アルール歴2182年 8月29日(+3日)
——パウル1級審問官の場合——
おそろしく唐突に、意識と知覚が戻ってきた。
僕はあわてて周囲を見渡し、状況を把握する。
そう、か。
やはり——こうなったか。
「パウル1級審問官様の身体に異常はございません。
では、私はいったん席を外させて頂きます」
クリアモン修道会の司祭とおぼしき人物が僕と周囲の人々に深々と頭を下げてから、部屋を出ていった。
清潔で、整っていて、そして何もない、白い部屋。
僕が寝ていたベッドを取り囲む、馴染み深い人たち。
僕はまず、師匠に頭を下げる。
「申し訳ございません。
どうやら最後の最後に、僕はしくじったようです。
ともあれ、状況を説明して頂けますか?」
老マルタは深々とため息をついてから、その重い口を開いた。
「まず最初に、確認だ。
貴様はジャービトン派青年改革期成同盟なる異端教団と戦い、殉教者となった。
今の貴様は審問会派の秘伝である反魂の奇跡によって、一時的な生を取り戻したに過ぎん」
うん、まあ、そうだろうなとは思っていたけれど、やはり事実として告げられると、ずしんと心に響く。「お前は既に死んでいる」ってのは、ほとんどの人にとって、できれば聞かずに死にたい言葉だろう。
反魂の奇跡というのは、前もって神の奇跡をこの身に呼び込んでおくことで死後の一時的な復活を可能とするという、とてつもない技だ。審問会派の高位聖職者は死地と見極めた場に挑むにあたってこの奇跡を身に帯び、たとえ身体が死んだとしても、その死地で何が起こったのかを報告するという最後の手段を有している。
と言ってもこの奇跡はそこまで万能ではなく、死後3日後の正午に復活すると定められている。そしてその段階で身体が死んだままなら、即座にもう一度死ぬ。ものすごく便利なようで、意外と使い所が限られた奇跡でもあったりするわけだ。
今回の場合は、万が一を鑑みて反魂の奇跡を使っておいたけれど、なんというか結果論として使い損という気もするし、でも保険ってそんなもんだよなと思わなくもない……この奇跡の使い道の限られっぷりをまたしても披露した案件と言われれば、返す言葉もないけど。
それに、この奇跡にはもう1つだけ、問題がある。
「愚かなことをしたものだ。
神ならざる身で一時的なりと復活した以上、貴様の魂は深い傷を負った。貴様の魂はいまや、天国の門を潜る前に、煉獄にて修復の時を待たねばならぬ。それこそ、人の身にしてみれば永劫に近い時間を使って、な」
老マルタが指摘した通り、世の条理を著しく捻じ曲げる以上、そのしわ寄せは我が身に帰ってくる。この場合は「我が魂に」と言うべきか。
「まあ、よい。貴様は煉獄で、その女癖の悪さを叩き直してもらえ。
それより今は、状況の説明を先に進めよう。
貴様を殺した異端者どもは、その後、全員が逮捕された。既にその全員が処刑されておる。助命嘆願は、一切なかった」
こればかりは当然の報いとしか言いようがない。〈ボニサグスの図書館〉に火矢を放っただけでも、死罪ですら生ぬるい。
だが、そうなると問題は——
「〈図書館〉の3本の塔のうち、メルキオールの塔は全焼し、倒壊した。
バルタザールの塔も全焼したが、蔵書の大多数は救出されている。
カスパールの塔も炎に巻かれたが、火が回ったのは蔵書がすべて救出された後のことだ。
メルキオールの塔に収められていた蔵書のうち修復可能なのは、32冊。聖ユーリーンが窓から投擲した書物はもっと多かったはずだが、大多数は塔の倒壊に巻き込まれるなどして、失われた」
聖ユーリーン。
僕はその言葉に、ただ瞑目することしかできない。
後世の歴史家には、彼女のことを「たった32冊のために命を捨てた司祭」と語る者もいるだろう。だが彼女は己の命を使い切ることで、あの絶望的な状況から32冊もの本を救ったのだ。
「それから、シャレット家とオルセン家の結婚式の真っ只中で、教皇ヘルメティウス10世が突如、崩御された。
目の前で教皇の崩御を見たハルナ・シャレットは狂乱状態に陥り、シャレット家およびオルセン家の人々を惨殺。教皇親衛隊はやむなくハルナ・シャレットを殺害することで、彼女を鎮圧した」
なんと、まあ。こんな不細工な公式発表は、初めて聞いた。
だが師匠がそう語っているということは、何はともあれ「そういうこと」として処理されたということだろう。
しかし、そうなると気になることがある。僕の復活を待ち受けていたのは、師匠とライザンドラ君の2人だけ。カナリスの馬鹿は、いったいどこで何をしているんだ?
「カナリスは結婚式の前日、何者かの手によって、大量の睡眠薬を盛られた。
彼は今も昏睡状態だ。目覚めるかどうかは五分五分といったところらしい」
……なるほど。ハルナ君は、カナリスに薬を盛ったのか。
あの煮詰まりきった政治的状況においてなお、ハルナ君の教皇暗殺を瀬戸際で阻止しようと決意し、かつ実際に阻止できてしまうのは、カナリスくらいだったろう。ライザンドラ君もいろいろ頑張ったのだろうとは思うけれど、彼女には暴力が足りなすぎる。
だからこそハルナ君は一瞬の好機を逃さずカナリスを足止めした、といったところか。さすがは世紀の才媛の一人だ。遺憾ながら、機を見るに敏と言うほかない。
ともあれ、カナリスのことは心配しなくてよさそうだ。「生きるか死ぬか五分五分」とは言うけれど、そういう場面に置かれたカナリスなら100%の確率で「生きる」方を掴むだろうから。
「儂からの報告は以上だ、馬鹿弟子めが。まったく、この奇跡の濫用さえなければ、貴様も列聖されておったであろうに。
だがその詰めの甘さもまた、貴様の持ち味よな。貴様の適度な間抜けさに救われた衆生もけして少なくないことは、今更ではあるが肝に銘じておけ。
貴様は最後まで愚かな弟子であったが、最後までまったき審問官であった。貴様のような審問官に師と呼ばれることを、儂は誇りに思う」
師匠の言葉に、思わず涙腺が緩みそうになる。
でも、泣くのはやめておこう。別れる時は、笑って別れるのが一番だから。
「さて——貴様の魂が再び散華するまで、あと半刻程度か。
弟子の死を目の前で見るのは、もうたくさんだ。儂は先に帰らせてもらうとしよう。さらばだ、パウル。残された時間は、貴様の弟子の問答につきあってやれ」
師匠はそう一方的に言い放つと、くるりと背を向けて去っていった。
僕も弟子を失ったことは何度かあるけれど、僕より若い審問官が僕より先に死んでいくのを見るのは、何度体験しても慣れられない。それは老マルタですら同じということなのだろう。
それにどうやら、僕にとって最後の弟子たるライザンドラ君は、僕に聞きたいことがあるようだ。
……ううむ。結局彼女とは師匠と弟子の関係で始まって、師匠と弟子の関係のまま進展なしでおしまいかあ。
ならばまあ、僕は彼女の師として、最後の仕事をすることにしよう。
「さて——ライザンドラ君。
君のような世紀の天才が、僕に何を聞きたいのかな?」
ライザンドラ見習いは憔悴しきった表情のまま、少しの間、黙っていた。
けれど僕に残された時間が少ないことを悟った彼女は、決然と疑問を口に出す。
「かつてパウル1級審問官と老マルタが人間の不可知性について討論されたとき、老マルタは『人を知る方法』として『英雄になれ』と告げられました。
そしてその答えに対し、パウル1級審問官は『英雄とは何か』と問い、老マルタは『英雄とは物語である』と答えられています。
私には、このやりとりのすべてが、理解できません。
どうか、この謎解きをして頂けませんでしょうか」
ははあ、なるほど。いやはや、なんとも彼女らしい律儀さだ。
僕はライザンドラ君の長い睫毛が微かに震え、透き通った青い瞳の奥から湧き出ようとする涙を懸命に堪らえようとしているのを見ながら、彼女はどんな表情をしていても美しいな、なんていう浮ついたことを考えていた。いけない、いけない。これは最後の問答だ。真面目にやるとしよう。
「ねえ、ライザンドラ君。
『分かる』『理解する』ってのは、いったいどういうことなんだろう?
そのことを君は、考えたことがあるかい?」
ライザンドラ君はわずかに眉をひそめると、ゆっくりと首を横に振った。
そりゃそうだ。彼女のような聡明すぎる人間にとって、「理解する」のは呼吸をするのと変わらない。
でも普通の人間にとってみれば、それは、そうではない。
「ユーリーン司祭——いや、聖ユーリーンの言葉じゃないけれど、この世界は神の意志で織りなされていて、そして人間はその意志を理解することなどできない。
つまり、僕らが目の前で起きていることに対して『なぜ?』と問うたとき、その問いは、いつかどこかで、必ず、『分からない』ところに到達する。大抵の場合は人間にとって必要十分な範囲で『こうだから』と語れるんだけど、『分からない』部分が完全に消えてなくなることもまた、ないんだ。
つまりね。
僕らが『分かった』という言葉を吐くとき、実は僕らは大して何かを理解しているわけじゃあないんだよ。
僕らが『分かった』と言ったとき、それはあくまで、『たとえ借り物の言葉であったとしても、とりあえずは僕自身の言葉で説明できるようになったと思います』という宣言に過ぎないんだ」
ここまで説明した段階で、ライザンドラ君はどうやら僕の説がどこに向かおうとしているのかを、理解したようだった。
でもまあ、師匠としての威厳ってものもあるし、これはまさに理解にまつわる仮説だから、最後まで僕が語ることにする。
「さて。
例えばいま、燃え盛る塔の中に入っていく人物を見たとしよう。そんなことをすれば、この人物は間違いなく死ぬ。まさに理解不能な愚行、非合理な奇行そのものだ。
でも僕らは聖ユーリーンという英雄のおかげで、その行為を自分なりに説明することができる気になれる。人類の知を守るためなら、命を惜しんではならない——そんなふうに『理解』できるようになる。
だけどさ。
あのときのユーリーン司祭が何を思って炎の中に飛び込んで行ったのかは、結局のところ、わからないんだ。彼女が業火の中で何を思い、何を恐れ、それでもより深い死地へと突き進む勇気を保ち、そしてその人生の最後に何を見て、何を考え、何を祈ったのか。
そんな繊細なことを、僕らが勝手に決めてしまうのは、無礼にもほどがある」
喋りながら、少しずつ自分の思考が散漫になっていくのを感じた。
これが、僕の魂が再び散華していくということか。
「それでも。それでも僕らは聖ユーリーンのおかげで、己の命よりも大切だと信じるもののために己の命を使い尽くすという選択を、ただ理解不能なものとして恐怖するだけではなく、あるいはただの非合理として嫌悪するだけでもなく、偉大な選択として尊敬する余地と可能性を持てる。
そして同時に、そのような行為を無条件に『偉大だ』と翼賛する以外の余地と可能性も、きちんと持っていられる。
だからね、そういうことさ。
僕らは、他者を理解することなんて、できない。
でも『他者を理解できた気持ちになる』っていう、健全な人間社会にとって欠かせない幻想を作り、育て、守る助けには、なれる。
それは、とても素敵なことだと思うんだよ。ま、ときにそれが裏目に出ることもあるけど、だからといって危険で無価値だと切り捨てちゃえるものでも、ないでしょ?」
くそ、だいぶ言葉があやふやになってきた。
苦痛は、ない。苦悩も、ない。
むしろ、言葉にできない暖かさと、幸福感に全身が満たされていくのを感じる。
でも——どうか。
どうか、もう少しだけ。
もう、ほんの、少しだけ。
「ライザンドラ君。
きっと君はこれから、普通ではあり得ないものを、見ることになるだろう。
人間が見るべきではないものを、見ることになるだろう。
それは君が審問会派だからじゃあ、ない。
君が、抜きん出ているからだ。
これは、君の運命なんだよ」
圧倒的に優れた人間は、圧倒的に優れていればこそ、余人にはたどり着けないところにたどり着き、余人には見えないものが見えてしまう。
そこに横たわる絶対的な孤独は、彼女のような天才の、宿命だ。
「でもね、君の師匠として、これだけは教えておこう。
これから君が何を見て、何を聞いて、何を知ったとしても。
迷える人々を相手に、『わかります』という言葉だけは、言ってはならない。
彼らの苦悩に対し、『わかった』ようなことを言うのは、彼らの尊厳を根底から傷つける行為だ。
『わからない』。それで、いい。それで、いいんだ。
わからなくたって、彼らの苦悩に寄り添うことは、できる」
視界が光に満ちていく。
病室の壁が、天井が、窓が、そしてライザンドラ君の姿が、光の中に消えていこうとする。
まだだ。
どうか、神よ。
まだ、もう少し——ほんの、少しだけ、時間を。
「結局は僕だって、君の苦悩は、わからない。
だからもし、巡り巡って——
君が神を殺したいと、また思うようなときが来たならば。
その思いは、誰が何と言おうと。
たとえ旅の1級審問官が、『そんなものはありふれた恨み節だ』なんて言おうとも——」
もう、何も見えない。
何も、聞こえない。
それでも僕は、最後の教えを、最後の弟子に伝えようとする。
「その思いは、
その苦悩は、
その決意は、
なにもかも、
君にしか分からない、
間違いなく、
君だけの——」




