虚無の宙域(2)
「鼻血、拭いとかなきゃ……」
ギャラクシー77の操船室で、茉莉香は独り呟いていた。
未知の宙域への『長距離ジャンプ』を行った際の後遺症だった。
(これぐらいの事で、皆を心配させたくはないんだ)
そう思っていたからこそ、彼女は、駆けつけた機関長を誤魔化し、健康診断にも難色を示したのだ。
「それよりも、洗濯、洗濯っと」
茉莉香は、自分の鼻血で汚れた衣服を、手でもみ洗いをすると、壁際の全自動洗濯乾燥機に放り込んだ。スウィッチを入れると、後はAIにお任せだ。最も良い洗剤と洗い方で、衣服を綺麗に洗濯・乾燥してくれる。
「さてと……、これは、どうすっかなぁ」
彼女は、床に散らばったティッシュペーパーと、コンソールやその周辺に飛び散った血の跡を眺めていた。
「仕方ないかぁ……」
そうぼやいて、少女は床の鼻かみを拾ってはポリ袋に放り込んでいった。
コンソール回りの処理は、操船室のガードシステムに任せよう。適当な出力と波長のレーザーを照射して、血液の成分ごと分解させることにした。自分で雑巾を持ってゴシゴシするよりも、よっぽど綺麗にできるし、効率的だ。分子から分解すれば、ルミノール反応も出ないだろう。室内に散った臭いは……、空調を通してオゾン分解だ。さすがにここまで後始末をしておけば、診断にやってくる医師も誤魔化せるに違いない。
かつて無い空間への瞬間移動は、『ESPエンジン』に多大な不安を感じさせてしまった。茉莉香は、『ESPエンジン』への同調率が高過ぎたが故に、その影響をモロに受けてしまったのだ。
ただでさえ運航スケジュールが遅れているのに、ドクターストップをかけられては堪らない。しかも、ここは周囲に何も無い宙域である。物質的にも、情報量としても。そんな時、唯一ギャラクシー77を動かせるパイロットの自分が倒れでもしたら、総員共倒れだ。それくらいのことは、茉莉香にも分かっている。それに、先代のパイロットから引き継いだ以上、自分には皆を無事に第七十七太陽系まで連れて行く責任がある。そして、その『皆』の中には、母やコーン、シャル達も含まれているのだ。
見た目には未だまだ幼い十代の少女だったが、彼女には代々のパイロットと同様に、船と『ESPエンジン』を我が身の如く思っていた。
(本当は、『彼』が怖がるような『ジャンプ』はさせたくなかったんだけどなぁ)
茉莉香は、片付けをしながら、ボンヤリとそう思っていた。先輩の老パイロットが亡くなった今、少女の心情を真に解り合える存在は、『彼』しかいなかった。彼女が受け継いだ遺産と罪科は、船長達が思っていた以上に重いものだったのだ。その重圧をプレッシャーとも感じていないのは、茉莉香の生来の特質が、たまたま良い方向に働いたからに過ぎない。
<パイロット、機関室。主機関から、僅かだがエネルギーのリークがあるみたいだ。お嬢、チェック出来るか?>
そんな時に室内に響いたのは、機関長のこの言葉だった。
「機関室、パイロット。ちょっと待ってて下さい。……確認しました。そうですね。若干ですが、漏れてます。調べて直しておきますね、機関長さん」
そんな茉莉香の返答に、
<オーケイ。頼んだぞ、お嬢>
と、野太い声がコンソールから返ってきた。
(良かった。気づかれてはいない……わね。さっき、押しかけて来た時には、随分焦っちゃったけど……。大丈夫、やっていける)
安堵した少女は、コンソールに向かうと、現業に戻った。
「全天観測、及び星間マップ照合、終了しました。予定通りのポイントに到達を確認。偏差、±4.8パーセク」
「フムン、4.8か……。いつもの『大ジャンプ』よりも正確だな」
報告を聴いた船長は、独り言のように呟いた。
「ええ。周辺に適当な質量が存在しないだけに、空間の歪みや、プラズマによる電位勾配の影響がネグれた為でしょう」
航海長は、いつもの冷静さを取り戻していた。そして、船の現在の状況を確実に捉えていた。
「なるほどな。航海長、次回の『ジャンプ』の目標設定を頼む」
船長の指示に、
「了解しました。船長、しばらく席を外させていただきます」
「分かった。船務長、ブリッジはしばらく任せる。私も自室で事務作業を行いたい」
船長もそう言って、キャプテンシートから立ち上がった。
「了解しました」
「ああ。何か火急の用があったなら、私の端末にメッセージを頼む。航海長もだ」
「分かりました。では、失礼します」
航海長はそう言うと、船長よりも先にブリッジを後にした。
(ふぅ、まずは一安心だ。茉莉香くんにも大事は無かったようだし……。それよりも、次のポイントだ。できるだけ、危険やイレギュラーの生じ難い宙域を選択しないと)
LED照明に照らされた灰色の廊下を歩きながら、航海長の頭脳はフル回転をしていた。
第七十七太陽系までの道程は決定してはいるものの、個々の『ジャンプ先ポイント』は、その都度吟味しなくてはならない。なんとしたならば、ここは前人未到の虚無の空間だからだ。様々な理論と観測されたデータで以って裏付けされてはいるが、人類は完全にこの天の川銀河の全てを把握した訳ではないのだから。
彼は、自動機械のように廊下を進みながら、手に持った端末の画面に集中していた。その歩の先にあるのは、中央航法室──船の航路を定めるための様々な解析機器や、人類が進出した宙域の詳細なデータへアクセスする為の端末が並ぶ部屋だ。彼や航海部の部員達も、茉莉香同様に、ここ数日間は殆んど帰宅していない。今夜も彼は、航法室の簡易ベッドで夜を過ごすのだろうか……。
そんな時、航海長の背後から声をかける者があった。
「……あのう、中央航法室へは、どう行けばいいのでしょうか? もしよろしければ、教えていただけないでしょうか?」
如何にも心細そうな声から、それは若い年頃の女性のものと思われた。それを耳にした航海長は、ハッとして顔を上げると、後ろを振り返った。そこに居たのは、大きな保温バッグを抱えて立ち尽くす女の人だった。彼の予想に反して、彼女は大人の成熟した女性を感じさせるような外見と雰囲気を持っていた。自分と同世代くらいであろうか。
「……っ、構いませんよ。ちょうど私も、航法室に向かうところですので」
と応えてから、彼は女性の顔に眼をやった。
(ん? どこかで見たことがあるような。誰だったかな……)
その聡明な頭脳に反比例するように、航海長は人の顔を覚えるのが苦手だった。特に、相手が女性である場合には。学生の頃から、流行りのアイドルの事を訊かれてトンチンカンな返事をしては、よくからかわれたものだ。
彼は、自らの記憶の欠片を総動員して、何とか目の前に立つ人物を特定しようと思いを廻らせていた。そんな時、彼女の方から親しげな言葉で話しかけられた。
「あ、あら。航海長さんじゃありませんか。いつもお世話になっています」
──お世話になっています
その言葉を耳にしてもなお、彼には『どんなお世話』を過去にしたのか判りかねた。
「あの子ったらもう、本当にズボラで。航海長さんや、ブリッジの方達にご迷惑になっていないでしょうか」
如何にも済まなさそうなその言葉から、彼は、
(1)女性が子持ちであること
(2)その子供が自分の身近な人物であること
(3)そのことから、女性の年齢は思ったよりも高齢であること
(4)彼女の子女を通じて、自分を見知っていること
(5)しかし航法室の場所を知らない事から最近になってこのブロックに引っ越したこと
を推測した。数々のデータから、彼女が誰なのかを絞り込む。
「……ああ、こちらこそお世話になっています。これから航法室に?」
悟られないように、いつものキメ顔でスマートに答える。そして、
「お持ちしましょう。女性が運ぶには重いでしょうに」
と、フェミニスト振りを発揮するのも忘れない。と同時に、さり気なく荷物に書かれたロゴを読み取る。
(……ああ、あの店の店員なのか。ということは、今夜の夜食か弁当を届けに来たのだな。しかし、航海部には、ここ数年、ニューフェイスは配属されていない。従って、お子さんは航海部のメンバーではないな。……最近に見知った者の母親。それは誰なのだ……)
航海長が、そんな風に思考力を使っている時、女性の方から更なるヒントが与えられた。
「いえ、大丈夫です。仕事ですので。お気遣いいただき、ありがとうございます。……しかし、本当にもう、あの子ったら。歳頃の女の子だというのに、ガサツで。それに、大人の世界の常識ってものを、全く分かっていませんので、ご迷惑ばかりでしょうに。その上、勉強まで見てもらって。本当に申し訳ありません」
(『女の子』、『ガサツ』、『最近の知り合い』、『大人の常識がない』、『勉強』……。ならば、あの人物しかいない。真実は一つ!)
「いえいえ、お母様。そんなことはありません。彼女がいなければ、このギャラクシー77は立往生していました。でも、貴女が、あのお店に勤めているなんて。確かに、以前はレストランにお勤めだったとお聞きしていましたが。……ああーっと、やはり私が持ちましょう。航法室までは、もう少し歩きますので。こんな夜遅くまでご苦労さまです、橘さん」
そう、その女性こそ橘由梨香──船の正規パイロットの茉莉香の母親だった。そのことに、たった今気が付いたことさえおくびにも出さずに、彼は言葉を続けた。
「茉莉香くんの働きがあれば、お母様は働かなくてもいい筈ですのに」
すると、由梨香は、一歩後退ると、航海長から視線を外した。そして、少しはにかむように、左手を頬に当てた。その手首には、赤銅色のメタルバンド──超能力抑制装置が、照明の光を美しく反射していた。
「そう言ってもらえて、光栄です。……では、中央航法室まで連れて行って下さい。これを早く届けないと。航海部の皆さんも、お腹を空かせていますよね」
彼女はそう言うと、再び彼の顔を見つめて微笑んだ。航海長の眼には、その笑顔が慈母のように写っていた。
(改めてよく見ると、なんて美しい女性なんだ)
彼がそんな想いをいだくのは何年振りだろう。幼稚園の時に、保育士に会った時? それとも、中等部まで一緒だった幼馴染みに? いや、大学院の研究室で指導をしてくれた助手の方だったろうか?
「そんなことを言わないで下さい。航海部の部下の前で、女性に重い荷物を運ばさせているところなんか見せたら、私が恥をかいてしまう。航法室のドアを潜るまでです。男を助けると思って、持たせて下さい」
そんなキザな台詞も、この航海長には似つかわしい。
「そうですか。では、お願いします。本当に、申し訳ありません」
そう言って、彼女は、持っていた保温ボックスを一旦廊下に置いた。それにかかっているベルトを掴むと、彼は少し持ち上げて重さを確認した。
(うん。いけるな)
この重さなら、優男の航海長にも難無く持ち上げられる。その事をしっかりと確認してから、如何にも軽々とした様子で荷物を持ち上げると、
「では、着いてきて下さい。仰るように、これ以上、部下を空腹にしておいたら、仕事に支障が出かねない」
と、キメ顔で応えた。
(キマった……)
それだけで、彼は満足した。急ぐ必要は無い。これからもずっと、顔を合わせていくのだから。
「済みません、お手数をおかけして。……重くはありませんか?」
心配そうな由梨香の顔を見て、
「ええっ。そんな風に見えましたか。恥ずかしいな。やはり、モヤシっ子に見えますか」
と、航海長は、腕にずっしりと架かる重圧に耐えながら、笑顔を崩さなかった。
「……えっ。そ、そんなことはありませんよ。すいません、失礼なことを言ってしまって」
未だ余所余所しい態度で、由梨香は、そうとりなした。
(フッ……、しかたないか)
彼は少し残念に思ったものの、気を取り直すと、
「そんなことはありません。お気遣いなく。では、参りましょう」
紳士的な態度で航海長は応じると、彼は先に立って歩き出した。
「あっ、はい。本当に済みません」
由梨香は、ようやっと言葉を出すと、彼の後を着いて行った。
──宇宙船の夜は長い。それが、永遠の夜にならないように、我々は最大限の努力をするだけなのだ
航海長はそう思い直すと、少しだけ後ろを振り返った。
視界の隅に写り込んだ彼女の姿は、殺風景だった船内の色を鮮やかに染め直したように、彼の視神経を支配していた。




