13-2
「みあ…!」
叫ぼうとしたわたしは、聞こえてきたお父さまの声でそれを飲み込んだ。
「梅乃さん、お客さんですか?」
「あ、はい、友達が」
「そうですか。ああ、こんにちは」
お父さまがにこやかな笑顔をふりまく。ちょっと話をしています、とわたしが言うと、どうせなら上がってもらってください、なんてお父さまは上機嫌だ。
「梓さんの約束の時間だけおくれないようにね」
廊下を覗き込んで挨拶したお父さまの横を通り、蓮は家にあがった。今、わたしの部屋はちょっと人にお見せできない樹海なので、あまり使われていない客間に通す。ふるびた肘掛椅子に座ると蓮はなんだか感心したように、見渡した。
「ウメちゃんちって大きいんだね」
「家だけはね。久賀院家が名家だったときの唯一の遺産なの。だから税金とかいろいろ大変でもなかなか手放せなくて。で、理事長がどうしたの?」
「そうか、本当にウメちゃんになにも話していないんだ…」
蓮はため息をつく。
「一成からの又聞きなんだけど。例のご隠居がまた帰って来ていてさ。で、どうも相当理事長を気に入っているらしいんだ。またすぐ海外に戻るんだけど、連れて行きたいみたい」
「連れて行ってどうするの?」
「ご隠居も年寄りだから、健康管理面を見てほしいんだって」
「だって理事長はどこかの病院に再就職するって言っていたよ?それにいくらそのジジイが年寄りって言ったって、オムカエはまだしばらく先でしょう?また理事長の職歴がブランクになっちゃうじゃん」
「『わしが死んだら、ほぐみグループの代表取締役は十郎にくれてやる』って言ったらしいよ」
「ほぐみグループって何?」
「高所得高齢者向けの介護関連会社だって。わりと全国展開とかしていて資本もでかい」
蓮は肩をすくめて言った。
「一成は理事長を海外に連れていくことよりもそっちに激怒。いくら孫が可愛いからって会社くれるじじいがいるかってさ。まあでもそのご隠居の希望じゃ仕方ないみたいだよ。本当は一成は自分でここに来てウメちゃんに事情を説明したかったらしいけど、今パーティの最中で抜け出せないみたい。で、そこで女の人を紹介されて理事長は会っているって話だけど」
「なんでそんな急な」
「しばらく海外行っていれば、嫁もつかまるかどうかわからないから一丁見合いでもして来い、だって。目を離している間に二人で消えたら探せないから、一成が見張っている」
「いますぐ、じじいを棺おけに叩き込んでくる!」
一思いにー!と思ったわたしだけど、その後すぐにうつむいた。
「なんてね」
「梅乃ちゃん?」
「もういいんだ」
もうどうしようもないじゃん。
理事長は、海外にいくつもりで、他の誰かを選ぼうとしてるんだ。もうわたしの出る幕じゃないんだよ。わたしはこれでもう舞台終了で、これからみんなと打ち上げで食事に行って二次会にでて三次会のキャバクラでプロデューサーに次回作の出演交渉行って経費で落とすくらい、理事長の人生からは関係ない場所にいる。
「もういいって…」
「ごめんね、蓮。せっかく知らせに来てくれたのに。一成君にも気をつかわせちゃったね。でもこれ以上頑張ったってだめなんだろうなって思う。だからもういいや」
顔をあげたら、蓮がなんだか驚いたような顔でわたしを見ていた。
「あ、そ、そうなんだ」
「あんまりかっこ悪い最後は嫌だよ。このあいだ、それなりにかっこよくさよならって言えたから、もうこれ以上悪い印象を残したくない」
「もう理事長のこと、好きじゃないの?」
「そう言う問題じゃないんだよ、きっと」
そう答えたら、蓮はわたしから目をそらした。伏し目がちの視線でしばらく黙る。ああ、悪いことをしてしまったなって思った。せっかくこんなところまで来てくれたのに。
「お茶、いれてくるね」
しばらく続いた沈黙が気まずくて、そう言って立ち上がろうとした瞬間、蓮は顔をあげた。まっすぐに、射るような視線でわたしを見る。
「諦めるんだ」
「う…うん」
「そっか、まあウメちゃんがそうなら仕方ないかな」
蓮は表情を和らげて、いつもの笑顔みたいなものを作った。でも目だけは全然笑っていなくて怖い。なんだろう、気のせいかな。
「そうだね、俺もウメちゃんは頑張ったと思う。あの朴念仁相手にさ。気が付かないわ認めないわ気配りがアサッテだわ理事長って、恋愛にむいてねえよな」
「そ、そんなにひどくもなかったんだけど」
「まあまあ、そんなふうにかばわなくてもいいよ。だってもう過去の人なんだろ?」
なんだろう、いつもどおり明るくて優しい物言いなんだけど、やっぱりトゲがあるような気が。
「そうだよ、うん。ウメちゃんだったらきっと他にいい人がいくらでもいるし。さあ次、次」
「そんな風にはすぐに気持ちを切り替えられないよ…」
「大丈夫だよ、理事長のことだって、なんだかんだ言ってさくっと諦められたじゃん。気持ちなんてすぐ切り替えられるよ」
えー、そんなこと無いってば、って薄笑いを浮かべながらわたしは反論したけど、ちょっと胸が痛い。蓮、普段はけっこう言葉を選ぶのに、今日はひどいな。でも蓮も気がいらつくときがあるのかもしれない。男にも更年期ってあるらしいし。
「それにさ、今日梓先生とでかけるの?さっきお父さんがなんかそんなようなこと言っていたよね。見たことないような綺麗な服着ているじゃん」
「あ、うん…ちょっと御飯食べに…」
「そっかー、ウメちゃんはやっぱり梓先生に鞍替えするのか。まあもともと仲良しだったし、梓先生もウメちゃんには夢中だしなあ。ウメちゃん理事長ではだめだったけどやっぱり大人の男のほうがいいかもしれないよね。理事長への気持ちはただの憧れだったんだと俺は思うけど、別の人ならそうじゃないかもしれないし」
「そ、そんなことないよ!」
「そう?」
蓮は相変わらずのいつものくったくない笑顔だけど、言葉の一つ一つが尖っている。
「ウメちゃんが前向きになってくれて嬉しい。でもそんなにあっさり復活なんて、失恋はウメちゃんにとっては大したダメージでもなかったんだなあ。ウメちゃんがしょんぼりしているとなんだか俺も寂しいと思うけど、どうせ恋愛感情なんてみかけだけのものだったんだろ。俺がバカみたいだ」
「そ、それはなんかひどいよ、蓮。わたしだって結構傷つくんだよ?」
「平気だよ。だって仕方ない、なんて言える程度の恋愛なんて大した事ないんだよ。もてるウメちゃんにとっては理事長だって別にどうでもいい相手なんだよね。だってウメちゃんなら、誰かにふられてもすぐに次がいるもの」
友達の言葉だとしても、冗談だとしても、ちょっとそれって言いすぎじゃん、蓮!
「蓮!」
わたしはもう笑ってられなくて彼をにらんだ。
「ねえ、言いすぎだよ」
わたしの理事長への気持ちを大したことないなんて言われて、わたしは胸の奥が鈍く痛んでいた。諦めなきゃいけなかったけど、でも。
「別に?本当のことを言っているだけだし。なんか梓先生もちょっと可哀そうだ。ウメちゃんのそんないいかげんな理事長への気持ちで振り回されて。あ、それを言うなら俺も可哀そうな立場かあ」
「わたし、二人を振り回してなんか」
「振り回していたじゃん」
蓮は冷たい目でわたしを見た。わたしの反論は小さな声になる。なんでだろう、なんでこんな風に言われなきゃいけないのかな。なんだか喉の奥まで痛い。
「別に振り回したくて振り回したわけじゃ」
「やっぱり振り回していたんだ。まあ俺や梓先生がどうでもいいのは仕方ないけどね。でも結局理事長のことだって、どうでもよかったんだよ、ウメちゃんは」
「なんで、そんな、こと」
わたしは自分の唇がふるえていることに気が付いた。この場から逃げたいけれど、蓮がわたしをにらんで逃がさない。
「理事長のことなんてどうせすぐに忘れるよ」
限界だった。
「どうでもいいんだろ?」
「違う!」
わたしは叫んだ。
その瞬間、あって思ったけど、止めようもない涙がこぼれた。
「うえっ」
変な声をだしてしまったわたしは顔を手で覆った。それでも止まらない。涙がどんどん頬と手の平を濡らす。自分が泣くなんて思っていなくて、それにまず驚いた。
一成君から嫌がらせされていた時、屋上でちょっと涙がにじんだ。でも、泣いたってどうにもならないから、ちゃんと立たなきゃって思ってそれを飲み込んだ。泣いて解決することなんて無いからいつだってそんな気持ちは無視していた。
わたし、最後にこんな風に泣いたのはいつだったんだろう。
今だって、泣いたところで理事長が戻ってくるわけじゃない。今頃わたしのことなんて「愉快な生徒」だった、くらいのいい思い出になっているかもしれない。
泣いても仕方ないのに、わたしは可愛げもなく息が止まるような苦しい涙を流していた。梓はどうして、可愛らしく泣く方法を教えてくれなかったんだろう。今のわたしはとてつもないみっともなさだ。いやだいやだ、こんな自分は嫌だ。かっこわるいいいいいいい。
「なんでそんなに泣くの?」
「だって」
「理事長のことはもう仕方のない事だって諦めたんだろ」
「そんなことできないもん!」
蓮の次の言葉は、待ち構えていたみたいな早さで返ってきた。
「そうだよね。俺もそう思う」
じゃあ、なんであんなひどいことを…。
「ウメちゃん、ごめんね、ひどいことを言って」
はっとするような優しい声で蓮が言った。それでも顔を上げられなくて、わたしは口を手で覆ってしゃくりあげていた。蓮が立ち上がった気配がした。座るわたしの前にしゃがみこむ。
「ウメちゃん、俺を見てよ」
いやだい、こんな涙でぐしゃぐしゃの顔みせたくない。眉毛だってろくにない。
「ウメちゃん」
蓮はわたしの手を取った。顔からはずされて視界が開けると、わたしを見上げるようにして蓮が笑っていた。
「いっぱい嫌なこと言ってごめん。でもウメちゃんに、思ってもいないことを言って欲しくなかったんだ。俺の都合でごめん」
れん、とわたしはつまる声で呟く。
「いろいろと理事長には思うところもあるけれど、ウメちゃんが自分自身の気持ちを飲み込んで、『仕方ない』で終らせるなんて俺はいやだ」
勝手だ。そんな勝手な気持ちでどうしてわたしはこんなに泣かされなきゃいけないんだ。
「つーか、かっこいいとか悪いとか、そう言う問題じゃねえだろう」
厳しい言葉、なのに声は聞いたことがないくらい優しい。
「ウメちゃん、自分が何を思っているかから目をそらさないでよ。昔の俺みたいになってほしくないんだよ」
その言葉にある心の底からの蓮の悔恨。けれどその言葉にわたしはマスカラもかまわず涙を拭った。
「あのさ、最後に理事長室で梓先生が結構ひどいこと言っただろ?あの時、梓先生はウメちゃんを泣かせてやろうと思っていたんだと思う。俺も一成に言われるまで気がつかなかったけど」
「…あの人は外道だもん、そんな優しさない」
初期設定からしていじわる属性だ。どこのカスタマーセンターに電話したら設定変更の仕方を教えてくれるのか。
「でも、ウメちゃんを心配していたんだよ。どんどん本当のことが見えなくなっていたから、あの時にウメちゃんを泣かせてもう一度本当の気持ちを一番表に出してあげようとしていたんだと思う。梓先生なりの反省なんじゃないのかな。ウメちゃんのその天下一の見栄っ張りは、梓先生の期待に応えないと、っていうプレッシャーもあるんじゃねえかと俺は思うし、そんなことくらい梓先生はとっくにわかっている。だから俺が今やったことは代理みたいな仕事なんだけどさ。だけど、今、聞くよ」
そして蓮の言葉は続く。
「理事長のこと、今でも好きなんだろ?」
「…大好き」
わたしは自分の本心を噛み締めるように言った。




