アルール歴2182年 9月9日(同時刻)
――老マルタ特別顧問の場合――
「師匠。
最後にひとつ、伺いたいことがあります」
ライザンドラ・オルセンはその怜悧な双眸を儂に向けると、静かに口を開いた。
「老マルタ特別顧問。
あなたはひとつだけ、嘘をついておられませんか?」
——こやつめ。儂があえてぼかして語ったことの真意を、読み取ったか。
だがそれも、むべなるかな。彼女はおそらく、ハルナ・シャレットよりも切れる人間だ。狂気の淵にあってなお周到なる計画を練り、ごく限られた協力者の助力を得ただけで教皇の暗殺に成功した、あのハルナよりも。
ともあれ、看破されたからには仕方あるまい。様式美として、無駄なあがきのひとつでもしておこう。
「ほう? 儂がどんな嘘をついたと、貴様は論難するつもりだ?」
軽く脅すような言葉を選んではみたが、我ながら虚仮威しも甚だしい。
実際、ライザンドラ・オルセンは何の恐れも迷いもなく、儂の嘘のど真ん中に飛び込んできた。
「師匠は『審問会派としては、老マルタに今すぐ完全に引退してもらっても構わないのだ』と脅されすらした、と仰られました。これは嘘ですね?
状況から鑑みて、審問会派の上層部は既に師匠の正式な引退を決議しているはずです。今月末をもって師匠は正式に審問会派から引退し、カナリス2級審問官も閑職に回される。特別行動班にも大幅な人事異動があると踏みます。
なんにせよ、いわゆる老マルタ派の影響力を審問会派から完全に拭い去る——そういう合意だと考えなくては、いくらなんでも審問会派が勝ちすぎです」
まったく、実に手に負えぬ見習いだ!
儂は渋い顔をする気力すら湧かず、むしろ思わず苦笑してしまう。人間、本当にお手上げになると、泣くよりも笑うものだ。
「貴様の推測は、一分の隙もなく正しい。
儂はまさに、貴様が指摘したとおりの勧告を受けておる。
そしてそれゆえに、もはや語るべきことはない。貴様の最後の問いに答えを返すとすれば、それ以外の言葉はあり得ぬ」
うっかりすると虚無に喰われそうになる心を叱咤しながら、儂は精一杯の威厳を保つべく背筋を正し、最後の弟子に対してそう答えた。
けれどこの規格外の弟子は、いたって真面目な表情のまま、さらに儂の臓腑の奥深くへと食らいついてきた。
「師匠。
実を申しますと、最後にひとつ伺いたいことがある、と申し上げたのは、嘘です。
ですが師匠も1つ嘘をついていたわけですから、ここは嘘吐き同士、痛み分けということでよろしいでしょうか?」
ええい、小賢しい! 老いたるとはいえ審問官に対し、なんたる詭弁を弄するか!
だがこの詭弁は、実に小気味よい詭弁だ。
それゆえに儂は同意も否定もせず、彼女の言葉の続きを待つ。
「では改めて、今度こそ本当に、最後の問いです。
師匠は今回、我々が敗北した理由はどこにあるとお考えですか?」
——その言葉を聞いたとき、おそらく儂は、心の底から、恐怖を感じていた。
勝負を捨てた人間は、自分がなぜ負けたかなど、今更考えたりはしない。
「なぜ負けたか」という問いは、「次こそは勝利するために何をすればいいか」という問いなのだから。
つまりライザンドラ・オルセンは、この極限の隘路に追い詰められてなお、まだ戦う気なのだ。
一度ならず二度までも、己の何もかもを奪われたのみならず、彼女に何らか手を貸すこと自体が政治的リスクとなるように仕向けられたこの現状に直面してなお、まだ戦うと——勝つか、死ぬか、そのどちらかが確定するまで戦い続けると、宣言してみせたのだ。
儂は、自分は特に優れた人間ではない、という自覚がある。
優れた人間というのは、例えばコーイン司祭のような、ああいう異能を指す言葉だ。
儂が他人より秀でたところがあるとすれば、儂はとびっきり頑固で、とびっきり負けず嫌いだという、その一点に尽きる。
だがその儂をして、ライザンドラ・オルセンの尽きせぬ闘争心には、もはや本能的な恐怖を感じていた。
そしてそれゆえに、彼女の問いに対する完璧な答えもまた、己のうちに見出していた。
だから儂は、彼女の問いに対し、問いで返す。
彼女が本当にこの先に踏み込む資格があるのか、仮にも師と呼ばれた以上は、確認しなくてはならないから。
「ライザンドラ見習い。その問いには、先に儂の問いを返そう。
これから貴様は、何をする?
これから貴様は、何のために戦う?」
ライザンドラ・オルセンはすらりとした首筋を正しながら、私の目を真正面から見ると、言った。
「私は神を、殺します。
神を殺すために、戦います」
彼女の気迫は、本物だった。
儂は何人もの異端者と対峙し、その狂える信仰を喝破してきた。だが氷点下の炎のごとく燃え盛る彼女の双眸を前に、儂は明らかに気圧されていた。
だが気圧されたからと言って、ここで退くことはできない。
儂は腹の底に力をこめて彼女の瞳を睨み返すと、さらに彼女の覚悟を問うた。
「今度こそ、それは明らかなる異端となるぞ?
貴様は教会のすべてを敵として、それでもなお勝つつもりか?」
儂の渾身の問いは、彼女を小揺るぎすらさせられなかった。
「今月末をもって、私がそれを望もうが望むまいが、教会のすべては私の敵となります。ですからそこは問題になり得ません。
そして私が異端であり、神の敵であると老マルタに認めて頂けるのであれば、それはむしろ望むところです。
今度こそ、私は神の敵として、神を殺します。
他人に与えられた言葉ではなく、私の信念として、私は神を殺します」
研ぎ澄ました刃のような彼女の言葉を前に、儂は必死で返す言葉を探す。
だが、辛うじて見出した言葉は、我ながらあまりにも弱々しいものでしかなかった。
「なぜ、神殺しなのだ?
貴様の若さと、そして貴様ほどの才能があれば、今の窮地すら軽やかに脱した後、ゆっくりと時間をかけて教会と帝国を正しい方向に導くことも可能であろうに。
なぜそこで、性急な道を選ぶ? その道の先で無辜の民が無数に死んでいくことくらい、貴様は理解しているはずだ!」
ライザンドラ・オルセンはふと彼女の右手に視線を落とすと、右の手のひらを少しの間、見つめてから、改めて儂を見た。
「——私がハルナさんの部屋に踏み込んだとき、ハルナさんの部屋にはたくさんの積み木が散乱していました。
調書によると、結婚式の前日の段階では、ハルナさんは大量の積み木を使った塔を作っていた、とあります。つまりハルナさんは決行の朝、それまで時間をかけて作ってきた塔を自分の手で壊した、ということになります。
私はずっと、その意味を考えていました。あのハルナさんが、ただ単に凶器を隠し、また取り出すだけのために、こんなことをするはずがない、と」
再び、ちらりと彼女の視線が自分の右手に向かう。
あたかもそこに、ハルナ・シャレットの返り血がこびりついているかのように。
「おそらく、ハルナさんはこう言い残したかったのだと思います。
帝国も、教会も、もう壊れてしまったのだ、と。
私たちは、目の前にある塔がもはや残骸に過ぎないと知りながら、『ここでたくさんの人が生活しているのだから、これは廃墟ではなく、立派な塔なのだ』と思い込もうとし続けている。『たとえ廃墟であったとしても、この廃墟までもを壊してしまったら、とんでもない数の人が無意味に死ぬ』ことを、免罪符として」
そこまで言った彼女の瞳が、やや陰る。
そしてその口からは、血を吐くような言葉が漏れた。
「それが一面の正義であることは、否定できません。
私はかつてダーヴの街の娼館で、客に首を締められながら犯される専門の娼婦として働いていました。私を囲む世界は明らかに破綻していたし、私の生活も完全に破綻していましたが、それでもなおそこに小さな喜びはあったし、その生活によって守られる平穏もありました。
でも、その小さな安寧を守るために巨大な破綻が再生産され続けることを許容しろと言うならば、それはまったくの詭弁です。それこそ『お前の給金は俺がくれてやっているのだから、お前は俺に殴られても幸せなんだ』と言い張る腐った女衒が振り回す、子供じみた暴論でしかありません」
彼女の言葉を聞きながら、儂はかつて彼女に語った説教を、彼女が完全に体得していることを確信した。
彼女はもはや、『災厄が迫るとき、頭を低くし、体を小さく丸めて、災厄の通過を待つ』人間ではない。『腹の底から大声を出して、災厄が迫ると思しき方向に向かって走る』、立派な喧嘩師なのだ。
「もちろん、明日には誰か天才が現れて、実際にはただの廃墟でしかないこの帝国と教会を上手く建て直すという奇跡が起こるかもしれません。
そこまででなくとも、廃墟の瓦礫をうまく整理して、ありもので騙し騙しごまかしながら、ゆっくりと塔を——たとえかつてほど壮麗でなかったとしても——再建する道筋をつけられる人間が現れるかもしれない。
そして師匠は私に、そういう人間になるのではダメなのかと仰っておられるのも、理解できます」
その通りだ。そしてそれは、彼女にはけして選べぬ道だ。
なぜなら儂は、彼女をそのように導いたのだから。
「ですが、私はそんな聖人にはなれない!
かつて私は、帝国と教会が必死で守る廃墟から、体と心を穢された挙句、追い出されました。
そして奇跡的に再び廃墟の都に戻ってみれば、彼らは今度は私から友も師も奪い、僅かに残された名誉すら踏みにじって、再び私を廃墟の外に追い出そうとしている。
それでもなお、私はすべてを受け入れ、許し、彼らのために力の限りを振り絞って奉仕しなくてはなりませんか!?
仮に、そうやって奉仕することが無辜の民のためだと思おうにも、今の教会と帝国に実現できているのはせいぜい、その無辜の民にちっぽけな安寧を与える代わりに、それ以外のすべてを毟り取るような蛮行ばかりです。そんな連中に奉仕することが無辜の民を救う道だと信じられるほど、私は無垢ではありません!」
ああ、まったく。彼女は見事なまでに、審問官だ。
ハザイ書には「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という言葉があるが、審問会派はこの見解を支持しない。「右の頬を打たれたら、相手の右と左の頬を張れ」という心意気なしに、異端者と戦うことなどできない。
なお理想を言えば「こちらの右の頬を張ろうとするモーションが見えたところで、先に敵の右頬を張り飛ばして昏倒させろ」だが、そこまで行くと社会生活にやや差し支えるのが難点だ。
……とはいえ、それでもやはり、師としては確認せねばならんことがある。
「その言葉は実に立派だが、貴様は思い上がってはいまいか?
なるほど今の教会と帝国は、貴様の言葉を借りれば、腐れ◯◯の女衒野郎そのものと言えよう。だが彼らが民衆に『ちっぽけな安寧』をくれてやっているのは、事実だ。
貴様は帝国と教会の精鋭が必死に生み出しているその『ちっぽけな安寧』以上のものを、迷える衆生に与えることができるとでも思っているのか?」
なんとも月並みな言葉だし、普通はこの手の言葉はただの言いがかりだ。人間には不可能なことを「お前にそれができるのか?」と聞いているのだから。
だがライザンドラ・オルセンは、不可能を可能とするだけの力がある。それに彼女は、儂の論難とはまったく違う——そして正しい——方向を見ている可能性もある。
その予測は、違わなかった。
「いいえ。私がどんなに同志を集めても、今の帝国と教会が衆生にもたらしているような『ちっぽけな安寧』の、万分の1ですら実現できるかどうかは怪しいでしょう。
ですが私は、そもそもそれを目指してはいません。それに私はこの戦いのどこかで無残な死を迎えるでしょうから、『私ならば衆生に安寧を与え続けられる』などと言うのは不誠実の極みです。
私にできるのはただ、いつの間にか忘れ去られようとしている物語を、もう一度語り直すことだけです。
相手が誰であれ——あるいは何であれ——間違いに対して『それは間違っている』と声を上げること。この当然の行為を、今の帝国と教会は……いえ、市民たちですら、『わがまま』『無知』『甘え』といった物語で封殺しようとしています。
ユーリーン司祭が『己の命を賭す』ということがいかなる行いであるかを物語として残し、パウル1級審問官が『理想に殉じる』ことがいかなる行いであるかを物語として残し。あるいはハルナさんが『今のこの世界において一人の人間として生きる』ことの苛烈さを物語として残したように。
私は、『それは間違っていると声を上げる』ことを、語ります。そしてそれが、私についてきてくれる人々に私が与えられるものの、すべてです」
見事。彼女はまことに、毅い。
まことに毅い審問官に、育ってくれた。
審問会派とボニサグス派は長年の宿敵ながら、なんのかんので長年に渡って協調体制も取っている。それは両派とも、間違いに対しては「それは間違いだ」と一切の空気を読まずに断言することを、派閥の基盤に置いているからだ——もっとも我が審問会派は社会との接点が多いぶん、高位の審問官であればあるほど、「間違いだ」と言うタイミングを測る能力が要求されるのだが。
だが今の審問会派は、どうしたら「間違いだ」と最後まで言わずに誤魔化しきれるかにばかり血道をあげる連中が幅を利かせている。そしてそれに呼応するかのように、ボニサグス派のトップたちも「間違いだ」と断じない人間ばかりになった。
だからこそ、ただの見習いに過ぎないライザンドラ・オルセンが「それは間違っていると声を上げる」ことの必要性をここまで強く訴えるのは、審問会派としては実に憂慮すべき事態であると同時に、彼女が真っ直ぐに育ってくれた証拠でもある。
さてさて、それでもなお、意地悪で頑固な師匠としては、質しておくべきことがある。
「なるほど、貴様の主張は理解した。だが、ならば改めて問わねばならん。
貴様の求める道は、神殺しという道とは必ずしも一致するまい。
なぜ貴様は神殺しを求める? 教会組織のみを破壊するのでは足りぬのか?」
実のところ、これは儂にとっても答えの見えない部分だ。
彼女の情熱は、あえていえば、教会や帝国に対する抗議にある。
なのになぜ、神そのものまで否定しようとするのか?
この疑問に対し、彼女は聖ユーリーン——いや、ユーリーン司祭の言葉を引いて答えた。
「私はかつてユーリーン司祭から、『神の実在を、人は証明できない』『ただし、神を信じているという己の心が存在することは、間違いない』『ゆえに、自分は神を信じると確信すること以外に神を信じる方法はないし、そこが循環する以上、あらゆる迷いや悩みもまた信仰の一部である』といった趣旨の説を聞いたことがあります。
ユーリーン司祭らしい実に刺激的な説ですが、極めて重要な真理を突いていると、私は感じました。また、コーイン司祭の『あらゆる愛は等しく偉大である』という言葉も、ユーリーン司祭の説と根底で合致していると考えます——愛とはすなわち迷いにして悩みであり、それが信仰の一部であるならば、すべての信仰は等しく偉大という教会の大原則に立ち戻ることになりますから」
——なるほど。儂は教理は専門ではないが、彼女の理論がどこに向かおうとしているかは、儂にも漠然と見えてきた。
「でも、今の人の心にある『神』は、『私は神を信じている』という、この最も基本となる意味に対し、本質的には——いえ、実のところ形式的にすら価値を認めていません。
今の聖職者は、神がその力を裏付ける教皇を頂点としたヒエラルキーと、そこからもたらされる権力とカネを信じています。それがあれば、自分が世界を救えると信じて。
帝国貴族は、聖職者がもたらす〈豊穣の儀式〉や、あるいは裁判における各種儀式を信じています。それがあれば、自分が世界を良くできると信じて。
それ以外の、多かれ少なかれ貧しき人々は、教会や帝国貴族が執り行う祭儀——有り体に言えばお祭りやパーティで配られるお菓子とワインを信じています。それがあれば、自分にいっときの安らぎがあると信じて。
つまり我々はいつしか、形式を通じて神を信じるのではなく、神を信じるという形式と、その形式が己にもたらす実利を信じるようになっています。これはあまりにも危険な状態だとしか言いようがありません」
おそろしく辛辣で、かつ、絶望的なまでに正しい指摘。
3級審問官になりたてのパウルが、地方の小さな異端教団を摘発し、信仰を正常化するという初仕事(といっても「信仰の歪みを強く叱責し、是正の指導をする」程度だが)をこなした後、儂に向かって「あの異端者たちのほうが、帝都市民よりずっと信心深かったですね」と言い放った(そして儂に全力でぶん殴られた)あの頃から——そして実のところもっともっと昔から——連綿と続く、本質的な問題だ。
無論、形式的な信仰であろうが、真心からの信仰であろうが、それらの信仰に貴賎はないというのは、今の教会における信仰の大前提だ。しかしそれはあくまで神を信じるという意思をどう表明するかという点における問題でしかない。
神を信じるという形式を満たすための形式を追い求め、神を信じるという形式によってもたらされる富を信仰するような状況が続けば、ライザンドラ見習いが指摘する通り、いつしか人は神を見失ってしまうだろう。
「もちろん、私も教会組織の必要性は否定しません。そこに階梯が生じるのも、健全な組織にはむしろ必須だと思います。ですがその組織や階梯を形成するために、神は不要です。
〈豊穣の儀式〉や裁判関係についても同じです。人間が工夫を重ねることでも、収量の増大は可能だという報告は各所から上がっています。裁判においては何をか言わんや、です。もっと法学を整備し、法学者を育てればいいだけのこと。ここにも神は不要です。
民衆が求めるお菓子やワインもまた、神とは微塵も関係ありません。
結局、我々は人間が自分で努力すれば何とかできる領域に対して安易に神の力を求め、その一方で本来は神に委ねるべき領域を人の手で捻じ曲げ、押しつぶし、欲望のままに貪っています。このままであれば遠からず我々は、根源たるべき信仰に対し『それはなんの役に立つのか』『実利がないものに投資はできない』と言い始めるでしょう。
ここまで歪んでしまった神と人との関係を正常化するためには、いま我々の心の中にいる都合の良い神を殺す覚悟が必要となる。そして『今の人と神との関係ではないほうが、人はより幸せに生きていけるのではないか』とたくさんの人が想像すること——私はこれこそが神殺しの本質であると考え、それゆえに、神を殺すことを目指します」
彼女の宣言は、もはや異端どころか異教と言うべきレベルではあったが、それでもなお儂の心を強く打った。
確かに、いつしか我々は神と人との関係を考えるにあたって、「奇跡」という実利を持ち出すことを躊躇しなくなっていた。帝国にとって教会を保護する理由は〈豊穣の儀式〉にあるし、教会上層部が最も恐れるのは〈豊穣の儀式〉が滞ることによって大規模な凶作が発生し、帝国市民の間に神への不信感が広がることだ——そこから始まるダウンスパイラルは、文字通り文明を後退させる危険性すらある。
その大規模なカタストロフが見えているからこそ、儂ですら心のどこかで、神と奇跡を同一視している部分は、確かにあった。冷静に考えれば、その2つはまったく異なるものであるにも関わらず。
そして審問官として考えると、まさに信仰の歪みとしか言いようのないこの大規模な概念汚染は、見過ごせない。
ジャービトン派が常々訴える「〈豊穣の儀式〉の失敗による連鎖的なカタストロフ」が社会に甚大な被害を発生させるのは間違いないが、ライザンドラ見習いが指摘した「神がもたらす実利を信仰する」という異常をこのまま見過ごせば、いつか発生するであろう破綻は、最悪、人類を滅ぼす。
パンなくして人が生きていけないのは絶対の事実だが、だからといってパンを信仰するのであれば、それは禽獣と変わらぬ。人間の形をした野獣が、「パン」という神を巡って相争う世界——これをもって「人類は滅びた」と評さずして、何と評すに値しようか。
であるならば、儂が語るべきことは、もはやひとつだ。
「万事、諒解し、納得した。ゆえに、貴様の望む所に行き、貴様の望む者として、貴様の望むことを成せ。
審問会派が貴様をバックアップできぬのは無念の極みだが、もとより神殺しを審問会派が援助するということもあり得ぬ話だろう。そこは貴様も諦めよ。
だがひとつだけ、儂から個人的に、貴様に援助を残すとしよう」
ライザンドラ見習いが、少し不思議そうに眉をひそめた。ふむ。このあたり察しが良いのか悪いのか、なんとも扱いの難しい弟子だ。こやつを導いてきた者は、皆なにかしらこの奇妙な扱いにくさに呆れてきたに違いない。
儂は内心で苦笑いしながら、最後の訓示を与える。
「貴様は最初に、我々がなぜ負けたか、と問うたな?
その問いに、答えよう。
理由はただひとつ、判断力も決断力も鈍った老人が、指揮を執ったからよ。
儂の愚かさゆえに、我々はしくじった。それだけだ。
ゆえに——次は勝て、とは言わん。
だが次は負けるではないぞ、ライザンドラ見習い!」




