1.破談の理由
「エレナ、君との縁談はなかったものにして欲しい」
喧騒激しい大通りの一角で、身なりの良い男が若い女にひざまずき、苦しそうにそう告げた。よく見れば一体何があったのか、エレナと呼ばれた女は右腕から大量の血を流してる。その右腕にハンカチを巻き、止血をしながら男は苦い顔をして首を振った。
「君のような女性が結婚相手ではこちらの身が持たない。こんな風に危ないことばかりされてしまっては、とてもじゃないが」
男の言葉に、女は反論もせず黙り込むばかり。いたたまれないように男が視線を逸らせば、女はそっと目を閉じきゅっと唇を噛んだ。まるで泣き出すのを我慢している子どものような仕草だった。
エレナは国を守る軍人だ。訓練をし、剣の腕を磨く日々。銃器ではなくあえて剣を選んだのはどうしてだったか。祖父の影響か、それとも、無意識に古い歴史にしがみつこうとしていたからか。がむしゃらに自らを鍛え続けて、気がつけばもう二十も半ばを過ぎようとしていた。周囲は男ばかりだというのに、浮いた話ひとつない。立派な行き遅れとなった孫娘のことを心配したのか、祖父がどこからか縁談を持ってきてくれた。お相手は、この国に住む人間なら誰でも知っている商家の嫡男だ。行き遅れのエレナには勿体無い相手ということもあり、彼女はありがたくその話を受けることにした。
少し前にこの国は、革命によって王政が崩れ去り、爵位制度が廃止された。とは言っても、上流階級たる貴族であったというプライドが捨てられない者もまだ残っている。そういう人達は、得てして肩書きしか見ていない。エステバンと名乗った見合い相手は、『人間も商品もラベルではなく、その中身で決まる』と、当然のように断言した。青年実業家として商売に携わっているだけあって、人を見かけや肩書きで判断することはないらしい。
領地を持たず名ばかりだったが、エレナの出身は一応は子爵家である。けれど、肩書きを重視する人たちのコミュニティでは、ひどく窮屈な思いをしていた。なぜなら女ながらに軍属。そのうえ研究職ではなく兵科である。色眼鏡で見られることに慣れているとはいえ、やはり個を認められて嫌な人間などいるはずがない。エステバンの言葉がどれだけ嬉しかったか。言った本人はきっとわからないだろう。
エステバンは決してエレナを馬鹿にしたりはしない。今まで違う分野にいたのだから、知らないことが多いのは当然なのだとそう穏やかに語る。だから、彼女はもしもエステバンさえ良ければこのまま結婚しても良いとさえ思っていた。苦手な社交だって、彼と一緒なら頑張れるかもしれない。ときめきや憧れといった恋心はなくとも、互いを尊重しあえる関係を築けたならばそれで良いとエレナは思ったのだ。そんな漠然と思い描いていた未来が崩れ落ちたのは、何回目かのデートの時だった。
昼日中の大通りに突然現れたゴロツキたち。治安が悪い地区を訪れていたわけでもないというのに、一体どういうことか。エレナがエステバンの方を見れば、男は渋い顔をしている。おそらく狙いは自分だとエステバンは言う。男の商売がうまくいくにつれて、理不尽な妬み嫉みを買うことも増えたのだと。そんな手合いから、こういう手合いを差し向けられたのだろうと男は吐き捨てた。
あっという間にエレナたちふたりは取り囲まれる。にやにやと下卑た笑いを浮かべる男達から見えぬようにと、エステバンはエレナをその背に庇ってくれた。けれど、こんな荒事に慣れているのはむしろエレナの方なのだ。見合いだからとドレスを着てきたことが口惜しい。普段通りの軍服ならば、もっと身軽に動けただろうに。とんっとエステバンの肩を叩くと、彼女は一歩前へ出る。唖然とするエステバンのその先へ。
「早く、警察に連絡を!」
エレナが叫べば、この事態に呆然としていた通行人達が駆け出して行く。どさくさに紛れて、彼女は武装した相手の剣を拝借しておいた。剣のつかでゴロツキのみぞおちをしたたかに殴っておいたから、しばらくは戦線に復帰できないだろう。エレナはぺろりと唇を舐めて気づいた。剣が好きなのは、これが理由だ。引き金を引けば簡単にかたがつく銃器ではなく、善も悪もすべて自分の手で感じられるから剣を選んだのだ。エレナは、剣の重みが好きだった。
ゆっくりとゴロツキの一人が倒れたのを皮切りに、乱闘が始まる。
振り回される剣を右に、左にエレナは避けていく。ちらりと見えたエステバンも、それなりに体術が可能なようだ。これなら放っておいても死にはしないだろう。そう冷静に判断しつつ、エレナはゴロツキの数を減らしていく。それにしても生きたまま捕縛するのは難しい。いっそ軍部の殲滅作戦の方がよっぽど楽だとため息をつく。そうして幾人かをなぎ払った時だ、思わぬ事態が起きたのは。ぽっきりと、エレナが持つ剣が折れていた。根元部分から真っ二つとあって、まるでおもちゃのよう。
もともとゴロツキが持っていたのは粗悪品だったのだろう。その上、まともな手入れを怠っていたに違いない。現役の軍人によって容赦無く剣戟に使われたせいで、あっさりとしかも唐突に剣はその役目を終えてしまった。ただのつかでは防戦に回るしかない。エレナが舌打ちをして、倒れた男達から新しい剣を拝借しようとしたその時、右腕に熱が走った。気が急いていたのだろう、うまく攻撃をかわせなかったようだ。筋を切られたわけではないが、傷口が大きい。
けれどエステバンに数人の男が斬りかかるのを見て、エレナは駆け出した。そのまま回し蹴りでひとり蹴り飛ばす。ついでに剣を奪い、左手でもうひとりをなぎ払った。右手ほど上手くは扱えないが、ただのゴロツキには負けはしない。気分が高揚しているせいだろう、傷の痛みなど微塵も感じてはいなかった。
ある程度片付いたところで、ようやく警察が登場した。正直遅いと文句を言いたいところだが、通行人も駆けつけた警察もこれが限界だとわかっていた。だから状況を端的に説明しようと向きを変えた時だ。ゆらりと地面が揺れた。正確には、エレナ自身が倒れたのだけれど。どうやら出血が激しすぎたらしい。確かにまともな止血をしないで駆け回っていれば、こういうことにもなるだろう。
病院に行った方がいいな。エレナがそんなことをぼんやり考えていれば、エステバンがすぐ側でひどく苦しそうな顔をしていた。そしてゆっくりと発せられたのは、拒絶の言葉。
「エレナ、君との縁談はなかったものにして欲しい」
告げられた言葉の意味を理解して、エレナは小さくため息をついた。止血のために巻かれたハンカチからなおも滲む血の色を見て、エステバンはさらに顔色を悪くしたようだった。
「君のような女性が結婚相手ではこちらの身が持たない。こんな風に危ないことばかりされてしまっては、とてもじゃないが」
だってエレナは軍人なのに。有事の際には前線に立つ。それが当たり前だ。自分の命を惜しんで無防備な民間人の後ろに隠れる軍人がいるだろうか。口には出さなかったエレナの疑問は、エステバンに伝わったのだろうか。男は小さくため息をついた。
「僕は、君が軍人であることを本当の意味で理解していなかったのかもしれない」
エステバンは、人間の中身を見極める人物だ。上っ面ではなく、その中身を知った上で切り捨てられるのがこんなに辛いとは思わなかった。エレナは泣き出してしまわないように、ぎゅっと唇を噛む。こちらを勝手に評価し、ラベリングする貴族たちとは違うのに。結局、おまえは要らないのだと捨てられた。何がいけなかったのだろう。どうすればよかったのだろう。軍人として生きてきたエレナの判断は、どこが間違っていたのだろうか。切られた右腕などよりも、エステバンの言葉が刺さった心のほうがよほど痛かった。




