パイロットの資質(1)
薄暗い部屋に彼は居た。
古ぼけた安楽椅子に身体を預けた彼の目は半眼に閉じられ、居眠りをしているようにも見えた。深く刻まれた皺から、彼は高齢の老人と見て取れた。
彼の手がピクリと振るえた時、手元のコンソールが着信音を告げた。老人は、端末を取り上げると、画面に指を滑らせた。
<橘茉莉香の検査結果を報告します>
端末の画面には、壮年の男性が映っていた。
「手短に頼むよ」
老人は簡単にそう告げた。
<橘茉莉香の適合率予想値は九十八パーセントでした。詳細な情報は、プロテクトを掛けてデータベースに登録しておきました。そちらの端末から、参照できますので>
「ありがとう。……そうか。やはり適合者だったか。彼女がパイロット候補であることは、わしから告げよう。手間をかけさせて悪いが、ここに連れて来てくれないかな」
老人の頼みに、画面の男性は、
<分かりました>
とだけ応えると、通話が切れた。
老人は、「ほう」と溜め息を吐くと、また安楽椅子に座り直した。そうして、
「やぁ、元気かい? もうすぐ、君の新しいパートナーに、会えるよ。長い付き合いだったが、わしは、もうそろそろお別れじゃ。と言っても、何の感慨も無いか。……まあいい。わしの仕事も、そろそろお終いを迎える。長かったなぁ」
老人は、そう独り言を呟くと、浅い眠りについた。
その頃、茉莉香と母は、『保健衛生センター』の食堂で食事をしている最中だった。
「病院の食堂って、もっと味の薄いさっぱりしたものばかりだと思ってたけれど、そうでもないのね」
母の由梨香がそう言った。船内の食堂に務めている彼女には、メニューの内容が気になるらしい。
「でも、このバーコードで、カロリーや栄養バランスが分かるようになってるんだよ。その辺は病院らしいね」
母の正面で、茉莉香はハンバーグ・ステーキを食べながらそう言った。
かくいう由梨香は、豚の生姜焼き定食だった。
「美味しい。タレがよく浸み込んでてジューシー。隠し味には何を使っているのかしら」
「お母さん、病院に来てるんだから、仕事の事は一旦忘れようよ。ご飯、美味しくなくなっちゃう」
「あら、ごめんなさい。でも、ついつい気になっちゃうのよねぇ。プロ意識かしら」
「でも、これだけ食べてもタダなんて、『保健衛生センター』も太っ腹だね。午前中の検査は、ちょっと鬱陶しかったけど、お昼、奢ってもらったから許す」
「そうよねぇ。普通、これぐらいだったら、千二百円は取るわよね。まぁ、こっちは呼び出された側なんだし。あ、でも、昼食も検査の一貫なのかしら」
首を少し傾げて、由梨香はそんなことを呟いた。
「変なこと言わないでよ、お母さん。ご飯がまずくなるぅ」
「あら、ごめん、ごめんなさい。でも、美味しいわよねぇ。やっぱり、隠し味が気になるわぁ」
「もう、しようがないんだから」
料理が気になる母に対して、娘の方は、ちょっと不貞腐れると付け合せのポテトを口に運んだ。
しばらくして昼食を終えると、二人は『保健衛生センター』の脳神経科の窓口に戻ってきていた。
母は窓口で、
「橘です。戻って来ました」
と告げた。すると、さっきとは別の男性が顔を出した。
「橘さんですね、伺っています。午前は、お疲れ様でした。わたくし、当センターの所長をしております、若林と申します。血液検査や脳波の結果をお知らせしたいので、こちらにおいで下さい」
「センターの所長さん、ですか……」
急に『保健衛生センター』のトップが出てきたので、二人は面食らってしまった。
「大丈夫ですよ。わたくしに着いてきて下さい」
「……はぁ」
と、若林所長に言われるままに、茉莉香たちは廊下を歩いていた。
すると、着いたところは、電動ビークルの発着場であった。
「EVで移動するなんて、遠いんですか?」
茉莉香が不安になって、所長と名乗った男性に尋ねた。
「大丈夫、すぐ着きますよ。お嬢さんの場合、特別なケースですので、船の関係各部門の方にも結果を聞いてもらいたいのです」
と、彼は答えた。しかし、それを聞いた茉莉香たちは、ぽかんとしていた。茉莉香の『ジャンプ酔い』は、それ程に重要な事なのだろうか?
センターの発着場から出て、いくつかのプラットホームを通り過ぎると、やっとEVは停車した。
「着きましたよ」
所長は一言そう言って、茉莉香たちをビークルから降ろした。
「ちょっと離れていますが、実はそんなに距離はないんですよ。少し歩く程度です」
先に立って進む男性に、茉莉香の母は、
「何処へ行くんでしょうか?」
と、不安げに質問した。
所長は、
「この船の操船室へ行きます。そこで、ある人物に会ってもらいます」
「ある人物……ですか?」
由梨香はそう言ったきり、押し黙ってしまった。そんな様子の母に、茉莉香は不安になっていた。
十数分ほど歩くと、所長はあるドアの前で立ち止まった。
「ここです」
所長がそう言うと、分厚いドアがスライドして開いた。部屋の中は薄暗く、数人の男たちが立っていることだけが、ようやく分かった。
眼が慣れると、部屋の奥には安楽椅子があり、そこには高齢の男性らしき人物が身体を預けているのが見えた。
「どうぞ、お入り下さい」
室内に立っている男性の一人から、声がかけられた。茉莉香の母は、何故かその人物を何処かで見かけたような気がしていた。
その時、その男性が進み出た。
「ようこそ、本船の操船室へ。初めまして、わたしは船長の権田です」
そう言われて、二人は驚いた。
「せ、船長さん、ですかぁ……」
驚く母娘をよそに、別の男性はこう名乗った。
「航海長の水田です。こっちは、機関長の片瀬。それと、チーフエンジニアの内藤です」
「は、はぁ」
そう紹介されても、二人には、事情がさっぱり分からなかった。
そして最後に、安楽椅子に横になっていた老人が自己紹介をした。
「わしがパイロットの竜田だよ、お嬢さん」
つまり、船の最高幹部が勢揃いしている訳だ。だが、彼女たちには、どうしてこうなったのかが、さっぱり分からなかった。
「船長さんに、航海長、機関長に、チーフエンジニアとパイロット……」
茉莉香は呆気にとられて、それだけをようよう口に出した。
「『ジャンプ酔い』って、こんなに重要な事柄だったんですか? ……まさか、茉莉香を──娘をどうにかするつもりですか! 船から降ろすんですか」
母の由梨香は、娘に何かされるのかと思い込んで、茉莉香を庇うように両腕で抱きかかえた。
船長たちは少し慌てると、そんな母親をなだめるようにこう言った。
「ああ、すみません。お嬢さんに危害を加える気は、全くありません。ただ、我々の頼みを聞いてもらいたいのです」
「頼み……ですか?」
母がこう応えると、安楽椅子の老人──パイロットと名乗っていた男性が、
「おいで。君が茉莉香ちゃんだね。いい子だ、怖くないよ」
と、少女を手招いた。
彼女は、母の方を一旦見上げていたが、意を決したように、ゆっくりと安楽椅子へと近寄った。
「おいで、大丈夫だよ。何もしないさ」
老人は、安楽椅子から半身を起こして、茉莉香を手招いていた。
彼女は、老パイロットの直ぐ側まで来ると、
「橘茉莉香です。初めまして」
と、彼女にしては丁寧に挨拶をした。
「いい子だ。茉莉香ちゃんかい。いい名前だ。歳は幾つだね?」
「先月、十六歳になりました」
彼女は、問われるままに応じた。
「うんうん、可愛い子じゃのう。きっと、お母さんに似た美人さんになるぞ。……あーと、今日、茉莉香ちゃんを呼んだのは、『特別な頼み事』があったからなんじゃ」
老人がそう言うと、
「頼み事? 特別な……」
と、彼女はオウム返しに答えた。
「そうじゃ。茉莉香ちゃん、君にはこの船──ギャラクシー77のパイロットになって欲しい」
老人の言葉は、すぐには茉莉香には分からなかった。しかし、しばらくすると、その意味が飲み込めてきた。
「えっ? ええええぇぇぇぇぇぇ、パイロットですかぁ」
いきなり「パイロットになれ」と言われて、茉莉香は混乱していた。




