至るべき星へ向かって(4)
ここは大銀河の真っ只中を、未だ慣性航行を続ける超巨大恒星間航行用移民船──ギャラクシー77の船内である。少し明るい灰色を帯びた色の廊下は、天井からのLED照明に明るく照らされていた。
現在時刻は、グリニッジ標準時午前七時。
幹部用の住居ブロックから操船室へと向かう廊下には、人影が無かった。
低い機械音と電磁回路が振動する唸りが、さして広いとも言えない空間にかすかに響いているだけであった。
しかし、隔壁や天井、床下を縦横無尽に這い回る光ファイバーケーブルや、それを繋ぐ増幅器やトランシーバには、気の遠くなるような速度で無限とも思える量のデータが行き交っていた。今、この場に電子使いが居れば、小さな昆虫が騒いでいるようなこの波動から、機械知性体群が超高速で交わしている『会話』を聴き取る事が出来るのだろう。
船外では、今もまだ船体の補修と、破壊されて取り残された機動兵器の固定作業が続けられている。
だが、そんな事を歯牙にもかけずに、船は旅立ちの準備を着々と進めていた。
「はっ、はっ、はっ……」
無人の廊下を、小柄な少女が走っていた。
慣性制御された船内には、一Gの人工重力が働いている。その環境下を走る少女の未だあどけなさの残る顔には、汗の玉が幾つか浮かんでいた。
「んー、もうっ。まぁた、遅刻しちゃう」
息を弾ませながら走る少女──橘茉莉香は、この巨大移民船のただ一人の操船者である。淡い水色のセーラー服様の上着に、膝上までの同色のプリーツスカート、白いソックスに、足元は白地に紺のシンプルな模様の入ったスニーカーだった。ほんの少しだけ背中にかかる頭髪を、耳の後ろあたりで結って二つのお下げにしている。
彼女の背中には、ちょっとだけお洒落なデザイン画が描かれた、薄桃色の小さなリュックがぶら下がっていた。それは、茉莉香が駆けるために重心が上下に移動するのに合わせて、ゆんゆんと振動していた。今ここに、数学の家庭教師殿がいらっしゃったら、このリュックの動きを、美しい方程式で以って書き記すのであらせられるのであろう。
「うぐぅー。それもこれも、あのオッサンが出した宿題の所為じゃないか。お陰で、毎月楽しみにしていた『ライブ』の生配信も見られなかったぁ。後で覗いたら、気になるSNSもいーっぱいあったのにぃ。チキショウめっ」
懸命に足を運びながらも、少女は、その外見にそぐわない乱暴な言葉使いで愚痴を言っていた。
学校に通っていた頃は、多少は宿題が多くても、友達と協力したり、先生を誤魔化したりしてしのいでいた。しかし、家庭教師と一対一では、裏技も使えない。勿論、正攻法など論外である。勝負になるはずがない。
「だから、家庭教師なんて要らないって、何度も言ったのにぃ。お母さんたら、もうっ」
行き場を失った恨み節が、無情に宙へと消えていった。
そんな時、彼女は前方から走り来る影に気が付いた。廊下は、船を構築する構造物に沿って緩やかに湾曲していて、直線的ではない。曲率の影に隠れていたため、今の今まで気が付かなかったのだ。
「あ、あれ? あれって、確か……」
茉莉香は立ち止まると、そう呟いていた。
「オー、ミス・マリカ・タチバナではないか。こんな早くからお仕事か。若いのに感心な事だ」
彼女の姿を認めて立ち止まった人影は、そう言った。
「お、お早うございます、参謀。……いえ、参謀閣下」
迷彩服に大きな背嚢を背負った人影は、何を隠そう、オルテガ参謀その人だった。彼は汗で濡れた額をタオルで拭うと、茉莉香の傍まで駆け寄って来た。
「はっはっは。そう畏まらないでくれ給え。ミス・タチバナ、キミには随分と世話になったし、迷惑もかけて仕舞った。改めて礼を言わせてくれ」
参謀はそう言うと、茉莉香に向かって深々と頭を下げていた。
「あ、あっあっ。そんな事ありません。こちらこそ、宇宙海賊から護っていただいてありがとうございます」
自分の祖父ともいえるような高齢の参謀に、頭を下げられて、彼女は返って恐縮してしまっていた。
「本当に、もう頭を上げて下さい。あ、あたし、困っちゃいます」
オタオタしている茉莉香に気が付いたのか、ようやく参謀は頭を上げると、再び吹き出てきた汗を拭いていた。
「そうか……。では、今度、お茶に誘ってもいいかな? 第七十七太陽系に辿り着くまでは、世話になるのだからな」
彼は、爽やかな笑顔でそう言った。宇宙海賊との全面戦闘の際の強面の印象が、茉莉香の中で崩れていく。
「あーとっ……、それは構いませんが。……参謀さん、何をやってるんですか?」
いくら戦闘が終結して暇になったからと言って、こんな朝っぱらから何をしているのか? 当然のように沸き起こった疑問を、茉莉香はオルテガ参謀に尋ねてみた。
「え? 何をって。トレーニングだよ、トレーニング。老いたとはいえ、私はこれでも軍人だからな。机で書類整理ばかりしていては、身体がなまってしまう」
彼は、何を当たり前の事を訊く、というような顔をして、そう応えた。
「はぁ……。それでジョギングですかぁ。しかも、そんな大きな荷物を背負って」
元来が怠け者の茉莉香は、それを聞いて、口をあんぐりと開けてしまった。
「そうだよ。本当は、もっと本格的な装備でやりたかったんだが、ハウゼン少尉が許してくれなくてね」
「その通りです、閣下。もうお歳なんですから。それに、閣下に裁決していただかなくてはならない書類も、山程あるのデス。……ホントウにコマッタチャンで困りまぁす」
参謀の愚痴に口を挟んだのは、エリザベス・ハウゼン少尉──ベスであった。
彼女の肢体も汗で艷やかに光っていた。しかも、その出で立ちがあまりにセクシーだった。
ベスは、陸上の女子選手の着るようなセパレート型のスポーツスーツを着用していたのだ。露出度の高いビキニのそれは、彼女の鍛え抜かれた四肢や腹筋を余すところなく披露していた。サンバイザーの下のブロンドの美貌とも相俟って、男性でなくとも性的な魅力を感じてしまう。
「べ、ベス。な、なんて格好ですか。ここ、普通に公共の通り道ですよ」
茉莉香は、女性士官のキワドイ姿に赤面していた。
「はぁーい、マリカ。汗を流すって、いいことよ。そうだ、アナタも一緒に走りましょうよ」
その奥に深い謎を秘めているような碧眼に絡み取られそうになった少女は、
「あ、えーと……、え、遠慮しておきます」
と、折角のお誘いを断った。重ねて言うが、生まれつきの怠け者である彼女は、スポーツで汗を流す事は苦手であった。
「そうデスカ……。残念デース」
どこまで本気なのかは分からないが、ベスは左手のスポーツタオルで額の汗を拭った後、肩をすくめていた。
「フムン、ただ走るとは言っても、訓練の一環だからな。私も第三種軽装備くらいはさせたかったのだが、その格好で走ると言って聞かなくてな……。どうも私は、少尉の価値観とは食い違っているようだ」
オルテガ参謀も、このブロンド美女には手を焼いているように見えた。
「オルテガ中佐……、ソォーリィ、大佐殿は、オカタク考えすぎデェース。これはアスリートに相応しい、由緒正しい衣装なのデス。マリカなら、分かりますよね」
そう言ってウィンクをした美女の隠された二つ名は『氷のベス』。軍の諜報部隊の秘蔵っ子である。このギャラクシー77に乗り込んだのも、表向きは情報将校としてだが、その実、宇宙海賊との戦いに使用した対E兵器の立案者でもあるオルテガ参謀の監視役であった。
事実上の失敗であった今回の作戦の幕引きを、裏でお膳立てしたのも彼女である。
そして、彼女は、未だその任務を続けている。密かに、静かに……。
それを知っている大佐は、少し苦い顔をして彼女に背を向けたまま立っていた。ベスの視線に、歴戦の勇者の感覚が反応したのか、彼は再度吹き出てきた汗を、スポーツタオルで拭った。
「……しかし、この船は大きいな。もう一時間半は走っているのに、ようやく一回りだ。それとも、歳のせいかな? 二周半は出来ると思ったんだが」
彼は、腕につけたスマートデバイスを確認すると、少し不満そうな顔でそう言った。
「え? ええーっ。一時間半もそんななりで走ってたんですか! って、……どんな体力してるんです。ぐ、軍人さん達って、皆そうなの?」
彼らのバイタルの強さに、茉莉香は正直驚いていた。
「ん? そうなのかな? 装備を背負っているとはいえ、たかだか一Gの重力下だからな。本格的なトレーニングなら二〜三Gは欲しいところだが、やむを得ん」
「そうですわねぇ、大佐。その分、ソルジャー達には、特一種装備を推奨しておきました」
「それでも物足りんが……、まぁいい。第四十八太陽系に戻したら、五G重力下での特殊訓練のメニューをさせるように、司令には私から進言しておこう」
突然軍人の顔に戻った参謀は、そんな事を平然と口にしていた。そんな訓練メニューをやらされる兵士達も、いい迷惑である。
(ご、五倍の重力って、なんて荒行なの。それで、軍人さん達って、皆マッチョなんだ。あ、あたしとは、世界が違うわね)
彼我の差を、改めて思い知った茉莉香は、
「す、凄いですねぇー。だから、ベスはスタイル良いんだぁ。あたしには、マネのしようがないなぁ。あ、あはは」
と応えた。自然と額を濡らすのは、汗は汗でも冷や汗である。
(このまま話し込んじゃったら、トレーニングに付合わされちゃう。ここは、逃げるの一手で……)
身の危険を感じた茉莉香は、
「そ、それじゃぁ、あたしはエンジンの調整がありますので。トレーニングのお邪魔をしました。し、失礼します」
と深々とお辞儀をすると、彼らが走って来た方向へと足を進め始めた。
「ああ、ご苦労さん、ミス・タチバナ。キミがパイロットなら、安心して船に身を任せられる」
「マリカ、また今度、ミスターの美味しいスウィーツでお茶をしましょうね」
二人はそう言って、去っていく少女に手を振っていた。
それを聞いて、彼女は一旦立ち止まって振り向いた。そして、もう一度お辞儀をしてから、踵を返す。
本当は行きたくはなかったのだが……。
目的地の操船室には、今日も『家庭教師』という名の宿敵が待っているからだ。
──茉莉香が、廊下でそんなやり取りをしていた頃から二時間後。
ここは、船の深部にある船長室。
船長は勿論のこと、航海長を始め、副長、機関長、保安部長、船務長、掌帆長、技術部長等、船のメインスタッフの面々が集っていた。
「それで……、航路は決まったのか?」
まず、船長が口を開いた。
「はい……」
それに応えた航海長は、いつも通り真面目な顔を崩していなかった。
彼は、返事をした後、左手に持ったパッド型端末の画面に指を滑らせた。室内が暗くなり、壁面の一部が明滅した。
そこに映し出されたのは、無数の光点で表された星々と、右へ左へと緩く曲がりくねった黄色の破線だった。その始点と終点は、一際大きく明るく青緑色に光っていた。
始点は現在位置。終点は目的地──第七十七太陽系である。
「なるほど……。これが航海長、いや航海部の結論と言うことだな」
スクリーンを睨んでいた船長の声は、重々しかった。
「はい。……現時点で具申できる最良の航路案です」
応える航海長の表情は、髪の毛の一筋も変わらなかったが、その声は僅かながら震えているように聞こえた。
「ふむ……。確かに、『現時点』では、これ以上の選択肢はなかろうな」
少し嗄れた声は、副長のものだった。中央電算室の主と呼ばれる副長は、高齢で、滅多に表舞台に出てくることは無いが、その影響力は絶大なものがある。航海長補佐と並んで船の最長老格の彼も、初期の銀河航路開拓期の経験を持つ猛者であった。
──船の中枢電子脳のAIには、副長の人格がコピーされており、現在乗務員達が眼にしているのは巧妙に作られた人造人間で、それをAIが操っている……
と、まことしやかな都市伝説が船内で流布されているほど、多くの者達にとっては伝説的人物だ。この場のスタッフでも、副長に会ったのは数える程でしかない。
しかし、それだけに、彼の言葉は重い。
「副長がそう言うなら、まちげぇねぇな」
野卑た声は機関長のものだった。
「多少、考えるところはあるが、航海長が言うなら間違いないだろう」
「そうだな」
「うむ」
現段階では、航路案に口を挟む者はいなかった。
「そうか……。しかし、途中、かなりの『大遠距離ジャンプ』を敢行しなければならんな。……また、茉莉香ちゃんに負担をかけてしまうのか」
そうは言うものの、船長の言葉には苦々しさが含まれている。
「なぁに、お嬢なら大丈夫さぁ。これまでも、そうだったんだ。今度も問題ないよ」
そういう機関長の声は、やけに大きくて、自らの不安を吹き飛ばしたいようなそれであった。
(不安なのは誰でも一緒か……)
船長の心の中は複雑だった。
──また、あの少女に全てを押し付けてしまう。未だ十代の少女だというのに……
船長には、何の異能も持たない自分が、呪わしいとさえ思えた。
『替われるものなら替わってやりたい』
それは、少女の母の言葉だったろうか……。
その思いを胸に、船長は一度固く目を閉じると、次の瞬間、大きくそれを見開いた。
「よし。航海部提案の航路に決定する。各部、準備にかかれ。機関長、主機関のセットアップは?」
室内に響いた船長の声は、スタッフから全ての不安を吹き飛ばしていた。
「おうよ。いつも通り問題なしだ。バッチリだよ」
応える機関長の言葉も、頼もしかった。
「掌帆長、応急修理の状況は?」
「外装部装甲板、応急修理完了しています。コロイドミストも再チャージしました。大抵のデプリなら、難なくはじき飛ばせます。まぁ、フリゲート艦とか機動兵器とかが、未だあっちこっちに転がってますが、……軍人は頑丈に出来てる。いい勉強になりますよ」
「うむ。保安部長、一般乗組員の様子は? 不安や混乱は?」
「軍から公式な記者会見がありましたから、今は落ち着いています。情報統制に問題はありません。特に治安維持の観点から、警備課には多めに人員を配置しました」
「ご苦労。航海長、航路の最終チェックを。特に星間マップと照合して、航路上の質量と電磁場の偏在には、充分な注意をするように。技術部長、航海部を最優先でバックアップ。必要ならば、移民街区の情報処理リソースを回しても良い」
「分かりました」
「了解です」
次々と下される船長の司令は、的確であった。
「医師、『ESPエンジン』駆動に関して、茉莉香ちゃんへの影響を……」
「大丈夫。あの娘は見かけ以上に強い。メンタルバランスもフィジカル面も問題ない。何かの時でも、専任のスタッフが、いつでもサイコウェーブの波形調整を施すようになっとる。まぁ、これも、あの『移民の少年』のモニタリングが、結構役に立ってるがの」
少し不遜な態度ではあったが、彼の応えも心強かった。
「ならば、航海長、出発予定時刻は?」
船長の視線は、再び航海長に向いた。
「明朝、グリニッジ標準時午前十時を予定しています」
彼は、手元の端末を確認すると、そう明確に応えた。
「よし。本船は、明朝グリニッジ標準時午前十時に、この宙域を離脱する。各部、直ちに作業に取り掛かれ」
『了解』
この場のスタッフは、全員敬礼をすると、そう応えた。
ギャラクシー77は、その内に秘めた真の能力を再び発揮する刻を迎えようとしていた。




