虚無の宙域(4)
「何だろう? やっぱり、変な感じがする」
そう呟いたのは、橘茉莉香。この恒星間航行用の超大型移民船『ギャラクシー77』のパイロットである。今も、超光速航法『ジャンプ』の準備の為、専用の操船室に詰めていた。
<パイロット、ブリッジ。ジャンプ先座標のスキャンは完了したか? 直ちに知らせたし>
そんな時、目の前のコンソールに業務連絡が届いた。
「あっ、はい、こちらパイロット。ジャンプ先座標固定。現在、フルスキャン中です。もう少し……十五分ほど待ってもらえないでしょうか」
<ふむ……。いつもより時間がかかっているね、茉莉香くん。この空間には、恒星どころか岩塊レベルの遊星すら滅多にお目にかからないんだよ。対象物体が少ない分、早くなりそうなもんだが>
返ってくる航海長の声には、少しだけ感情の揺らぎが感じられた。
昨晩、茉莉香の母──橘由梨香と邂逅して以降──実はそれ以前から顔を見知っていたはずなのだが──彼の気持ちはずっと彼女に向いていた。一番近い親族である茉莉香に対しても、微妙な感情が沸き起こっているのだろう。
もしかすると、少女を通じて、母に取り入ろうとの考えがあるのだろうか。
「ええーっと、逆なんです。検出物体が多い時の方が、空間内の広がりが掴み易いんです。本当に何にもないと、どこまで観測していいのかの境界を判断でき難くて。すいません、もう少しだけ、お時間をいただけないでしょうか」
その通りだった。しかし、茉莉香には、それ以外の何かの不安めいたモノが引っかかっていた。だが、今は自分の中に留めよう。確信の無い情報をブリッジに上げて、要らぬ心配をさせてはならない。ただでさえ、皆不安なのだから。
<了解。では、スキャンを続けてくれ。……ええーっと、気をつけてな」
「え? へ? あ、ああ、了解しました」
<頼んだよ。以上>
その言葉を最後に、通信は途切れた。茉莉香も通話機をコンソールに戻す。
「な、何だぁ、今のやつ。えとぉ、航海長だったよね。あんな事言うキャラだっけ? ちょっとだけ、キモかったよ」
昨夜の母と航海長のやり取りを知らない少女には、最後の言葉だけは違和感があった。だが、それと、彼の淡いロマンスが結びつくほど、彼女には経験がない。
いつの間にか、その件は頭から消え失せ、仕事に集中する。
茉莉香は、目の前のコンソールに、いくつかの命令をインプットした。そして、計器や結果表示を確かめると、椅子の背に深く身体を預ける。そのまま顔をやや仰向けにしたまま、そっと瞼を閉じた。
精神集中に入る為だ。
ゆっくり、ゆっくりと心を落ちつけ、静かに、静かに深く沈んでゆく。辺りが暗くなるイメージ。暗い深淵の中央に浮かんでいるような浮遊感。少しすると、彼方に淡い光が灯っているように感じられた。『彼』だ。
未だ幼いパイロットは、その光に惹きつけられるように、自分の心を近づけていく。段々に『彼』が、身体の中に染み入ってくる感じ。
──感覚を共有し、意識を同調し、存在を一つにする
今、茉莉香は、ESPエンジンそのもの──いや、この巨大なギャラクシー77を自らの体躯としていた。その超感覚は、光の速度を超えて、彼方の空間を観ていた。障害物は無いか? 異常な重力場は存在するか? 我々に危険を及ぼすものがあるのか? そして、そこに悪意は芽生えているのか?
全神経を集中させ、ギャラクシー77は、目的とする場所の隅から隅までを隈無く触れていった。
そんな事を、もう十数分も行ったろうか。
(うん、大丈夫。危険性の有質量物体の存在は感知されなかったわ。ここなら、『大遠距離ジャンプ』をしても、問題ないわね)
一時、茉莉香は自分の意識を取り戻すと、そんな安堵感を抱いた。
これから予定されている『大遠距離ジャンプ』を行ったら、一日ほどの間、ESPエンジンは休息を取らねばならない。外敵が襲ってきても、ESPエンジンの殆どの機能──エンジンに内蔵された脳神経が持っている凄まじいほどの超能力が使用不能状態になるということだ。
使えれば無敵だが、この船が全面的にESPエンジンに頼った設計になっているため、使えないとなると圧倒的窮地に立たされる。後は、精々甲板に張り付いているガラクタ (宇宙軍の艦船と砲台)くらいだ。それも、ESPエンジンによる支援がなければ、ただの通常兵器だ。未知の脅威に対して、全幅の信頼を置けるかというと、怪しい。
なので、何一つ存在していないことを確認できたということは、そんな事を考えずにゆっくりと昼寝が出来ると言うことだ。こんなありがたいことはない。
茉莉香は、椅子から身体を起こすと、目の前のコンソールから通話機を取り上げた。
「ブリッジ、操船室。こちらパイロット。『大遠距離ジャンプ』到達先予定ポイントのフルスキャンが終了しました。いつでもジャンプ可能です」
その言葉を待ちわびていたのだろうか。返事はすぐにあった。
<パイロット、ブリッジ。航海長だ。茉莉香くん、ご苦労さま。では、予定通り、GMT十時に『大遠距離ジャンプ』を決行する。準備に入ってくれ。機関室や関係各部局へは、こちらから通達しておこう。ESPエンジンは任せたよ>
「了解しました。直ちに『ジャンプ』の準備に入ります。以上」
<ああ、よろしく頼む>
ブリッジと話がついたので、少女は通話機を一旦コンソールに戻すと、両腕を天に向かって大きく伸びをした。
「んん〜っと。よし、あとちょいだ。がんばんべ」
彼女は、声に出して気合を入れると、再びコンソールを操作し始めた。
程なく、エンジンが本気モードになっているのが分かる。
(おっとぉ。機関長さんったら、良いタイミング。何にも無いこんな宙域には、長居はしたくないよね。さっさとお仕事を進めて、来週にはまっとうな空間に戻るんだ)
幼いパイロットは、自らの使命を改めて確認するように、独り自分に言い聞かせていた。
そして、しばらく経った時、機関室。
「エンジン、メイン,サブ、共に良好。ウォームアップ順調です。臨界まで、四十五分と言ったところでしょうかね」
機関助手が、傍らに立つ恰幅のいい男性に話しかけた。
「おうさなぁ、そんなもんか。ブリッジから、その後、連絡は? 変更点とかは無いな」
機関長が、そう言って答えるのも、いつもの日常である。
「特には何も。いつも通りですよ」
機関助手も、気楽そうに返事をした。
「おーい、非常用の電力確保は大丈夫かぁ」
機関長は振り向くと、コンルームの反対側の壁際へ向かって大声を出した。
「非常用コンデンサーへの蓄電率、100%。予備電池も満タンです。三十六時間程度なら、主副の両機関が止まっても、ギャラクシー77の電力を賄えるっすよ」
壁に並ぶ操作パネルから目を離さずに、担当機関士もいつも通りの返答をした。
(ふむん。問題は無さそうだな。ここらは、石塊一つ見つけるのにも苦労するくらいの何にも無いところだ。その筈なんだがな。何か腑に落ちん)
茉莉香とは違う意味で、機関長も何かしらの違和感を感じていた。
「済まん。ちょっと、外を見てくる。後は任したぞ」
彼はそう言って、踵を返した。
「え? 機関長、またですかぁ。いいですけど、時間までには帰ってきてくださいね」
今回も、例のサボリと思ったのだろう。機関助手は、やれやれといった顔をして、でっぷりとした大男が出入り口の向こうへ消えるのを眺めていた。
背中でスライドドアの閉じる<シュン>という圧搾空気音が聞こえると、機関長は主機関──ESPエンジンの設置してある区域を目指した。
強大な能力を秘めた超能力者の脳髄を内蔵し、『彼』にとって最適なコンディションを維持するように作られたESPエンジンの付属機器は大規模かつ膨大である。その中には、生体脳が自我を取り戻さないための装置──様々な薬品を定期的に与える投薬装置や、身体を失ったことによって感覚器官が混乱しないようダミーパルスを送る電子装置なども含まれていた。その上で、エンジンがその持ち得る最大限の超能力を引出せるように、糖類、アミノ酸、酵素、種々のホルモン剤が適切なタイミングで注入されるようになっている。
これらの装置が必要とする電力や生化学物質は、エンジンユニット内で独立して生産できるようになっており、いついかなる時にでも、ESPエンジンが機能するよう設計されていた。
結果として、巨大構造体であるギャラクシー77の中でも、ESPエンジンは、ひときわ大きな設備の一つとなっている。
今、ソレを見上げる機関長は、どんな思いを胸に秘めているのだろう?
不意に首を傾げた彼は、胸のベルトに組み付けられている通話機を取り上げると、マイクに話しかけた。
「おい、俺だ。主機関から変な音が出ているようなんだが。そっちで、確認できないか?」
この騒音の中で、僅かな機械の変調を感じ取ったのだろうか? 返事を待ちながら、彼は未だ怪訝な表情を崩していなかった。
<機関長、一通りチェックしましたが、……特に異常は認められませんでした>
「そうか……」
返事を聞いた機関長は、そう呟くように答えただけだった。それを訝しんだのだろう、通話先の機関士は、
<なんなら、橘さん──パイロットに相談しましょうか?>
と、提案した。
「お嬢にか? いや、いい。変なことがあったら、お嬢の方で先に気が付いている筈だ。それに、今は『ジャンプ』直前の忙しい時だからな。きっと、俺の気の所為だろう」
驚いたことに、彼は「自分の勘違い」としたのだ。
<そうですか? なら、いいですけれど。もしも、おかしな事があったら、また連絡して下さい>
怪訝そうな様子ではあったが、通話先の機関士はそう言った。
宇宙船では、些細な事が大規模なトラブルに繋がる事が多々ある。用心に越したことはないのだ。
「おう。しばらく見て回ったら、そっちに帰る。皆には、そう伝えてくれ。じゃ、切るぞ」
彼はそう言うなり、太い指でスウィッチをオフにした。そのまま通話機を、元のベルトに引っ掛け直す。そしてまた、ぶらりと散歩でもするように、巨大な構造物の間を縫うように歩みを進め始めた。
──乗組員の皆様にお知らせします。『大遠距離ジャンプ』の実行まで、あと三十分を切りました。『ジャンプ』が終了して安全が確認されるまで、自宅もしくは最寄りの安全地帯で待機するようにお願いします。繰り返します。『大遠距離ジャンプ』の実行まで、あと三十分を切りました。『ジャンプ』が終了して安全が確認されるまで、自宅もしくは最寄りの安全地帯で待機するようにお願いします。
機関長がコンルームへ戻る少し前に、そんな船内放送は流れた。超光速航法『ジャンプ』の準備は、何の問題もなく進んでいるように見えた。
──『大遠距離ジャンプ』実行まで十五分です。乗組員の皆様は、安全な状態で待機するようお願いします。
軽合金と樹脂とで塗り固められた灰色の街路には、警備の保安部員以外に人影は見えず、閑散としていた。一般の乗組員は、皆、待機状態にあるのだろう。
そんな船内に、明るい女性の声で、アナウンスが続いていた。
──『大遠距離ジャンプ』実行まで、一分。乗組員の皆様は、『ジャンプ』に備えて、安全な姿勢をとって下さい。『大遠距離ジャンプ』実行まで、三十秒。カウントダウンに入ります。『大遠距離ジャンプ』実行、二十秒。……『大遠距離ジャンプ』、十秒前。九、八、七、六、五、四、三、二、一、『ジャンプ』。……『大遠距離ジャンプ』、終了しました。乗組員の皆様は、安全が確認されるまでその場で待機するようお願いします。『ジャンプ酔い』など、お身体に変調がありましたら、お近くの係員までお申し出下さい。繰り返します。『大遠距離ジャンプ』、終了しました……
「『大遠距離ジャンプ』、終了」
「『ジャンプ』終了しました」
「船内各部、点検開始。見張員、全天観測開始して下さい」
「機関室、主機関の動作状況を知らせたし」
「保安部は、引き続き船内の警備のため、待機状態を維持して下さい」
「移民部、移民街区の再チェックを。十分以内に知らせてくれ」
ブリッジでは、『ジャンプ』を終えて、各部門にチェックと安全確認を促す通信で沸き立っていた。
(何とか無事に終えたな……)
キャプテンシートの上で、船長は、そんなブリッジの様子を認めて、胸を撫で下ろしていた。
誰もが一安心して気を許していた。そんな瞬間に、船長は<ゾクッ>とする怖気を感じた。
(何だ、今のは。どうなっている?)
それを感じたのは船長だけでは無かったようだ。コンソールの前で作業を続けていたオペレータも、指揮を執っていた部門長達も、手を止めて、互いに顔を見合わせていた。
「総員、警戒態勢。位置情報取得、全天観測急がせろ。機関部とパイロットに緊急通達。異常の特定を最優先に。軍関係者には、その場で待機するように指示。広報部は情報管制の後、一般乗組員へ待機を促す船内アナウンスを。移民部には、移民街区の治安維持を要請せよ」
船長の判断は、素早かった。思い過ごしかも知れない。しかし、真空の宇宙空間では、些細な事が大事故に繋がる。最悪の場合、船全体が喪失してしまっても不思議ではないのだ。
「船長、機関室との連絡がとれません」
「操船室もです。パイロットが、こちらの呼びかけに応じません」
それを聞いて、船長は唸った。恐れていたことが起こりつつあるのか?
「船内の通信・情報回線を総チェック」
「各部門とも、呼びかけに応じません。通信回線、不通」
(これでは、状況が分からん。どうする……)
「伝令を送れ。操船室と機関室が最優先だ。その他の部門へも急がせろ」
「で、伝令ですか? どうやって」
「足があるだろう。走るのだ。ただし、不測の事態に備えて、第二種作業装備を着用せよ。船務長、伝令員の人選は任せる」
「はいっ、分かりました。通信管制オペレータを残して、ブリッジ要員は直ちに集合!」
数十秒で初期対応策は決まった。
だが、一体何が起こったというのだろう。音信不通の茉莉香や機関長は、果たして無事なのだろうか……




