強敵
風は強く、耳元で唸り声を上げている。
葉擦れの音が嘲笑のように、大きな魔物に対峙するグレアムたちの頭上に降り注いだ。
満月は冷ややかに砦を見下ろして、静かに成り行きを見守っている。
「はは……馬鹿でけぇ」
砦から出た途端、真正面から黒い巨狼と対峙して、乾いた笑い声がトラヴィスの口から漏れる。気持ちはグレアムにも分かった。見上げるほどもある狼。これからこいつと小さな武器で戦えというのだから、本当に笑うしかない。
しかも、だ。魔物はこれ一体だけではない。城壁の上から見下ろしたときは気が付かなかったが、〈竜の尾〉や〈陸魚〉をはじめとした小物の魔物たちもまた大勢この砦に向けて侵攻しているというのだ。
「〈奔流〉の比じゃないね」
いつの間にか合流していたマシューが漏らす。
「メイリンとリチャードは?」
「別の奴を相手にしてる。こいつみたいなの、まだ二、三頭はいるみたいだよ」
通信魔法具から情報を拾っているのだろう、小さな鏡を携えながらマシューは言った。
「俺らは……こいつをやるしかないよな」
片手剣を持ち上げながら、トラヴィスは砦全体と連絡を取っているマシューに確認を取った。とはいっても、すでに血のような巨狼の赤い瞳はこちらを向いており、逃げろと言われてもそうやすやすと逃げられない状況になっている。
グレアムは糸を張った魔法弓を横に倒して持ち上げると、魔法の矢を四本形成してつがえた。視線を動かし走る方向を定めてから、トラヴィスとマシューに目配せし、矢を放つ。
魔法矢は、普通の弓矢と違い、一度標的を定めてしまえばほぼ当たる。いわゆる自動追尾の機能が付いている。四方向に散らばって飛んでいった魔法矢は、弧を描きながら軌道を修正し、巨狼の首元へと吸い込まれていく。
着弾するかといったところで、グレアムたちは一斉に駆け出した。巨狼の右脇を走り抜け、森のほうへと入っていく。攻撃したことで気を惹いて、この巨大な魔物を砦から引きはがそうというのだ。
巨狼の後ろに回り込み、森の中に入ろうとしたところで、グレアムたちは一瞬たたらを踏んだ。木と木の間隔が他より大きく、道となったその場所。木の枝が折れた状態で木にぶら下がっている様子を目の当たりにしたのだ。考えてみれば当然のことだが、巨狼の躰にぶつかったのが原因だろう。木の枝ごときでは魔物の妨げにならず、このまま魔物に背を向けて道を行くのは悪手だと知る。
「あっちに行くぞ」
トラヴィスが首を回し、顎で示した。そこに道らしい道はなく、木と木の間隔が狭くなっている。あの巨体の身動きがとりにくそうな場所で迎え撃とうというのだ。
道を逸れ、木立の中に入ると散開する。攻撃されたことでグレアムに狙いをつけた巨狼は、トラヴィスの目論見通り立ち塞がる木々に身動きが鈍くなった。勢いが死んだところで、側方に回ったトラヴィスが魔物の足を斬り付ける。巨狼の肉は硬いのか、大した傷を負わせることもできないまま、二、三度切ったところでトラヴィスは魔物から離れていった。そこをグレアムやマシューが魔法攻撃を行ってトラヴィスに向かった魔物の意識を逸らしていく。
木々を盾にして逃げ回り、隙を見て矢を放つ。これを幾度となく繰り返していくが、さすがに躰の大きさもあって、なかなか有効打を与えることができない。
「ちっくしょう。どうにか追っ払えれば……っ」
振り下ろされる前足を後ろ跳びに躱しながら、トラヴィスは歯噛みする。
グレアムもまた、自身の攻撃の手ごたえのなさに舌打ちせずにいられなかった。魔法矢の攻撃は、自動追尾で敵に当てられこそするが、必ずしも急所に当たるわけではない。かといって、グレアムたちの連携に慣れてきた巨狼の動きはすばしっこく、実際の狙撃技術は並み程度の自分では、目で直接急所を狙うこともできない。
今はただ、敵に翻弄されるのをどうにかやり過ごし、動きに目を慣らす。当たり障りのない攻撃しかできない自分が酷くもどかしく、踏み込んでいきそうになるのをどうにか堪えていた。
巨狼もまた、目の前の獲物を捕らえられず、苛立ちが増しているようだった。長い牙の隙間から唸り声が頻繁に漏れる。血色の瞳はぎょろぎょろとせわしなくグレアムたちを追いかけていた。
振り下ろされる前足。
ひとっ跳びに距離を詰めてくる巨体。
正直、木々が立ち込めるこの場でなかったら、グレアムたちはとっくにあの大きな前足に踏みつぶされていただろう。
何度も攻防を繰り返し、じわじわと焦りがグレアムの背筋を這い上がってきた。このまま攻撃と回避を続けていても、互いに体力を消耗するだけで、いつまでも決着が着かない。襲ってくる魔物が巨狼だけだと分かっている以上、いつまでも一体に時間を掛けているわけにはいかないのだ。どうにか打開策を見出すことができないか、とグレアムは周囲を窺いながら模索した。
と。
遠吠えをはじめた巨狼を見て、グレアムの首筋の毛が立った。ビリビリと空気を電気が走る感覚。それが遠吠えとともに膨れ上がる。
空気のうねりと粒子の収縮の気配。幾度か肌で感じたそれは、魔力の爆発の前兆に他ならない。
「トラヴィス!」
ひらり、と剣を片手に黒狼に飛び込む影に叫ぶ。
その瞬間、目の前で落雷が起こった。
夜闇に走る眩しい光と、空気を切り裂く轟音に、目と耳が潰される。
それでも幸い直視は免れたらしい。白く塗り潰された視界が次第に回復してくると、グレアムは光の玉を打ち上げた。魔法の白い光が周囲を――そして、巨狼の足元を照らし出す。
腐葉土の上にトラヴィスが倒れていた。剣を握りしめたまま、ぴくりとも動かない。
黒焦げにこそなっていないが、雷が彼に直撃した可能性が頭の中に浮かび、グレアムの背中に一斉に汗が噴き出した。
巨狼は傍で、まだ堂々とした風体で立っている。
魔物と呼ばれるくらいだ。彼らは当然、魔法の力を持っている。
人と同じように、それは千差万別で、〈陸魚〉のようにほとんど使わない魔物も居れば、〈魔妖精〉のように魔法の力を駆使してくるものもいる。
だから、警戒をしてはいた。
だが、ここまでとは思いもしなかった。
愕然とし、膝が笑いそうになるのを、腹に力を入れて堪えた。
唇を噛みつつ、魔法弓を構えて叫ぶ。
「マシュー!」
近く、後ろのほうから小さな返事があった。
それでもグレアムは振り返ることなく、木立の間を睨みつけてなお叫ぶ。
「前に出る! 援護を!」
そうしてグレアムは、魔法矢を放ちつつ、駆け出した。無事かどうかは判らないが、まずはトラヴィスからこの魔物を引き離さなければならない。
巨狼を右に誘導しながら木々の間を縫って走ると、砦の前の開けた場所に出た。魔物と正面から相対しながら、グレアムは覚悟を決める。
遮るものがなくなった。巨狼はその素早さを持ってグレアムを襲うだろう。その動きを見極められるかどうかがグレアムの生死を決める。
あとは、城壁の上からの援護を期待するか。
しかし、視界の端にちらつく白い影の数を見る限りでは、あまり期待もできないだろう。むしろ巨狼のほうが魔物たちの援護を受けるかもしれない。
「ははは……」
絶体絶命の言葉が相応しい状況に、思わず笑いが漏れる。トラヴィスのことは言えない。マシューの援護を期待して、グレアムは魔法弓に矢を掛けた。
黒い影が跳躍する。満月を覆い隠し落ちてくる巨体にグレアムは矢を射て、すぐさまバリアを張った。
紫電を纏わせた爪を閃かせ、魔法の傘に巨狼がのしかかる。凄まじい圧を、歯を食いしばって耐え抜いた。
魔物が飛び退ったところでバリアが消える。
「グレアムっ!」
マシューの叫び。腕を眼前に交差して己の身を庇った先で、巨狼の身体が魔法の鎖に縛られる。
すぐさまグレアムは、二の矢を射かけんと準備するが――
ひらり、ともう一度巨狼が跳んで。
気づけばグレアムの身体は、宙へと舞っていた。
そして、閃光がグレアムを襲う。




