虚無の宙域(1)
──『ジャンプ』……終了しました。楽にして下さい。『ジャンプ酔い』など、お身体の具合が悪い方がいらっしゃいましたら、お近くの職員までご連絡下さい。繰り返します。本船は『ジャンプ』を終了しました。『ジャンプ酔い』など、お身体の具合が悪い方がいらっしゃいましたら、お近くの職員までご連絡下さい。
相変わらず、灰色の樹脂と金属とセラミックで構成されたギャラクシー77の船内に、明るい──しかしやや無機質な女性の声が流れた。
「『ジャンプ』終了」
「「ジャンプ』終了しました。各部、点検・確認を急げ」
「見張員は、直ちに全天観測、厳に。現在位置の特定を急げ」
<全天観測、開始>
<全天観測、開始します>
宇宙海賊との激戦で傷を負った船体を応急的に整備して、ギャラクシー77は目的地──第七十七太陽系に向けての航海を再開した。
しかし、選択したのは未知の航路──これまで築いてきた安全な定期航路ではなく、航海部とAIを総動員して割り出した最短航路だった。
宇宙船の現在位置の割り出し方法は、大昔の地球の水の上の大航海時代と同じように、天の星々を観て行う。
かつてと大きく異なるのは、指標になる星や星座が宙域によって大きく違って見えることだ。方向や配列が変わって見えるだけではない。有限速度の光速の限界に縛られることだ。恒星との距離が変化することで、過去のどの時代のスペクトルを観測しているのかが違ってしまうのだ。
定期航路であれば、付近のポイントで観測した既知の全天マップデータベースと照合することで大まかな位置が得られる。それを更に細かく分析し、現在の時刻と距離による時系列での光波分布を三次元空間でシミュレートして座標を特定するのだ。
その際には、天の川銀河系を遠く離れたクェーサーのドップラー効果によるスペクトルのシフトも大いに役立たされる。
そのために、船から見た天球上の星々の位置と、それらから放射されるスペクトル分布は入念に観測され、中央電算室の巨大ストレージとAIを総動員して計算するのだ。
しかし、現在航行しているこの航路は、今まで経験のない宙域を通る。従って、定期航路のような『予め用意された全天マップ』のようなお手本が存在しない。
まずは、遥か彼方の恒星や銀河を特定し、大雑把な現在位置を求める。それから、徐々に銀河近傍や銀河内の恒星を、光速と距離による補正を加えつつ、何回かの段階を踏んで徐々に特定していくことになる。
──船は今どこにいるのか?
──設定した航路を大きく逸脱していないか?
──付近に危険な天体や宙域は存在しないか?
無事に船を目的の恒星系まで導くのは、それ程簡単ではないのだ。
だからこそ、運行スタッフは、厳選された優秀で経験豊かな人物達で構成されている。そしてそれ故に、各植民星への往来を百年以上に渡って管理し続けた『エトウ財団』及び『ESPエンジン搭載移民船』の実績には、絶大な信頼が寄せられているのだ。
未知の宙域を横切るからと言っても、その信頼を裏切るわけにはいかない。
「全天観測、未だか?」
通常とは異なるとはいえ、あまりに遅い座標の割り出しに、航海長はやや苛ついているようだった。
「もう少し待って下さい。今、第三ループに入ったところですので」
観測員を束ねる二等航海士が、若干だが言い訳がましく航海長に応えた。
「途中でも構わん。各ループごとに、絞り込んだ座標を報告しろ」
航海長の指示に、
「し、しかし、誤差が大き過ぎて……」
と、航海士は自己弁護をしようとした。だが、
「そんな事は分かっているし、現在位置の割り出しに時間がかかることも承知の上だ。問題は、長時間に渡って報告が途切れることだ。一般乗組員だけではなく、運行スタッフ内にさえ不安を抱く者が出たらどうする」
と、航海長は厳しい言葉を投げつけた。
「わ、分かりました……」
航海士は、それだけをやっと応えると、船内各ブロックの見張員へ指示を送り始めた。
それを後ろから見ていて、航海長は違和感を覚えた。
──何かおかしい
何だろうかと思案していた時、船長から声がかかった。
「各部に点検の進捗状況を報告させてくれ。百パーセント終わっていなくとも構わん。現状が知りたい。それから、パイロット──茉莉香ちゃんからの報告は未だか?」
これを聞いて、航海長は、ハタと気がついた。
──操船室からの報告がない
実際の船の航行を担っているのは、『ESPエンジン』とその『パイロット』だ。『ジャンプ』先座標のセットを最終的に行うのも、『ジャンプ』終了直後に現在の大まかな座標を認識することが出来るのも、パイロットである。その本人である茉莉香からの報告が、未だもってないのだ。
おかしいとしか、言いようがなかった。
航海長は急いでマイクを手に取ると、船内通信の接続先に操船室を選んだ。
「パイロット、ブリッジ。茉莉香くん、どうした? 状況を知らせてくれ。茉莉香くん」
しかし、コンソールに応答する気配は、すぐには現れなかった。
「どうした、茉莉香くん。操船室、こちらブリッジ、航海長だ。現状、知らせ。……茉莉香くん。茉莉香くん!」
答えのない機器を見る彼の表情は、徐々に曇っていった。
彼は、一旦、硬く瞼を閉じると、何かを思案している様子だった。そして、すぐに目を開くと、通信先を切り替えた。
「機関室、ブリッジ。機関長はいるか? 応答せよ」
航海長にしては、いつになく強い感情に駆られた声だった。だからだろうか。応答する声に、批難がましい様子が混じっていた。
<ブリッジ、機関室。こちら機関長だ。そんなに怒鳴らないでも、ちゃんと聞こえてるよ。あーっと、機関部の点検状況は、八十パーセント。後数分で完了する。ちゃんと報告はしたぞ。これで満足したか>
憮然とした表情が目に見えるようであった。だが、問題はそれではない。
「君か! 航海長だ。操船室へ急いでくれ。早く!」
彼は早口でそう言うと、一旦口を噤んだ。それ以上、何を言っていいか、瞬時には思いつかなかったからである。そんな様子に、機関長は呆れたように応じた。
<そんなに大声を出すな。何を慌てているんだ? らしくないぞ。あーと、主機関、チェック終了。問題はなし。補助機関とユーティリティ設備、各部エネルギーコンデンサのチェックには、もうちょい時間をくれ。すぐに終わらせる>
しかし、航海長は、彼我の温度差の違いに、落ち着きを取り戻すことが出来なかった。
「そんなことを訊いているんじゃない。操船室だ。パイロット──茉莉香くんからの報告が、ずっと途絶えている。お願いだ。……頼むから、操船室へ行ってくれ。頼む……」
ようやっと、それだけを絞り出した航海長の声に、機関長も尋常ならざる何かを感じたのかも知れない。
<分かった。みなまで言うな。すぐに、お嬢のところへ行く!>
マイクをコンソールに叩きつける<ィーン>という甲高く大きな音がブリッジ内に響いたが、それを咎める者は一人もいなかった。
(何があったんだ。機関長、間に合ってくれよ)
航海長は、胸の内でそう願っていた。
一方、連絡を受けた機関長は、レシーバーを叩きつけるように放り出すと、
「用ができた。後は任せた!」
と、大声で怒鳴った。
「え? どうしたんですか? 未だ、補助機関のチェックが残っていますし、第一級の待機命令も出てますし……」
いつもの気紛れと思った機関助手が、そう言って嗜めようとしたが、
「知るかっ、んなもん」
と、一喝して、機関長は走って出て行ってしまった。
「あっ、ああ、機関長……。行っちまったよ。どうすべぇ」
機関助手が困惑しているところに、年配の機関士が近付いて来た。
「いつものことじゃねぇか。ここは、俺たち『優秀な機関部員』が頑張るしかねぇって」
と、困ったような笑い顔を浮かべている。
「確かに、いつものことですが……」
「そう。いつものこと」
「それじゃぁ、しようがないですね」
機関助手は、そう応えて肩をすくめただけで、現業に戻った。
(機関部は、あいつらに任せておけば問題ない。お嬢、今すぐ行くからな。無事でいてくれよ)
そんな思いを胸に秘めた機関長は、その体躯に似合わない速度で操船室への廊下を疾走する。
もう少し、あと少し。あそこの角を曲がる。別の区画へのリフトの動きがトロ臭い所為で、脳内の血管が切れそうだ。隔壁のロックを外して開くまでの時間がもどかしい。
(ちきしょう! どうして、シャッターが開くのがこんなに遅いんだ。整備のヤツ、ちゃんと潤滑油を注してるのかぁ)
愚痴をいってもしようがない事を考えて、思い浮かべたくない事柄を、機関長は意識の外へと追い出そうとしていた。
あそこだ!
あの隔壁扉が開けば、中は操船室だ。
「お嬢、何ともないか!」
怒鳴るように叫ぶと、スライドドアが開くそばから操船室内へ身体をねじ込む。視界の隅に少女の姿を認めたのは、床に倒れ込む直前だった。
「お嬢、無事だったか」
茉莉香が居ることを知って、ホッとした彼は、ゆっくりと床から顔面を引っ剥がした。腕立て伏せの要領で頭を持ち上げると、人影が見えた方へと視線を向ける。
そこに居たのは、確かに茉莉香ではあっただろう。だが、その姿は、ショーツの上に薄いタンクトップを羽織っただけのものだった。
「へ?」
「え?」
「あ……」
「あ、ああ……」
「あ……、キャー」
黄色い悲鳴に続いて飛んできたのは、未だ熱の残った大型のドライヤーだった。
「うわっ、いってぇ、……うぁっちぃー」
起き上がりかけていた機関長は、再び床を抱擁することになった。
「き、き、きき、機関長さんっ、何で居るのよ!」
たまたまそこにあった衝立の裏に逃げ込んだ半裸のパイロットは、そう言うのがやっとだった。
「う、うぎぃ」
壊れかけた自動人形のようなカクカクした動きで、やっとこさ起き上がった機関長は、額を押さえながらその場に座り込んだ。
「どうして、こんな時にやって来るんですか。未だ待機命令は解けてませんよ」
衝立の向こうから、震えるようなソプラノが聞こえてきた。
「どうしてって、何も……。いや、お嬢が無事ならそれでいいかぁ」
茉莉香の方を見ないようにしながら、床の大男は、それで納得したようだった。
「何にもよくありません。は、は、は、早く出てって下さい!」
怒鳴り声を上げる少女に、彼は渋々と立ち上がった。背中を向けたまま、
「いやぁね、ブリッジに頼まれてな。……お嬢、『ジャンプ』が終わってから、未だ現状報告をしてないだろう」
と、彼は優しく話しかけた。
「あ、そう言えば……」
その言葉に思い当たることがあったのか、幼いパイロットは独り言ちた。
「全然連絡がとれないもんだから、航海長のヤツ、ひどく慌ててさぁ」
そう言っただけで、何一つ咎めることなく偉丈夫は立ち上がった。尻餅をついていたズボンの布を、掌でパンパンと叩くと、そのまま背中を向けて出入り口へと向かう。
「あっと……。機関長さん……、ごめんなさい……」
シュンとしたような声が衝立の向こうから聞こえた。それを振り返らずに認めた男は、
「それは、ブリッジの奴らに言ってくれ。……ちゃんと、報告しとくんだぞ」
その言葉は、ドアがスライドする空気圧の音でかき消されかけたが、茉莉香はちゃんと聞くことが出来た。
「あっ、機関長さん」
彼女が声をかけた時には、もう彼は廊下に出ていた。
「済まなかったな。着替え中にいきなり入り込んで。……あーと、さっきのは、無かった事にしてもらえると、ありがてぇ……」
それ以降の言葉は、閉まるドアに遮られて聞くことが出来なかった。
(ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい、機関長さん)
その所為で、彼は、少女が胸の内で何度も謝罪の言葉を繰り返していることに、気付くことが出来なかった。
一方、数分後のブリッジに、操船室からの報告が届いた。
<ブリッジ、パイロット。こちら、橘です。ごめんなさい、報告が遅れちゃって>
映像付きで送られてきた通信情報に映された茉莉香は、照れ臭そうに後頭部をポリポリと掻いていた。
「おお、茉莉香ちゃん。調子はどうだ? 何か、変調とかは無かったかい」
すぐさま応える船長の言葉には、労りが含まれていた。
「パイロット、ブリッジ。航海長だ。報告が遅いぞ。本来なら、お説教と反省文が必要なところだが……。今回は、不問にしておこう。さっそく、現状報告を聞かせてもらおうか。初めての宙域で、見張員の全天観測作業が滞っている。少しでも情報が欲しいんだ」
先程はあんなに心配していたというのに、航海長は普段の冷徹さを取り戻していた。表面上はだが。
<あ、すいません。『長距離ジャンプ』は問題なく成功しました。『ESPエンジン』に目立った問題なし。メンテナンスモードに移行済みです。以降の整備を機関部に引き継ぎました>
画面の少女は、少し真面目な顔に戻ると、『ジャンプ』の成功と主機関についてを報告した。
「了解した。それで、現在位置は予定通りだね」
航海長は、あくまでも冷静に報告の続きを促した。
<『ジャンプ』到達誤差、約三光年。天の川銀河、第二腕の中腹付近に到達。九時の方向三十度に銀河中央部が見えるはずです。周囲の探索も終了しました。半径、約千二百光秒以内に不審物なし。……というよりも、何にもありません。どんなに探しても、直径五メートル以上の質量──デプリと言える物が感知されないんです>
報告する彼女の映るウィンドウにインポーズするように、ワイヤーフレームで描かれた宙域図が表れた。
「ふむん……。本当に何にも無いな」
予想はしていたことだが、光エネルギーが得られる恒星も、資源の拠り所になりそうな岩塊も、全くの皆無であった。航海長は、顎に手を当てながら、眉根に皺を寄せた。
<重力加速度、全周囲で平坦。測定された歪は、誤差の範囲内です>
茉莉香の報告が続く。
<『ESPエンジン』の方は、半日ほどの休止期間があれば、次の『長距離ジャンプ』が可能です。次回の『ジャンプ』先座標を教えて貰えれば、今のうちにセッティングとフルスキャンが出来ます>
パイロットの提案だったが、航海長は少し考えると、後ろを振り返った。
「船長。この先の航路では、このような何も無い宙域を経ることになります。今は、入念な準備をすべきかと……」
航海長の意見具申に、船長は少し考え込んだ。
そして、しばらくして顔を上げると、こう言った。
「よし。船内各部には、現状報告を続けさせろ。特に船体の状況と、周囲の空間の観測を厳に。重力偏差以外に、イオン流やプラズマの分布に注意。中性子線やニュートリノの飛来方向の偏りも知りたい」
今現在の状況で、船長は先を急ぐ事よりも、周囲の確認を優先させることにした。
「次回の『ジャンプ』は、三十二時間後を予定。並行して準備を行って欲しい」
「了解しました。……パイロット、ブリッジ。茉莉香くん。次の『ジャンプ』を三十二時間後にしたい。それまでに、宙域情報の収集と『ESPエンジン』の調整に注力してもらいたい。あーと、……それから、臨時で健康診断を受けるように。十二時間後に担当の者をそっちに行かせるよう、段取りを組んでおくから」
船長の意向を伝えた後、航海長は指示を付け加えた。彼なりに、未だ幼いパイロットに気を使っているのだろう。
<ええー、健康診断ですか。大丈夫ですよぉ。それに、今日は、お昼に『特製弁当』を予約してあるんです>
健康診断と聞いて、彼女は難色を示した。機器による検診に加えて、体液と血液検査があるからだ。それをするには、八時間以上の絶食が義務付けられる。当然、お昼の『特製弁当』は、検診が終わるまでお預けだ。
「これは命令だ。なるべくなら、ミネラルウォーター以外の果汁や清涼飲料水も控えるように」
命令とあっては仕方がない。既に、報告遅れでお小言をもらっているのだ。これに従わなかったら、本当にお説教と反省文を書かされかねない。
逡巡した結果、茉莉香は健康診断の実施に同意することにした。
「はい、分かりました。十二時間後に健康診断。その後、次回『ジャンプ』のブリーフィングですね。あたしは、操船室に詰めていますので、変更があった場合には連絡を下さい」
茉莉香は、そう航海長に返答した。
<パイロット、ブリッジ、了解した。こちらでも、次の座標の設定を急がせる。今回もご苦労だったね、茉莉香くん。しばらくは忙しいだろうが、よろしく頼む。以上>
「ブリッジ、パイロット、了解しました。以上、通信終了」
双方で了解が取れたのを確認した後、モニターパネルの通信用ウィンドウが閉じた。茉莉香も、手に持っていたマイクをコンソールに置いた。
「ふぅ。な、何とか誤魔化せたようだわ。……でも、健康診断かぁ。医療データベースを上手くハッキングできると良いんだけどな」
彼女は『何を誤魔化せた』と言っているのだろうか?
茉莉香は手に持っていたシャツを洗濯するために、部屋の壁際の全自動洗濯乾燥機へ向かった。足元には、錆色に茶色く染まったティッシュが丸まって散らかっていた。
洗濯機にシャツを丸めて放り込もうとして、彼女は一旦手を止めた。
「あ、やっぱ、先に手洗いしてからの方がいいよね。血の跡がバレないようにしないと。……あ」
そう言いながら、少女は、再び唇に伝い落ちてきた鮮血を、そのシャツで拭った。
そう言えば、心做しか頬の色が蒼ざめているようにみえる。貧血が原因なのか、足元が若干ふらついている。
今回の『ジャンプ』を実行した結果が、パイロットに如何なる負荷をかけたのだろう。
彼女はそれを乗組員達に知られまいとしていた。




