13-4
「……わたしは」
一体梓になんて言おうかと考えていた。
梓の表情は変わらない。いつものあの薄い微笑さえ浮かべている。でも、梓の拳が固く握り締められているのを見てしまう。
『……そんなに十郎が好きなのか?』
答えは一つしかないけど、最高に答えづらい……。なんか適当に言って逃げ出したい。でもだめだ、それはだめだ私。
梓がわたしを好きでいてくれることは確かで、その真剣さを茶化してごまかしたら、わたしの理事長への思いもごまかすことになる。
「うん……理事長が大好き」
「ウメは僕がなにを言われても平気だと思っているかもしれないが、僕だって傷つく」
傷ついたとは思えないくらい梓は淡々としていた。でも。
梓はわたしが梓の痛みに無頓着だと思っているかもしれないけど、わたしだってわかるんだ。
ほんっと、やんなっちゃうよなあ。
わたしはうつむいた。
梓の一番扱いにくいところは、自分の弱さを時々ものすごく無防備に見せるところだ。それが本音なのか嘘なのか、すごく分かりにくい。梓はもちろん大嘘付きなんだけど、わたしにだけ時々本音を見せるのは、なんだか自意識過剰じゃないような気がする。
だから梓に対して反発するのはしんどいんだ。
でもさ。
結局それって、わたしは自分が良い子でいたいからなんだろうなって思った。
なにをどうやったって、誰かが傷つくんだ。
今に限らず、恋に限らす、相手に限らず。
誰かと関わらないで生きていくことは不可能で、多分理解しあうことよりも誤解で傷付くことのほうが多いんだろうと思う。
別に誰かを傷つけたいと思っていなくても、自分を守るためにわたしは誰かを傷つけてしまうんだ。
「……梓」
わたしは家族同然に好きな人を見る。
「わたしは理事長が好きだよ。そして梓も好き。でもこれってきっと違うものだと思う。わたしはこれから理事長に会いにいくけれど、理事長がわたしを受け入れてくれることはないと思う。それはわかっているけど理事長が好き。もし理事長にふられても、わたしが梓を理事長みたいな気持ちでみることはないと思う」
「僕が嫌いということか?」
「嫌いじゃない。でも理事長への好きとは違う」
ぐるぐる回るだけの会話に胸が痛くなる。わたしは梓を見ることができなくなって、自分のバッグに目を落とした。そして思い出す。
手を伸ばしてわたしはバッグのなかからずっと梓に返しそびれていたものを出した。
「これ、返します」
わたしがテーブルの上に乗せたものは、梓の家の鍵だった。
「もう梓がいてもいなくても行くことはないと思う」
「冷たいなあ、ウメは」
梓は苦笑した。
「僕はもう用済みかい」
梓はこんなことを言う人じゃないのに。
そんなことを言わせてしまった自分が嫌だった。
わたしは少しテーブルから身を離した。
「梓がこの一年間にしてくれたことは本当にありがたく思ってます。梓がいなければ、わたしのうちはどうにもならないことになっていたと思うし、わたしも自分の長所に気が付くことはなかった。梓のしてくれたことで悪いことなんてひとつも思い出せない」
一部虐待有だけど。まあ思い出はいつも美しいらしいしね。
「もし、本当に、梓がわたしに『この一年間の恩を忘れて他の誰かのところにいくのか』って『そんなの許さない』って言われれば、わたしは何も反論できない」
お金を返したからそれで全部貸し借り無しなんてそんなことない。あの時わたしを信用してくれた、あるいは期待してくれたっていっていい梓の好意にはまだなにも返していないんだ。
「じゃあ、言ってみようかな」
梓はあっさりそんなふうに言ってみたけど、わたしはそこでようやく微笑んだ。
「梓はそんなこと言わない人だよ」
「……」
「多分ね」
梓がわたしにろくでもないことしか言わないのは、わたしが梓を嫌いにならないってわかっているからなんだろうな。だから、逆をかえせば梓は本当にわたしが傷つくことは言わないよ。そういう梓の気持ちを利用して本当にわたしはひどい人間だ。
そんなわたしができることなんてないんだけど。
「父と母の分も感謝します。なにもお礼できなくてすみません」
「ウメ?」
梓が驚きの声をあげた。
わたしは正座して、手をついて、深く頭を下げた。
わたしは梓のものにはなれない。
畳の上についた髪だけが見えた。しばらくの沈黙。
「……僕は簡単に人に頭をさげる女なんて嫌いだよ」
ぼそっと言った梓の言葉でようやく顔を上げることができた。
「そんなウメに興味はもてない」
梓はついと視線をそらす。
初めて、わたしは梓の横顔をまじまじと見た。その端正さがようやくわかる。ちょっと泣きそうになったけど、わたしが泣いている場合じゃない。
「勝手に十郎のところにでもどこにでも行けばいい。僕はここで酒でも飲むことにするよ。くだらない痴話げんかに巻き込まれるのはごめんだ。エスコートは王理にやらせろ」
「……ありがとう、梓」
「感謝なんてされたくもない」
「あ、あのさ、理事長室でいじわるをいっぱい言ったのもの」
「……ああ、王理あたりが気がついたか」
梓はわたしの顔をまじまじと見る。
「誰に泣かされた?」
「蓮」
「そうか、おいしいところを持っていったなあいつ」
「い、いろいろ心配かけてごめんね。わたしの気持ちの始末までつけようとしてくれていたんだね、梓」
「いや、あれはただ、僕が、個人的な趣味として、ウメの泣き顔を見たかっただけだ」
……まーたまた、そんな謙遜しちゃってー、と言い切れないところが梓の怖さだな……。
「ということでそれについては礼はいらない」
ああでも、一つだけ感謝してもらおうかな、と梓はあのいつもの余裕たっぷりな表情で笑った。
「今日、お前のお母さんに会いに病院に行って来たよ」
「は?」
「この一年間にあったことを説明してきた。大人の事情に巻き込まれただけなんだからお前に説明させるのはかわいそうだと思っていたんだ」
「梓……」
「かといってあのお父さんじゃ、むしろ誤解されそうだしな」
「そ、それで……」
母さんが怒っているか否かで、返した鍵をやっぱり取り返すかが決まる!もし怒っていたら家に帰るのは危険だ!梓先生泊めてください~!
「お前のお母さんは闘病生活が嘘のような強い人だな」
「無敵です」
「『娘になにやらかしてくれたんだ!』って一発殴られた」
……母よ……。
ありがとう、溜飲が下がった!あれとかあれとかあれとか!おかあさま素敵ー!
でもそれでその口元が切れていたんだ。
「そのやらかした相手はお嬢さんの婚約者になる予定ですが、って最後に言ったら、なぜか男気を認められた。そういう男なら梅乃をやるのもやぶさかではないとさ」
「ええ?」
「さーて、ウメがご両親、特にあのお母さんにどうやって十郎を彼氏って紹介するのかなあ。それを想像しただけでしばらくおもしろおかしく暮らせそうだ」
「なんてことをしてくれたんだ……」
わかる……絶対に母さんは梓みたいな人間が好きだ。自分はお父さまにベタぼれの癖に、いつも『男は甲斐性』とか言ってるし。お父さまのどこに甲斐性あるんだ。見えない場所……足の裏か!
ああ、そんなことはともかく、梓め。
やっぱり梓には最後まで祟られた……。




