AIに任せきりになる危険性
かなり偏った見解を展開。
AIはこれからも人類に大きな影響を与えるのは必至。
だからこそ個人の意思を大事に。
AIの進化によって、あらゆるものが学習され、動画ですらリアルとの区別がむずかしくなっていく。
ならば文章も当然、AIが作ったものか、人間が作ったものかがわからなくなっていくだろう。
人間の作家やクリエイターはいなくなるんじゃないか。そんなことも考えられるが、ここでは取り上げない。
私が気にしているのは、もっと地味なところだからだ。
それは、多くの人がAIを利用し、安易な気持ちでAIを頼るところから、どんどん削られていくものがある。と考えるからだ。
文章の添削をAIにさせる。
それは編集者から仕事を奪うとか、そんな問題ではない。
簡単にAIの指示を取り入れて、あらゆるものが個性を失うことを恐れている。
「個人的な感情を入れないAIだから、AIのいうこと(添削、判断)は正しい」
こんなふうに簡単に考えるようになれば、人の思考は簡単にAIにコントロールされてしまう。
AIが数秒で物語を創り出し、それを「楽しい」「よくできている」と受け入れていけば、そうしたAI生成作品が多くの人に受け入れられていくだろう。
その内容は果たして個性的で、洗練されたものとなるだろうか。
人によって作られた文章でさえ、簡潔な文章が好まれてきた。
読み手の多くはすでに単純なもの、テンプレ、読むのに考えたり想像したりするような内容の作品を避け、苦労しなくても読めるものを選んでいる。
そこにAIが加われば、もはや文章に求める内容を「わかりやすく読みやすい」ものだけになっていく。
AIに添削させれば、まして「ネット小説に合わせた内容に添削して」などと指示すれば、その小説がどうなるか火を見るより明らかだろう。
そこには作者としての個性が残るだろうか?
くせのある文章を否定して、だれもが気軽に読める文章に変えてくれるAI。
それは画期的であり、そして何か大切なものを失うきっかけになりそうな気がしてならない。
人間の編集者にしても、編集の手が入ることによってダメになった作者もいると耳にする。
添削のメリットデメリットは、人間であってもAIであっても変わらないだろう、そういう人もいるかもしれない。
だからこそ書き手は、自身の個性を失うようなことに敏感になるべきじゃないのか。
読者も、AIが添削して読みやすくなった「のっぺらぼう的な作品」で満足せず、もっと特殊な内容や文章のものを読む力を身につけるべきなんじゃないのか──
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創元社文庫や早川文庫にあるような、重たい雰囲気のある作品。そのような作風に合う文庫とは、小学生でも読めるような文庫ではない。
そうした作風の物語がネット小説で書かれてもいいはずだ。(私の書いたエッセイ『ファンタジー好きに紹介したい、海外ファンタジー小説』を見て、その中にある作品を読んでほしい)
読書など、言葉を使う作業から思考の形式が豊かになっていく。
読書や会話。そこから複雑な人間の個性が形作られていくのは間違いない。
気をつけなければならないのは、AIに頼りすぎて、知性や意識が弱くなってしまうこと。
考える力、想像する力。
それは人間の独自性であると同時に、生活を豊かにする精神的な働きでもある。
想像は創造する力になる。
AIは人間の可能性を広げるもの(使い方)であるべきで、AIによって人間の可能性が狭まったり、なんらかの損失が形成されるべきではない。
強調するためにかなり極端な内容にした。異論反論は当然出るだろう。
小説にむずかしい内容や文章なんか必要ない、そんなふうに考えるのは違う、ということだけは伝えたい。
AIの進歩は人類に大きな変化をもたらす。
そこには良い面と、悪い面が必ず生まれる。
効率化によって何が失われたか、歴史からもある程度わかるけど、AIの、ネットによる拡散は、いままでの人類が経験したことのない速度で広まる。それが怖い。




