた。
もし私がそこらの異端者と戦い、今と同じように敗れて捕らえられたなら。私が意識を取り戻したことに気づいた異端者は、私に向かって大いに己の勝利を誇り、教会の無能さを嘲り、私を殴りつけたり痛めつけたりしながら、自分が仕組んできた驚天動地の策謀を滔々と語っていたことだろう。
けれど意識を取り戻した私は、そこにナオキを見て、「彼はそんなことはしないだろう」と無意識のうちに感じた。事実、彼は私から問いかけるまで己の判断や計画を口にしなかったし、それらを語る態度はひどく淡々として他人事のようですらあった。
「だからまあ、あんたがやらかした失策は、ひとつだけなんだ。
あんたはザリナを、俺のパートナーであり、右腕だと考えた。それがあんたらの、大きな大きな間違いだったんだ。
ザリナは、俺の右腕じゃあない。あいつはあくまで、俺にとって最高の剣にして盾だった。
要はさ。俺にしてみれば、あいつはとっかえが効くんだよ。
でもザリナが俺と愛人関係なのを知ってたあんたは、ザリナこそが俺の右腕で、あいつを失わせることで、自分がハルナを失った痛みをお返しできると思い込んだ」
だからこそ私は、ナオキが微笑みとも嘆きともつかない表情を顔面に貼りつかせたままそう口にしたとき、思わず叫んでいた。
叫ばずには、いられなかった。
叫んでやらずには、いられなかった。
「つまり貴様は、いつか来るこういうときのために、ザリナと偽りの愛情を育んでいたというのだな?
最初から彼女を囮として死地に送ることを計画して、彼女と寝ていたのだな!?」
私の叫びに対し、彼はまるで怯まなかった。だが彼と相対した者なら誰でも漠然と感じるであろう、彼の「そこはかとないニヤニヤ笑い」もまた、きっぱりと消え失せていた。
「そんなことは、ないさ。俺がカナリスさんの存在を知る、そのずっと前から、俺はザリナと寝てた。繰り返しになるけど、俺があんたを殺そうと覚悟を決めたのは、あんたとダーヴの街ではじめて会った、そのときなんだから。
でもまあ――いつかザリナをこんな形で消費するだろうとは思ってたし、あいつにも面と向かってそう告げたことだってある。
結局さ、ほら、なんていうか、保険だよ。保険。
そうなるかもしれない。ならないかもしれない。
そこで『絶対にならない』と確信できるほど、俺は神だの愛だのを信じてなくてさ」
やめろ。
そう、叫びたかった。
彼は、芸術的なまでに完成された詐欺師だ。
つまり彼が本気を出せば、我々が心の奥底に隠している弱みを見抜き、我々を翻弄し、そして我々が勝手に自滅していくのを、ザリナと二人で遠くから笑って見物できたはずなのだ。
だのになぜそこで、保険を使い潰すことを前提に、策を講じたのか。
「ザリナは、期待に応えてくれた。
さすがのあんたでも、ザリナを殺るには全力を出し切るしかなかった。
あんたの内側にある怒りを、出し尽くすしかなかった。
だから『まずザリナ殺って、そのまま俺も殺る』っていうあんたの予定は崩れて、あんたはザリナのために大振りするしかなかった。
そうやってザリナを殺し、怒りを燃やし尽くしたあんたは、想定外の隙を晒すことになったってわけさ」
やめていいんだ。
そう、叫びたかった。
彼の言葉はことごとく、彼自身の身と心を貫いていた。
彼は自分がどうしようもなく邪悪なことをしていることを存分に理解していて、かつその邪悪を実現するために必要な諸事を遺漏なく整えられる人間だ。
だから最高の保険が用意できたなら、その保険を使い潰す可能性だって計画の内側に入れざるを得ない。そこには実のところ、彼の意思など関係がない。彼はそうしなくてはならないのだ。
だがいまや、彼が成してきた幾千の選択のひとつひとつが、彼を責め立てている。
彼しか把握できていない無数の悪事が、彼を「お前は大悪党だ」と訴えている。
そしてこの圧倒的なまでの告発を前に、彼はとまどい、怯え、うろたえている。
己が大悪党であることを悔い、にも関わらず大悪党に下るべき天罰がいっこうにくだる気配がないことに、戸惑っている。
つまり彼は、どうしようもない、小悪党なのだ。
彼が語ったとおり、救いがたい、小悪党なのだ。
己の卑小さを憎み、呪い、嘆き、克服しようと奮闘し、それでも悪事や怠惰をなし、その挙げ句――なんたることか良心の呵責に苦しむ、どこまでもちっぽけな人間なのだ。
だからいま私が彼に感じている言葉にできぬ感情を、あえて言葉にするとしたら、それは怒りでも恐れでもなく、「後悔」ということになるだろう。
私は、彼が内心で強く願っている自業自得の破滅を、彼の下に導けなかった。
あるいは彼が罰せられることを望む、それそのものを避けさせることも、できなかった。
ああ、神よ。
それは、誰にでもできることだった。
ただ彼に面と向かい、真摯に「私はお前のために祈ろう」と告げる。
それだけで、よかった。
気づきと言うには、あまりにも手遅れに過ぎた、気づき。
とはいえ私はひとつ、己の怒りと信仰に賭けて保証できることがある。
私の見たところ、ナオキには才能がある。
世紀の大悪党になって――あるいは神代を思わせる英雄となって、何十万人もの人間を死地へと送り込む。そんな才能がある。
けれど彼は、その最後の一歩を、自制し続けた。
あるいはその一歩を踏み出す、勇気を持ちえなかった。
私が最後の最後までハルナの愛に真っ向から答える勇気を持ちえなかったように、彼もまた己が引いた最後の一線を踏み越える勇気を持ちえなかった。
そして私が今なおハルナに面と向かって愛の言葉を語り得ないであろうがごとく、彼もまた己に課した最後の一線は越えられずにいる。
だから。
だから彼は、この壮大な陰謀を、仕組んだのだ。
ハルナを辱め、帝国を混乱させ、ザリナを使い潰し、私を殺すという、この極限の策謀すら、彼の本命の前には、小さな絵図でしかない。
「――だから、ライザンドラなのだな」
私の問いに対し、ナオキは心底驚いたという顔になったが、すぐに何度も頷いた。
「さすがだな、カナリスさん。その通りだ。その通りだよ。
俺の本当の右腕は、ライザンドラだ。
いや、右腕なんかじゃあない。
俺が託したのが、ライザンドラなんだ。
だから俺は、あんたらにライザンドラの教育を委ねた。
俺みたいにチンケな小悪党じゃあ、あいつには教えられないことが山ほどある。あんたらには、あいつにそれを仕込んでほしかった。
その意味でも、あんたとハルナには――それからあんたの師匠にも、パウルにも、もちろんユーリーン司祭にも、俺は感謝してる。いや、あんたらを、心から尊敬してる。
今のあいつなら、成し遂げられる。
あんたらの魂を引き継いだあいつなら、やれる。
俺には越えられない最後の一線を、あいつなら踏み越えられる。
踏み越えて――その先の戦いを、勝ち抜ける」
そう語るナオキの顔は、苦悩と苦痛にまみれていた。
それもまた、わかる。わかって、しまう。
彼が我々を尊敬すると言ったその言葉に、嘘はない。
おそらく彼は、何度も本気で夢見たのだ。
私とハルナがザリナと轡を並べて先陣を務め、師匠とパウルが背後を固める。そしてユーリーン司祭がもたらす叡智のもと、ライザンドラが総指揮を取って、この世界に蔓延るあらゆる不正と困難を打ち砕く――そんな仲間の一員として、例えば金勘定の分野でちょっとした寄与をする、とか。そんな夢を、本気で、思ったのだ。
でも、そうはならなかった。
そうできない理由が、彼にはあった。
理由の具体的な内容までは分からないが、そんな理由は、人生にはいくらでもある。おそろしくくだらない、ありふれた理由として。どうにも馬鹿馬鹿しい、些細な行き違いとして。無残なまでに、そこらじゅうに転がっている。ただただ苦悩するしかないほど、そこら一面に、転がっている。
だからつい、私はナオキに聞いてしまう。
そんなことを聞いても、何にもならないというのに。
「ナオキ。
お前は何をしたかったんだ?
それは本当に、ザリナと一緒に歩む人生より、望ましいものだったのか?」
馬鹿げたくらい、無駄な問い。
だからナオキもまた、馬鹿げたくらいに畏まった口調で、問いを返してきた。
「カナリスさん。
あなたは、何をしたかったんです?
それは本当に、ハルナと一緒に歩む人生より、望ましいものでしたか?」
思わず、苦笑してしまう。
そして――さらに馬鹿げたことに――そんな私に、ナオキは酒瓶を差し出してきた。なるほど、普通ならこれはもう飲まずにはやっていられない問答だ。
だが、茶番はここまでにしよう。
私はナオキではないし、ナオキは私ではない。
つまり私は審問会派の2級審問官であり、それ以前に、一人の司祭だ。ナオキという偉大にして卑小なる敵――つまりはどこにでもいる悩める子羊の、馬鹿馬鹿しいまでに平凡な苦悩に寄り添ってやれなかった責任は、負わねばなるまい。
だから私は首を横に振って、ナオキの酒を拒絶する。
「ナオキ。私がそれを飲めば、君は私を殺せなくなるぞ」
酒を拒絶されたナオキは、一瞬だけきょとんとした顔になったが、すぐに表情を引き締めた。つまり、私がはじめてナオキに会ったときのような、どこかとぼけていて、なんとなく不真面目そうな、そんな顔になった。
それから彼はテーブルの上に広がった書類をかき分け、一本の鎧通しを手にする。おそらくは、ザリナが愛用していた鎧通し。実にナオキらしい、用意周到さ。ザリナのことを思い出す武器を手にすれば、私を殺せると踏んだのだろう。
けれど鎧通しを手にしたナオキは、凍りついたように動きを止めた。
この期に及んで、臆病風に吹かれているのだ。
まったく。そんなやわな根性で、なぜ我々の仲間になれるなんて夢を見続けられたのか。
だから私は、最後に少しだけ意趣返しをすることにした。
残念な小悪党たる彼の魂のために祈ってやるというのは、いまさら無理な話だ。ハルナを踏みにじり、また私からハルナを奪った男のために祈ってやれるほど、私は人間ができていない。
私が彼にしてやれることと言えば、教訓を残してやることだけだ。
たとえ利き腕を失い、椅子に縛り付けられてもなお、殴られたら必ず殴り返す生き物が審問官であるということを、彼の魂に刻み込む。それが生涯最強の敵が達成した偉大な勝利に対する、私が成すべき祝福――あるいは手向けだ。
「ナオキ。君に、ハルナが最後に作った唄を贈ろう。
全編は、あまりに長い。だから一番肝心な、最後の節だけを、贈る。
そしてこれをもって、ハルナが為す君への報復としよう」
ぎろりと、ナオキが私を睨みつける。
私は目を閉じ、最後に己の内側に湧き上がった怒りを想いながら、ハルナの作った詩を口にする。
「天に自由を。
地に希望を。
我らの魂に、平穏あれ」
その詩を口にしてから、数瞬の後。
私の心臓に冷たい痛みが走り抜け――そして何もかもが静けさの中に溶けていった。




