至るべき星へ向かって(1)
──乗組員の皆さんにお知らせします。本船は、現在、船体の応急メンテナンスのため、慣性航行を行っております。補修作業のため、船内に一部進入禁止区域が設けられております。移動に際しては、お手持ちの端末で予め情報を確認するようにお願いします。繰り返します。本船は、船体の応急メンテナンスのため、慣性航行を行っております。補修作業のため、船内に一部進入禁止区域が設けられております。移動に際しては、お手持ちの端末で予め情報を確認するようにお願いします。
白っぽい灰色の強化樹脂と金属・セラミック複合体で出来た船内に、柔らかい女性の声で放送が鳴り響いていた。
ここは、恒星間航行用超大型移民船ギャラクシー77の船内である。
先の宇宙海賊との戦闘で傷ついた船体は、未だ危険渦巻く宇宙空間を疾駆出来るほどには回復していなかった。
「おばよぉー、おがぁざんぅ」
酷いガラガラ声が、キッチンで食事の用意をしている由梨香の耳に届いた。
「……んー、もう。あの娘ったら。ふぅ」
深い溜息を吐いた彼女は、コンロのスウィッチを切ると、味噌汁を二人分、お椀に注ぎ始めた。
そして、後ろを振返りもせずに、
「茉莉香、起きたんなら、ちゃんとした服を着なさい。それから、顔を洗う。朝ご飯、冷めちゃうわよ」
と、見事に娘の状態を見抜いたのだ。
案の定、起き抜けの少女は、下着の上にTシャツを引っ掛けているだけだった。声がガラガラなのは、夜更しをしていた所為だろう。勿論、持ち帰ったパイロットの仕事をしていたのではなく、今流行りのネットゲームに興じていたためである。
「ふぅぁい。……寝みぃ~」
あくびを噛み殺した宿酔いのおっさんのような声を発すると、少女は洗面所に消えた。
「全くもう」
愚痴っぽく一言漏らすと、由梨香は、朝食のために作ったばかりの韲え物と焼き魚を、ダイニングのテーブルに運んでいた。注いだばかりの味噌汁を並べた後で、彼女は首を傾げて、何事かを思案していた。
「そうね。何か足りないような気がしていたんだけれど、やっぱりアレだわ」
由梨香はそう呟いてキッチンに戻ると、冷蔵庫を開いた。奥の方から密閉蓋付きの陶器の入れ物を取り出すと、扉を閉める。テーブルに持っていく前に、一度蓋を開けて中を確認する。中身は、紫色も鮮やかな柴漬けであった。
「ふふ、これこれ。茉莉香の大好物ですものね」
娘に聞かれないように小声で囁くと、彼女は蓋を締め直してテーブルに持って行った。
「ふぅわぁぁ。未だ眠いよぉ、お母さん」
母の心娘知らず。
茉莉香の半分閉じた瞼には、リビングの照明は未だ明るすぎるようだ。
「今日、お休みしたら、ダメ? かなぁ」
パイロットの仕事と学校とをごっちゃにしているのか、ボサボサ頭のままの少女は左手にぶら下げたタオルを引きずりながら、ダイニングへと歩みを進めた。
「駄目に決まっているでしょう。慣性航行中だとは言っても、『ESPエンジン』の調整とか次のジャンプの準備とかがあるんでしょう。パイロットに代わりは居ないんだから、茉莉香はちゃんと出勤して仕事をする。良いわね」
母の応えは理路整然としていて、至極尤もであった。反論の余地はない。
「だよねぇ。ふぅあー。お母さん、お茶か何か無い?」
幼いパイロットは、出勤に備えてなんとか眼を覚まそうと考えた。取り敢えずは喉が渇いている。
「テーブルの上に出してありますよ。未だ熱いから、気を付けなさい」
由梨香は、娘の行動を先読みして、既にお茶を用意していた。これでは、どちらが超能力者なのか分からない。
「ありがとー、お母さん」
そう言って、茉莉香はダイニングの椅子にどっかと座ると、いそいそと緑茶の入った湯呑みに手を伸ばしていた。湯呑みを手に取ると、そのまま口元に運ぶ。未だ熱かったが、気にせず口をつける。
「うわっちぃ、ちちちち」
思わず悲鳴が漏れたが、無理やり喉に流し込む。淹れたての緑茶の苦味と火傷しそうな熱さで、一気に精神が覚醒した。
「ぷっはぁ。目が醒めた。お母さん、ご飯」
未だ十代の娘だというのに、茉莉香はおっさん臭いポーズで朝食を要求した。
「はいはい、出来ていますよ。それよりも、折角洗面台へ行ったのなら、髪くらい梳きなさい。もう、アホ毛が跳ねてるわよ」
この母は、娘の風体にほとほと困り果てていた。
さすがに外ではこんな格好はしていないだろうが、操船室は、事実上、茉莉香の個室のようなものである。一人で籠もっている時に、果たしてどんな格好をしているのか? と考えると、頭が痛くなる由梨香であった。
「いっただきま~す」
そんな母の心境には全く思い至らない娘は、温かご飯にふりかけをかけると、箸でそれを掻き込んでいた。
「これ、茉莉香、はしたない。もっとお行儀よく食べなさい。それから、よく噛んで。お野菜も食べるのよ」
ギャラクシー77の専任パイロットになったとは言っても、由梨香にとって、茉莉香は未だまだ幼い子供も同然であった。夫を喪ってからこっち、女手一つで娘を育ててきたのだ。愛着も一入だろう。
これから彼女が成人するまで、お料理とかお裁縫とかの家事や、一般常識やマナーを教えて、取り敢えず一人前にして社会に送り出す。その過程は、一朝一夕には進まないだろうし、茉莉香が反駁する時もあるだろう。しかし、それは茉莉香が娘として生を受け、自分が母親になった時から始まった。どの母娘も持っている幸せの権利みたいなものだ。そして、由梨香は、それがずっと続くものと思っていた。
だが、そんなごく普通の誰もが持っている親子関係は、既に望めないものとなった。茉莉香が、『ESPエンジン』のパイロットになった時に……。
(あらあら、またおセンチな事を考えちゃって。未だまだ子供だし不安もあるけれど、この娘にもやるべき仕事が出来たんだわ。そして、それは茉莉香にしか出来ない事。だったら、私が一番に応援してあげなけりゃ)
自分の食事も忘れて、由梨香は我が子の食事風景に見入っていた。
「どーしたの、お母さん? ご飯、冷めちゃうよ。『温かい物は温かいうちに。美味しい物は、美味しいうちに』って、いつも言ってるじゃない」
しばし呆然としていた母に気が付くと、少女はそう指摘した。ただ残念なのは、手に持った箸で由梨香を指したところである。
「これ、茉莉香。お箸で人を指すものじゃありません。お行儀が悪いですよ。……ああ、やっぱり女手一つで育てたからかしら。こんなにもガサツになってしまって」
これもまた、橘家のお約束の一つであった。言っても直らないのはとっくに分かっている。それでも、どうしても指摘してしまう。そして、お小言を言われた方は、
「別にいいじゃない。外ではやってないし」
と、嘯いていた。それで、由梨香は額に手を当てると、
「一時が万事です。普段から出来ていないと、思わぬところで失敗しますよ」
と、娘を嗜める。
この一連のやり取りが、毎朝繰り返されてきたのである。茉莉香に、呼び出しや泊りさえ無ければ……。
「お母さん。お茶、お代り」
元気の良い声とともに、空になった湯呑みが突き出された。
母は、一瞬、顔をしかめた。そして、やれやれという態度で湯呑みを受け取った。そして、まだ熱い急須から、緑茶を注いでいた。
「はい、お茶のお代りですよ」
彼女はそう言うと、手を伸ばして再びご飯を掻き込んでいる娘の前に湯呑みを置いた。
「ありがと」
少女はそれだけ言うと、テーブルの上の湯呑みをかっさらった。そのまま一口、お茶をすする。
朝食に満足そうな娘を見ながら、由梨香はしばし宙を眺めていた。
そんな時、不意に茉莉香が声を掛けて来た。
「ねぇ、お母さん。どうして、お茶を淹れるのに、わざわざお湯から沸かして、お茶っ葉を入れて作るの?」
「え……?」
娘の言葉に、母は一瞬、何の事を言っているのか分からなかった。
二分ほど思案して、言われた問い掛けの内容を把握すると、自信なさげにこう応えた。
「ええっと、何故って言われても……。それがお茶の淹れ方だから」
由梨香には、これで茉莉香の疑問の答えになったのか分からなかったが、それ以外に答えようが無かったのだ。
それに対して、茉莉香は、こう主張した。
「いや、そう言う事じゃ無くって……。何で、機械やボトルを使わないのかなぁ? って事。オフィスには、よくドリンクのサーバーが置いてあるでしょ。コンビニにだって、温めるだけのお弁当を売ってるじゃない。なのに、どうしてわざわざ野菜やお肉から料理したり、出来合いのお茶のボトルを使わないで、茶葉からお茶を淹れるのかな? これって、不思議じゃない」
「…………」
これにも、由梨香は即答出来なかった。
以前に食堂に努めていた彼女には、食材から料理を作ったり、茶葉からお茶を淹れる事は、ごく当たり前の事で、そこに疑問を挟み込む余地など無かったからだ。
「ええーっと、茉莉香。どうしてそんな事を訊くの?」
母には、パイロットになってからこっち、時折、娘の言う事が理解出来なくなる事があった。
「んーとね、『ESPエンジン』の記憶にあったの。えーっと、大昔の人達は、機械文明が進んで宇宙にまで進出するようになると、食事なんかはサプリメントみたいな物になるって思ってたらしいんだって。宇宙船の中の食事は、『ボトルからストローで栄養剤をチューって吸ったり、完全食のカプセルを飲み込んで終わり』、なんて事を想像してたんだって。でも、ギャラクシー77じゃ、そんな事無いでしょ。船外作業で時間も場所も無い時に、仕方なく非常食みたいなのを摂ることはあるけど。普段の食事はこんなじゃない。機械知性体もオートメーションシステムも完備しているのに、どうして食事を作るのは人間なんだろうな? って思ったの。どうして、機械に任せないのかなぁ? って」
(茉莉香、……何だか難しい事を言うようになったわね。そんな事、私は考えた事も無かったわ。……だって、毎日当たり前にやっている事だもの。困ったわ。……どう答えようかしら)
由梨香は思案した挙句、こう答えた。
「ええーっとぉ、それは、人間が食べるからじゃないかしら」
そうは言ったものの、彼女の顔は引きつっていた。子供の疑問に答えられないなんて、親の威厳にかかわる。
「人間が食べるから? うーん、……ナルホド。そうかもね。機械は、電気とかオイルとかが食事だけど、人間の食べ物は複雑だもんね。やっぱ、機械知性体群には完全には理解出来ないんだ。……うん、やっと疑問が解けたよ。さっすが、お母さん。ありがと」
少女は、如何にもスッキリしたと云う表情になると、食事を続けていた。しかし、答えを出した筈の母は、「納得がいかない」と云う表情をしていた。
人類が宇宙に出られるようになってから、数百年近く経っている。さすがに銀河を自由に走破出来るようになったのは、この百年ばかりの間ではあるが、規模の大小はあれど宇宙船やコロニー内での人間の生活には、それなりのノウハウが蓄積されてきた。
生物としての人間に必要な栄養素は、既に知り尽くされていた。茉莉香の言うように、必須栄養素だけをカプセルやタブレット化して摂る事など、とっくの昔に発案され関連特許も切れている。
味覚についても同様だ。カプセルやドリンク剤が味気なくて不満なら、高級ビーフステーキの味わいを再現する事など造作も無い。
形も栄養素も味わいも、本物と変わらない合成食品を作る技術も、既に枯れたモノだ。
それでも、ギャラクシー77を含む大小の宇宙船では、『料理は自然に近い環境で育てた食材から人の手で調理された物』が饗されている。勿論、限られた宇宙船の中である。保存のために冷凍されたり、調理済み、もしくは半調理されたレトルトも多い。
だが、最後に人の口に入る時には人手をかけるのだ。それは、「ただ温めて皿に盛る」、その過程にすら一枚噛んでいる。
その為にコロニーなどでは、プラント──それは人工の環境かも知れないが──と呼ばれる農場や養殖施設が建造され、運用されている。そこで、穀物や野菜を育て、食肉用の動物を飼い、魚や貝類も養殖し、食材として加工されて出荷されるのだ。遺伝子レベルにまで至る品種改良はされているが、決して合成食品では無い。
──どんな環境で生活しようとも、人間が生きるには人間らしい食事が必要なのだ
人間が『生物学的な人間』という器を持っている事に由来するこの事実は、この時代の者達が考えているよりも遥かに重く大きい。でも、地球圏を離れた外宇宙でこれを維持する事は、極めて難しい。
実際、長期間太陽系を離れて航行するギャラクシー77や、同型の恒星間航行用大型宇宙船では、船内でも、小規模ではあるが、食品を育成する小規模のプラントが設けられている。
機械知性体から見れば、それはなんと無駄な事に見えるだろう。だが、それ無くして、人間という生物は人間として生きて行けないのだ。
宇宙進出の初期では、保存がきき簡便に摂取できるサプリメントを改良した栄養完全食が開発され、宇宙食として宇宙船乗りに饗された時代もあった。
しかし、太古の地球の『大航海時代』の船乗りを恐れさせた壊血病のように、原因不明の疾病が乗組員達を襲ったのだ。
その原因は依然として不明であり、無重力や密閉状態の船内環境の他、『完全食』も、医学的・生物学的、更には心理学的・社会学的にも徹底的に見直されたものの、解決には至らなかった。
そして、ある無名の栄養士の考案した、『地球上の家庭や食堂での晩餐に限りなく近づけた食事』を宇宙食として提供する事で、それは呆気無く治まったのである。
以来、宇宙船の大小を問わず、船内の食事は、可能な限り一般家庭の食卓に近い伝統的な料理を再現するようになったのだ。
その結果、化学合成や細胞増殖法による合成・半合成の食材素材の開発は打ち切られた。代わってレトルト食品や冷凍保存などの『保存に適した調理済み・半調理済みの宇宙食』の開発に取って代わられ、それが今日まで続いている。
だが、そんな事情も、茉莉花や由梨香達母娘には思考の外である。周りも自分達も、以前から慣れ親しんだ方法で食事を摂っているに過ぎないのだ。
「あー、喰った喰った。ごちそーさまぁ」
茉莉香は、目の前の焼き魚と柴漬けでご飯を平らげると、満足そうに両手を合わせていた。
由梨香は、その粗暴な口調と、韲え物が残された事に眉を顰めた。しかし、
「お母さん、ありがとう。さぁーて、仕事仕事」
と、意気揚々と立上がって、着替えをするためだろう、自室に向かう娘を呼び止めるまでは出来なかった。
「はぁー。もう少し、お野菜も食べてくれれば……」
彼女は、深い溜息を吐いて愚痴をこぼすのが精一杯であった。
茉莉香の残したおかずの皿を、母は自分の方に寄せると、ぼそぼそとそれを片付け始めた。船で生活する者として、残飯として廃棄するには心苦しかったからだ。
(これまで私が働きに出ていて、一人の食事が長かったからかしら。気を付けないとね)
母が娘の健康を案じていると、程なく<バタバタ>とした足音が、廊下から聞こえてきた。
「行ってきまぁーす」
十代の少女らしい元気いっぱいの声の後から、<バタン>という玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
「まぁ、騒々しい事」
そう言って、再び溜息を吐いた由梨香は、少し冷めたお茶を喉に流し込んだ。そうして、小さくこう呟いた。
「行ってらっしゃい、茉莉香」




