11-6
「よし」
理事長が意を決したように言ったのは、午後七時だった。
「久賀院、お前帰れ。送っていくぞ」
「……いやー……」
「いやー、じゃない!」
頭から布団にもぐりこんででてこないわたしに業を煮やして、理事長はわたしをひっぱりだそうとする。いやだい、せっかく理事長の家にいるのに何もしないまま帰るなんて絶対いやだ。ちょっと調子よくなったんだもん、もっと居るー!
「帰りたくない……」
「俺だって嫌だよ」
理事長はため息をついた。え、理事長もわたしが帰ったら寂しい?
「久賀院の御父兄に始めて会うかもしれないっていうのに、こんなことになって一体どう挨拶すればいいんだ」
そっちかよ。
「彼氏ですって言えばいいよ。お父さま、気にしないから」
「常識を考えろ!とりあえず、学校行事関連ってことにしよう……保健医として挨拶したほうがいいな、それなら……うん」
……お父さま、気にしないのに……。それより理事長はわたしの彼氏って挨拶してくれないのかな。本当は嫌なのかな。
具合悪いせいか、考え方がネガティブになる。このままここに居ても落ち込むだけなのかも。
「理事長……」
わたしは布団から顔を出した。
「帰る」
「そうだな」
明らかに理事長は安心した顔をしたので、それもまたムカついた。
「理事長が、好きって言ってくれたら帰る」
「なに?」
まさに豆鉄砲食らった顔で理事長はわたしを見つめる。
「だからそんなことは……」
どうしていつもそんな困ったような顔ばかりなんだろう。
と、理事長の家のチャイムがなった。わたしにとってはそれは邪魔モノなんだけど理事長はほっとした顔で立ち上がる。
「待っていろ」
どうして言ってくれないんだろう。俺も好きだっていってくれれば、すごく安心できるのに。季節ごとの理事長挨拶では貧血で倒れそうなぐらい話が長いのに、どうして「俺も好きだ」の短文が言えないんだ。
ちくちくする胸を抱えてわたしがもう一度布団に篭城しようと思った時だった。理事長が向かった玄関から言い争うような声がして、人間の騒々しい足音がこっちに向かってきた。ふすまが乱暴に開くその音に驚いてわたしは顔を出した。
「やっぱり」
梓が見えるなんてこりゃ相当悪性の病気か!
……えーと、これは悪い夢だよね。うわー、わたし今何度熱あるのかな。もしかしたら死んでしまうくらい重病かも、幻覚幻覚、って呟きながら潜ろうとしたけど、乱暴に布団をはがれた。
「やあウメ。あけましておめでとう」
正月そうそうパワー全開でSの人来た!
「おい、鷹雄!」
梓に一瞬遅れて戻ってきた理事長が、梓の肩をつかんだ。それを乱暴に振り払って梓は振り返る。
「悪いな、十郎。ウメを迎えに来た」
「迎えにって……」
「ウメ、行くぞ」
「行くぞって……だってわたしこれからうちに帰るのに」
「……本当に具合悪いんだな……」
梓が熱を持っているわたしの額に触れる。その後ろで理事長がいらだった声をあげた。
「だから今言っただろう。インフルエンザだって」
「じゃ、なおさらだな」
梓はものすごいかっちりとしたスーツを着ていた。いつもきちんとしているけど、今日は本当に年始の挨拶とかそういった正式な集まりにでも行くように、スーツとコートを着込んでいる。
「お前が久賀院の家に送っていくのか?」
「いや、僕のうちに」
「は?」
最初は理事長が梓を呼んだのかと思ったけど、そうではないみたいだ。理事長もどうして梓が自分の家に来て、しかもわたしを連れて行こうとしているのかまったくわかっていない。
梓はわたしと理事長を交互に見ると、わたしの方に視線を固定した。
「硝也さんから電話があった。病院からだ」
「え!母さんになにか?」
わたしは身を起す。つかんだ梓のコートの袖、その素材のよさにちょっと驚いた。
「いや、問題があったのは硝也さん。病院の凍結した外階段で転がり落ちて怪我したので、ついでに奥様の病室で一泊していくことにしたそうだ。なので、ウメを一晩預かってくれないか、と。もちろん快くお受けした。本当の事を硝也さんに言わなかった僕に感謝しろよ?」
「お父さま怪我したの?」
「軽い捻挫だそうだ」
……あいかわらず、何事もなく帰ってくることができないのか……。
「まさかお前がインフルエンザだとは思っていなかったが、それならそれでなおさら引き受けてよかった。あの家に一人で病人じゃ心配だ」
「いや!」
わたしは梓に言う。
「それなら理事長のうちに泊まる!」
「僕のうちに来れば、先取りハウスイチゴとパテェシエスイーツとお取り寄せチョコがあるが?」
……!
ひ、人の弱点を責めるのは卑怯なり……。
「……どういうことだ?」
梓の言葉の数々に、理事長が呆然としていた。一瞬、けげんそうな顔をしていた梓だけど、ふっと笑ってから畳みに座り込んだ。
「ウメは十郎に話をしていなかったのか。それじゃ確かに十郎も何も言わないはずだな」
うちには膨大な借金があるんだよ、というのは、なかなか世間話でお茶飲みながら語れることではない気がするけど……。
「ま、座りなよ、十郎。いいかげんごまかすのはどうかと僕も思うよ、お互いにね」
その言葉につられて、理事長が梓の前に座る。
「……お前と久賀院は、一体どんな関係なんだ?今まで漠然としか聞いていなかったが……」
あわあわとわたしは二人を見ていた。口をはさみたいけれど、どうはさんでいいのかわからない。
「ウメの家の借金を去年僕が整理した。で、その代わりにウメには王理に入学してもらった。優秀な女子学生が欲しかったからね。その関連でウメの父親から僕は結構な信頼を頂いている。ついでに知らないなら教えてやる。ウメの父親はほんっとにいい人だが、極限まで生活能力に欠けている人だ。霞で生きられないけど仙人っぽい。それにくわえて母親はちょうど一年前くらいから病気で入院しっぱななしだ」
「は?」
理事長は唖然としてわたしを見た。ああ、こんな風に伝わるならうちの事情をちゃんと話しておけばよかった……。
「じゃあ、答えた代わりに僕から質問。十郎は今日はウメとデートだったのか?……いや、そんな質問はどうでもいいな」
けれどすぐに梓はその言葉を言い換えた。
「十郎、ウメはお前を好きみたいだけど、お前はどうなんだ」
「ちょ、ちょっとまて。たたみかけるな」
「僕はウメを愛しているよ。八重子さんがいなくなってから、初めて見つけた相手だ」
八重子さん、その名前は明らかに理事長の表情を凍らせた。
「……久賀院のことが好きなのか」
「去年の夏に、十郎が言い当てたことじゃないか。今更確認するってことは、それを否定したいのか?」
ずっと。
ずっと梓を心配していた理事長は、梓が誰かを好きになってくれることを望んでいた。それはわたしも知っている。だから、わたしに梓を頼むって言ったりしたんだ。でもわたしが好きになったのは理事長で、しかも理事長もわたしを好きになってくれたから。
……くれたのかなあ?
今の混乱している理事長の顔を見ていると、わたしのそんな安心感なんてどこかに吹き飛んでしまったも同然。
だって理事長、梓がわたしを好きだって言い始めたことで、すごく迷っているじゃん!
「どうしてここに久賀院がいるってわかったんだ……?」
「ウメが今日出かけるときに、僕と一緒だと嘘ついたからだよ。だから硝也さん……ああウメのお父さんは、今夜一晩ウメを見ていてくれって言ったんだ」
「そんなに信頼されているのか」
「ウメの父親からは、ウメの恋愛対象になりそうな存在とは思われていないからだろうけどね。ま、それならそれでその信頼は有効的に使わせてもらうよ。名作のあしながおじさんのラストくらいは知っているだろう?」
奇妙な沈黙が落ちる。わたしも含めて全員が言いたい言葉はやまほどあるのに、その次の言葉が出てこない。
「そんなに久賀院を好きなのか……」
ぼそっと理事長が呟く。
「幸せにしてやる自信もある」
幸せなの!って言わなかったらいじめられる予感。
「……すごい自信だな」
苦笑しかけた理事長を梓はにらみつけた。
「自信なんてなくたって、普通の男だったらそのくらいのことはちゃんと思っているんだよ。好きな女がいたら自分がちゃんと幸せにしてやりたいって思うし、その程度の気概がなくてどうするんだ。どうせ十郎のことだから、年の差だのなんだのってことを言い訳にしているんだろう。言い訳するくらいなら、僕の邪魔をするな」
あ、頭がぐらぐらする……。
一体今日はなんて日なんだ。おみくじを引いていたら絶対大凶を出していた。
「十郎は僕の一番の腐れ縁だと思っているよ。扱いにくい性格の僕に良く付き合ってくれたと思うが、それとこれとは話が別だ」
その段になって、わたしはようやく気がついた。
もしやこれは、理事長と梓の直接対決なのではなかろうかと。
私的にはワールドカップ決勝戦並みの盛り上がり。どうしよう、サポーターとして一人ウェーブとかやった方がいいだろうか。いやそんなこと考えている場合じゃない。
梓は打算から自分の思っていることを他人に語ることはあまりない。理事長はわけのわからないプライドで気持ちを話すことはない。
けれど今、梓は自分が敵だと認めた理事長に対していろんなことをぶちまけていた。それは八重子さんがいなくなってからの十年を一緒だった理事長に対しての敬意なんだと思う。
そうしたら……。理事長はそれに対してどう答えるんだろう。
理事長はわたしに対しての気持ちを、素直に話してくれるんだろうか。
けれど、理事長はそれからしばらく押し黙っていた。梓もわたしも次に口を開くべきは理事長だって思って黙っていた。
それなのに、そこにあるのはひたすらの沈黙だった。
「……僕じゃなくてもいいよ」
ふいに梓が立ち上がった。
「ウメにだけ言いたいのなら、それでもいい。僕は表でしばらく待っているから」
「梓……」
思わず呼びかけてしまったわたしに梓は微笑みかけた。
「今日はこの間とは違う。別に何もしないから」
そして梓は部屋を出ていく。ちょ……最後にいらん一言を言ったよね、今!
この間ってなんだ、って顔で理事長が見ているじゃないか!
あわあわと慌てているわたしに理事長が口をようやく開いた。けれどそれは、あまりな切り出しだった。




