処罰
念のため、食事中はご注意ください。
その〈奔流〉と呼ばれる現象は、いわば小規模な〈氾濫〉だ。森が傷つくと、森と魔物が一緒になって砦に押し寄せ、アメラス国土に流れ込まんとするのだという。
だから、フレアリート砦の駐在兵たちは全力をもって、その〈奔流〉を阻止する。まさに先に話に聞いたとおり、堤防の役割を果たしているというわけだ。
グレアムの失態によりはじまってしまった〈奔流〉。あれからグレアムたちは命からがら走ったあと、なんとか無事に砦に逃げ込んだ。そのあとは、慌ただしくも駐在兵一丸となって防衛準備。森の奥から次々と襲い来る魔物たちを撃退していったわけだ。
一昼夜に渡る出来事だった。
〈奔流〉が過ぎ去ったあとの砦内は、嵐が過ぎ去ったような有様で、疲れた身体を引きずりながら片付け作業を行った。死体だけは森が片付けてくれていたが、壊れた壁の修復や、石の欠片や矢尻などのゴミの回収はさすがに自分たちでやらないといけない。くたびれたところにさらに身体を使う作業を求められたので、持久力がある兵士たちといえど、誰もがくたくたになっていた。
そして、さらに一夜が明けて。
「残念ですが、〈奔流〉を起こした者には、懲罰が課せられる決まりです」
グレアム一人だけが呼び出された会議室――正式には、作戦室と呼ぶらしい――で、メイリンは静かに言い渡す。女性なので石運びなどの重労働は免除されていたが、それでも炊事やこまごました片付けなどがあったらしく、彼女の柔和な顔にも疲れが滲んでいた。それでも、いつもの笑みは変わらずあって、グレアムの〝後始末〟に面倒臭い様子やうんざりした様子がないのが、このとんでもない事態を引き起こした罪悪感を抱えるグレアムにとっては救いだった。
「懲罰、とは?」
「掃除です。具体的には、各個室、作戦室、備品倉庫、トイレ、いろいろありますが……」
メイリンはリチャードに目配せした。どうやら、この二人で打ち合わせして既に決めてあるらしい。
「今回は、備品倉庫と男子トイレの掃除を課します。期間は一ヶ月」
「一ヶ月……ですか」
「はい。スケジュールの立てかたは自由ですが、期間内に終わらなければ、さらに一ヶ月延長されます。備品倉庫は、早く終わる分には構いませんが、トイレ掃除のほうは毎日のことですので、一ヶ月きっちりやってください」
はい、とグレアムは素直に頷いた。正直に言えば、拍子抜けだった。あれだけの騒ぎを起こした罰が、一ヶ月という長期間とはいえ、掃除だけで済むとは思わなかった。もっと、監房入りだったり重労働だったりといったものを想像していたのだが。
だが、喜んでいいのかはわからない。なにしろ、貴族令息であるグレアムは、掃除の心得がない。魔法師学校に在籍していたときに、自室を掃除したのが精々だ。
それを見越していたのか、一回目はやり方を教える、とリチャードが申し出てくれた。
「一人で大変だが……これは、お前だからではなく、皆が平等に課せられるものだ。腐らず励め」
そうして慣れぬ掃除に励んだが、それそのものはグレアムにとってさほど苦ではなかった。屋外に設置されているトイレはそうそう汚れたり臭ったりするものでもないので、便座と床を綺麗にするだけで済むし、備品倉庫も整理の必要はあったが、汚れは埃が主だったので清掃に苦労はしない。部屋が綺麗になっていくさまは、むしろ清々しくもあり、やり甲斐だって感じられたほどだ。
問題は、魔法師兵としての職分を果たせないことにあった。
本来、グレアムは魔物からの防衛に努めるのが本職である。それなのに、周囲が魔物との戦いに備える中で、自分だけ暢気に掃除などをしている。そのことに、疑問ともどかしさが出てきてしまうのを止めることはできなかった。
掃除が終わった後。夜に寝室で友人たちと喋っているとき。ふと我に返って、こんなことで良いのか、と自問することが多々ある。
トラヴィスがメイリンに扱かれるなかで、グレアムは備品の数を数えている。
マシューがリチャードに魔法戦の心得を教わっているときに、グレアムは床を磨いている。
同じ時期に入ってきたはずなのに、やっていることがあまりにも違う。それがひどく悔しかった。合間合間に、いずれ役立てるよう、使い魔のサリックスと視界を共有する練習などしてみたりするが……魔物と戦っていないという事実が、グレアムの焦りを煽っていた。
しかも、だ。あろうことか、巡回に出掛けるとき、グレアムは戦うことを禁じられていた。
懲罰を課されて一週間ほど経過した頃だろうか。巡回に行く前に、リチャードにそのように言いつけられた。以前からグレアムの戦いぶりを見て、現在の戦い方が合っていないのだ、とリチャードはそう判断したのだそうだ。
「お前にはまず、戦況を観察する力を養ってもらう」
リチャードはそう言っていたが、ただひたすらメイリンたちの背後を付いて回り、戦闘中は物陰に隠れるようなことを繰り返すことに、情けなさを感じられずにはいられなかった。
戦うための魔法師兵が、戦うことを禁じられている。
単純に魔法についてだって、掃除で水を必要としたときと、サリックスと繋がる練習をするとき以外に使うことがなくなっている。
掃除夫に転向してしまったような自らの有り様が、ひどく惨めに感じられた。
「俺は、なにをしているんだ……」
掃除を終え、さらにサリックスと視界を共有する訓練も終え。城塔の上で疲れた身体を休めながら、壁に凭れたグレアムは溢す。冬もいよいよ近づき、鮮やかさを失いつつある森から吹く風はすっかり冷たいというのに、猫であるはずのサリックスはグレアムの息抜きに付き合ってくれている。さすがにトイレ掃除のときはいないが、備品倉庫の掃除のときや休憩のときなども、彼女はいつも傍にいてくれるのだ。今は彼女だけがグレアムの心の支えとなっていた。その所為か、今までにも増して彼女に弱音を吐き出すことが多くなっている。
「こんなことをしていて良いのだろうか……」
壁の上に腕を置き、そこに頬を埋めながら呟く。ならばなにかしらの訓練をすれば良いと思うのだが、身体には疲労感があって、あまり動きたいと思えなかった。そのくせ、焦りだけは胸の中にある。この気持ちと行動の不整合さも、グレアムに疲れを齎す要因の一つだった。
溜め息が溢れる。傍らの灰猫が尾を揺らす。グレアムはその頭に手を伸ばした。頻繁に丁寧に洗っているからか、その冬毛は手触りがよく心地良い。少しだけ心が癒やされた。
そうしてサリックスと戯れていると、階下が少し騒がしくなった。足音と話し声が聞こえる。誰かが来るな、と思った矢先、砦の兵士が三人暗がりから顔を出した。皆、砦での生活が長いベテランの駐在兵だ。
「よう、グレアム。お掃除お疲れさん」
三人のうち一人が、気安く手を挙げる。筋骨隆々としたその人に、グレアムは軽く会釈をした。その表情が密かに歪む。先の〈奔流〉で迷惑を掛けたことが未だにグレアムを苛んでいた。
「お掃除、随分と頑張っているみたいだなぁ」
野太い声に、やはり、と一瞬だけ瞑目する。先日は蜂の巣を突いたような大騒ぎだったのだ。みな、突然の襲撃に疲弊していた。
――あのとき、あんな失態を犯さなければ。
後悔はいつまでもグレアムの胸の中に蟠る。
あのときの鬱憤を向けられても仕方がない、と覚悟を決め、グレアムは三人の兵士に真正面から向き合った。




