我が世誰ぞ 常ならむ ー桔梗ー
風雅の国。
私たちが暮らす水と緑であふれたこの国は、風の神を信仰していて、"神殿"という祈りと学び、医療を司る場所がある。
そしてこの国では、私が生まれる前から、国を西と東に分けて、戦が繰り広げられていた。
私の名前は桔梗。この国の執政という、政務を預かる職について、もう何年経つだろうか?
四十歳を目前にした今、執務室で休憩のお茶を飲みながら、ふと十歳で神殿に入った頃のことを思い出した。
私は性別的には男だ。
いや、生まれたときは男として生まれた。
私には年の離れた兄が二人いて、ふたりとも軍人になるために生まれたような、武芸に秀でた兄たちだった。父は、私が母のおなかの中にいた頃に、戦のために亡くなった。
三男坊の私が生まれて男だと知ったとき、母は泣き崩れたという。
母は父の死を悲しみ、戦を憎むようになっていた。
私は生まれたときから、見た人がうつくしいと言う程度には綺麗な見た目をしていたらしい。父が戦で亡くなったことで報奨金が出て、母はそれを使って、私に女の着物を買い与えた。
きれいだと言われる見た目も相俟って、桃色や朱色の着物は私によく似合った。
兄たちも、年の離れた私をかわいがる反面、その母の意向に特に反対もせず、私自身も淡々とした性格で、どっちでもいいなと思い、女の着物を着る日々が続いた。
母は、桔梗は戦に行かないでほしいとよく言っていた。
「……桔梗ちゃん、かわいい」
「桔梗ちゃん、遊ぼう」
なんとなく近所の子供たちには好かれていた。私は見た目が少女のようで印象が優しく、親しみやすかったのだと思う。まあ、運動神経もさして悪くなく、口げんかをしたこともなく、男子たちとはチャンバラごっこ、女子たちとはままごとの相手をしたりして遊んでいた。
着せられていたものは少女が着るような色の着物だったが、私自身は、心が女だという感覚も特になかった。
どちらかと言えば、その着物のことがなかったとしても、自分は男でも女でもないと言うか……中性的な、どちらともつかない感じがあった。
「ほんとうに桔梗は泣かない子だねえ」
母の口癖だ。
私は感情が薄く、幼い頃からあまり泣くことも、笑うことすらほとんどない子供だった。
チャンバラごっこで怪我をしても、怖さも痛みも、それほど感じることはなかった。
おそらく、自分は今も昔も、相当鈍感なんだろうと思っている。
通常、軍人の子供は六歳くらいになると、神殿の"学び舎"という勉強をする場所に通うことになる。
だが、私の家は神殿のある翡翠の街から離れた場所にあったことと、父が亡くなり強く言う者もいなかったことから、末っ子の私の"学び舎"への入学は見送られていた。
なんとなく家事の手伝いをして、読み書きだけは兄たちが帰宅した時に習う、そんな生活が六歳から四年ほど続いていた。
春のある日、長兄の璃寛が軍の訓練から帰って来ていた時、母に言った。
「もう桔梗も十歳だ。いい加減、学び舎に入れる必要がある。
この前、神殿の玄奥僧医に尋ねたら、もし遠くて通えないなら、神殿で寝起きしても構わんと言われたんだよな。母さんがそれで良くて、桔梗も良ければそれで話をしてみるが、どうだ?」
僧医というのは、神殿で医師をしている人のことだ。
母は寂しそうな顔をしたけれど、軍人の子という手前、行かせないわけにもいかないと思ったようで、
「桔梗はどうだい?」と聞いてきた。
私は、心の中では正直どうでもよかったが、まあ、話をしてくれた兄の手前もあり、行くのもありかと考えた。このままぶらぶらと家で過ごしているより、学問をしていたら将来の食いぶちを稼ぐために役に立つだろうし。
「行きます」
私の返事を聞いて兄の璃寛はにっこり笑い、簡単に荷物をまとめて、私は翌週、璃寛に連れられて神殿に行くことになった。
「週末には帰ってくるんだよ」
母はやはり寂しかったのだろう。涙ながらに私を見送ったが、私は我ながら本当に感情が薄い。悲しくもなければ、嬉しくもない、淡々とした感じで兄について神殿への道を歩いた。
正直、わくわくもしていなかったし、どきどきもしていなかった。
今まで、何をしていても、特におもしろいと思ったこともないからなあ。
ぼんやりと春の景色を眺めて、まあ、花は綺麗だなと思いながら、兄の後を歩く。
そういう気持ちがものすごく強くなったら、好きとか嫌いとかいうことも出てくるのかな。
少し前に、近所の女子の一人、茜から「好き」と言われたけれど、ありがとうと言うだけで終わってしまっていた。
好きってどういうことなんだろう。
楽しいってどんなこと?
璃寛の大きな背中を見上げながら、そんなことを考えていた。
神殿に着いて、玄奥という名前の、小柄で若白髪、何かの達人のような風貌のおじさんに紹介された。
「俺の名前は玄奥だ。年は三十。よろしくな、桔梗」
部屋はこっちだと言って、三階の一室に案内された。神殿では、玄奥のような僧医……風の神に仕えながら医師をしている人たちの他に、親がいなくなった子や巫子や巫女見習い、神官見習いなどの子供たちが七~八人暮らしていた。
兄と別れ、部屋で荷物の片付けをしていたら、私の隣の部屋で寝起きしているという清涼という少年を、玄奥が連れてきた。
「清涼、この子の名前は桔梗、新入りだ。お前は隣の部屋だし、十歳で同い年だそうだ。色々教えてやってくれ」
すっきりした顔立ちで、短く髪を刈った少年は、私を見てぺこりと会釈した。
「……女の子?」
おそるおそる、玄奥に尋ねている。朱色の着物を着て長い髪を下ろしていた私は、どこから見ても少女に見えるだろうという自覚があった。
ああ、説明する必要があるんだな、と思い、私は言った。
「女みたいな色の着物を着ているけど、私は男です。よろしくお願いします」
清涼はほっとしたように息をつき、でも不思議そうに言った。
「……男なのに、私って言うんだね」
私は首をかしげる。
「おかしいですか?」
「いや……大人は、男の人でも私って言うこともあるから、別にいいけど」
いいけど?
気になって、私はもうひとつ尋ねた。
「いいけど、何?」
清涼はくすっと笑った。
「僕の周りに、男で私って言う子供は今までいなかったから、新鮮だったんだ。
面白いな、桔梗は」
「よくわからないな……初めて面白いと言われました」
清涼は、ふうん、と頷いて。
「桔梗みたいな子は初めてだ。神殿の中案内してあげるよ。ついてきて」
すたすたと歩き出す清涼の後に、私は続いた。
神殿での毎日がはじまった。
学び舎での勉強も、神殿での料理や掃除、剣術稽古も特に問題なく過ぎていき、どうやら私は、学問も剣術もかなり筋が良い方らしかった。日々の中で私は、隣の部屋で寝起きする清涼が、年が同じというだけでなく、勉学も剣術も自分とほとんど同じくらいの能力を持っている人物であると感じるようになっていた。
こういう人のことを、好敵手、って言うのかな。
そんなことを思っていたある日の昼休み、神殿の近くにある湖のほとりに座り、玄奥が持たせてくれたその日のお弁当を食べていたとき。
清涼が言った。
「僕は将来、玄奥みたいな僧医になろうと思ってるんだ」
ふうん、と私は思って、首をかしげた。
「まだ十歳なのに、もう将来を決めたんだ?」
私は清涼に対しては、少しくだけた話し方をするようになっていた。
清涼は頷く。
「僕の両親は戦で怪我をして亡くなったから、怪我をした人を僕は治したい。それには僧医になるのが良いと思って。……桔梗は決めてないの?」
私は将来のことなんて、何も考えたことがなかった。
それで、言った。ずっと心の奥にあって、言葉にしたことがなかったひとつのことを。
「この世に生きていると言って、いつまでも生き続けられるものではないでしょう?」
それは、生まれたときに父をすでに亡くしていた私にとって、幼い頃から心に刻まれた事実だった。
いつまで生きているかわからないのに、将来を子供のうちから決めるなんてあまり意味がないように思えた。
すると、清涼はくすくすと笑った。
「それなら……生きている間は、目標とか、少し楽しくとか、そういうものを心の隅にでも持っておくっていうのはどうかな」
私は少し驚いて清涼の、子供にしては理知的な瞳を見つめた。
清涼は不思議だ。その言葉はやわらかく、美味しい水みたいに心に染み入るようだった。
私は呟くように、言った。
「じゃあ……清涼は、私を少しでも、楽しませてください」
その時、まだ私には、楽しむということがどういうことなのかわからなかった。
でも、もしかしたら。
花を綺麗だと思ったように。
清涼といたら、いつかいろんな気持ちが、今より少し、わかるようになるだろうか?
清涼は目を丸くして私を見る。
「桔梗、初めて笑った……」
笑う?
私はその言葉に、そんなわけないと、脇の湖面に自分の顔を映してみる。
そこにはたしかに……少女のような顔の自分が、口の端を少し上げて微笑していた。
「驚きました……私は笑えるのですね」
水面に映る自分は、すぐに真顔に戻る。
すると、清涼は言った。
「今のやり取りで、僕は桔梗を、少しは楽しませることができたってことかな」
なるほど。
楽しいとはこういう気持ちか。
ほっとするような、満たされるような。何か居心地が良いような。
落ち着いた清涼の声に私は頷き……水面にうつる自分の顔が、再びほんの少しほころんだことを知った。
この物語は、身代わり姫と複雑王子 ー風雅の国ー 第17話に登場した桔梗が子供の頃の、外伝的な短編です。本編とあまり関係のないお話のため、短編として掲載しています。




