訓練(1)
茉莉香は、Gブロックの廊下を走っていた。
「遅れる、遅れる。もう、何でこんな日に限って、朝寝坊しちゃうんだろう」
今日から、ギャラクシー77のパイロットとしての訓練が始まる。その初日に遅刻なんて、なんて恥ずかしい。
急いでいる茉莉香が、操船室の近くまでやってきた時、前方にゆらゆらと歩いている人物がいた。茶色っぽいツナギを着たその男は……、
「あ、機関長さん、お早うございます」
彼は、その声に振り向くと、
「やぁ、お早う、お嬢ちゃん。ほう、今日は、何か涼しい格好だね」
と、応えた。
茉莉香の服装は、ノースリーブのブラウスにミニスカートだった。
「そうよ、あたしだって女の子だもん。どうだ、欲情した?」
彼女は意地悪そうに、男を挑発した。
「へっ。俺は、お子様は相手にしないんだよ。それはそうと、今日から訓練じゃなかったっけ。あんまり待たせると、爺さん、知らないうちにポックリ逝ってるかも知れねぇぜ。急いで行ってやんな」
「そ、そんなの分かってるわよ。だから急いでたの。じゃぁ、またね」
「おう、頑張りな」
と、茉莉香は、機関長をやり過ごすと、操船室へ急いだ。
出入り口のスライドドアが開くと、すぐに部屋の中に飛び込む。
「お早うございます。遅れてすいません」
そこには、安楽椅子に身体をもたれかけている老人が居た。今は、浅い眠りに落ちているように見える。
茉莉香は、安楽椅子にそおっと近付くと、老人の顔を覗き込んだ。
「ぱ、パイロットさん、お早うございます」
彼女が呼びかけると、老人は目を薄く開き、首を茉莉香の方に向けた。
「やぁ、新米さん。お早う。今日は、やけにゆっくりだね」
老パイロットは、そう言うと、「ふぅ」と息を吐いた。
「すいません。寝坊しちゃって。あ、明日からは、ちゃんと時間通りに来ますから」
少女は、ちょっと慌ててそう言った。
「はは、気にしないさ。ESPエンジンは逃げやしない」
老人は少し笑って、そう応えた。そして、しばらくの間、茉莉香のことを見つめていた。
「私の顔、何かついてます?」
沈黙の時間に耐え切れなくなった少女は、老パイロットに尋ねた。
「ああ、済まなかったね。何でも無い。……じゃぁ、訓練を始めるとするか。まずは、その『ESP制御バンド』を取りなさい」
老パイロットにそう言われて、茉莉香は困ってしまった。
「このメタルバンドは、取れないんです。小さい頃、ウザくって取ろうとした時があったんですが、引っ張っても何してもダメ。ハサミで切ろうとしても、硬くて切れなかったんです」
老パイロットは、彼女の言葉に、じっと耳を傾けていたが、
「ふむ、そうかい。だが、『ESP制御バンドが取れない』っていうのは気のせいだよ」
「ええ! 気のせいなんですか」
茉莉香は驚いて、思わず叫び声を上げてしまった。
「そうさ、気のせい、気のせい。『メタルバンドが外れない』っていうのは、一種の暗示なんだよ。さぁ、心を集中して。大丈夫、取れる、取れる」
老人に言われて、茉莉香は精神を集中し始めた。邪念を捨て、心を空に。そして、ただ一つのことに集中する。
「取れる、取れる、取れる……」
彼女は言われるままに、呪文のようにそう唱え続けていた。
一体、どのくらい集中していただろうか? 気がつくと、彼女の首のメタルバンドが、床に落ちていた。
「お嬢ちゃん」
老人からかけられた言葉で、茉莉香は我に返った。
「え? は、外れた。何で? 今までどうしても外れなかったのに」
パイロットは、目を細めると、
「そうだね。外れた。『ESP制御バンド』は、着けた者に擬似ESPパルスで暗示をかけるんだ。「バンドは絶対に外せない」とか、「ESPが使えるはずがない」とかね」
老パイロットの説明に、少女は目を丸くしていた。
「じゃぁ、今まで取れなかったのは、ただの思い込みだったんですか? 全然気が付きませんでした」
「能力の強いエスパーほど、強く感応するからね。まぁ、盲点と言えば、その通りかも知れないがね」
老人はそう言うと、安楽椅子の上で上半身を起こした。
「さて、新米さん、気分はどうかな?」
こう訊かれて、茉莉香は我に返った。そして、老人の顔を見ると、こう言った。
「何か、こう……、スッキリした感じです。ずっと続いていた耳鳴りが、急に止んだって言うか。なんか、そんな感じです」
「そうかい、そうかい。特にこの部屋は、余計なノイズが入ってこないように、ESP波を遮断しているからね。静かなものさ。……では、もうちょっと近くにおいで」
老パイロットにそう言われて、茉莉香は安楽椅子に近づいた。
パイロットは片手を持ち上げると、
「さぁ、わしの手を握りなさい」
と言った。少女は、おずおずと、か細くて皺くちゃのその手を、そっと握った。
その途端に、眼の奥に何かチカチカした物が弾けた。そして、耳の奥に、音楽のような何かが響き始めたのだ。
「うわっ! な、何ですか、これ。何か、目が眩みそう」
「大丈夫かね、お嬢ちゃん。それが、わしのESP波じゃよ。すこし、念が強すぎたな」
そう言ったきり、老人は黙り込んだ。しかし、手を握っている茉莉香には、老人の言葉がはっきりと聞こえた。
──新米さん、聞こえているかね?
そう言われて茉莉香は、
「はい、聞こえています」
と、口に出して喋った。
──うん、よろしい。どうだい、ちゃんと接触テレバシーで、声が聴こえるじゃろう。
「あ、はい。なんか、いつもよりはっきりと聞こえます。
──ふむ、気持ち悪くはないかい?
「いいえ、何だか、心が開放されたような感じです。
──ウンウン、それじゃぁ、今度は頭の中で何か考えてご覧。
「え? 頭の中でだけですか。ええっと。何かを考えればいいんですね」
そう言って、茉莉香が考えたのは、お昼ごはんの事だった。
──成る程、成る程、お昼が楽しみなんじゃね。ほう、お弁当を持って来たのか。
──ええ! 聞こえちゃいました。……あー。ええっと、そうじゃなくって。お弁当を、パイロットさんと一緒に食べられたら楽しいかなって。
──大丈夫、大丈夫。しっかりと聴こえたよ。ほう、わしの分と、それからデザートもあるのかい。それは本当に楽しみじゃのう。
「ええ、あたしそこまで考えてないのに、……伝わっちゃった。これじゃぁ、考えてることが、全部丸見えだよう」
自分の考えのあまりの下らなさに、彼女は、思わず口に出して喋っていた。
「ははは、最初は、これくらいにしておこうかのう」
老パイロットは、茉莉香の手を離すと、そう言った。
「今のが、『テレパシー』ってやつなんですか?」
「そうだよ。もっとも簡単な『接触テレパシー』だ。お嬢ちゃんの場合は、ESP制御バンドの暗示で、テレパシーを使えないものだと思い込んできたから、なかなか慣れないのじゃろう」
老人はニッコリと笑みを作ると、左手で茉莉香の頭を撫でていた。子供扱いのようだったが、茉莉香には、悪い気がしなかった。なにか、ふわふわして、ぽわぽわして、懐かしい感じのするものだった。
「えーっと、それじゃぁ、訓練をすれば、手を繋がなくても他の人と心でお話できるようになるんですか?」
老人は、ふぅと息を吐くと、
「そうじゃな、そういう事になるか。じゃが、心配は要らんよ。わしが手伝ってやる。急がなくていいから。ゆっくり、ゆっくりとな」
茉莉香の訓練は。このように始まった。
テレパシーを制御するための『初歩』からである。
そのうちに、今日の『ジャンプ』の時間になった。
安楽椅子の脇に備え付けられたコンソールが、チカチカと光を放つ。
「お嬢ちゃん、もうすぐ『ジャンプ』じゃ。ここに座って、そして、わしの手をしっかり握っておきなさい。今は『ESP制御バンド』を着けてないから、ちょっと辛いかも知れんが。大丈夫じゃ。少しの間だけ、頑張ってみなさい」
老パイロットは、そう言うと、精神を集中し始めたようだった。茉莉香の頭の中にも、握った手を通じて、様々なモノが流れ込んでくるのが分かった。
──星の渦、光の波、そしてESPエンジン……
そんな色々なモノが綯い交ぜになって、茉莉香の頭の中で渦巻いていた。
<ジャンプ十秒前、カウントダウン開始、……五、四、三、二、一、『ジャンプ』>
状況を知らせるコンソールからの電子音が途絶える。その時、茉莉香は、床の上にへたり込んでいた。背中は、汗でグッチョリしていた。
──こ、これが『ジャッンプ』
思ったことは、口に出せなかった。
「そうじゃよ、これが『ジャンプ』じゃ。本当は瞬間移動じゃがな」
老人は優しくそう言った。
「どうだね、お嬢ちゃん。立てるかい?」
老人の言葉にも、茉莉香は、
──はい、……もうちょっとすれば
と心でしか返事が出来なかった。
「ははは、大丈夫かね。まぁ、そのうち慣れるさ」
しばらくして、少女は顔を上げた。
「はぁー、しんどかった。でもこれ、学校で『ジャンプ酔い』になったのとは、比べ物にならないわ。もう、全力疾走したみたい。あんまり凄すぎて、気を失うことも出来なかったよ」
少女の頬に、汗が伝って、顎から滴っていた。そんな彼女に、老人は、ニッコリと笑いかけた。
「最初は皆そうさ。すぐに慣れる」
その言葉は優しく、祖父が孫娘にかける声にも似ていた。
こうして、茉莉香のパイロットとしての訓練の日々が、始まったのだ。




