11-2
「え」
蓮がはっきりと起きたのは、濡れタオルを十回くらい変えた後、午後三時だった。
「……なんかいる」
わたしを見て呆然と蓮は言った。
「なんかじゃないでしょう!」
「なんでウメちゃんがいるんだ」
「なんにも覚えていないの?」
唖然としながら身を起した蓮の額からタオルがおちる、ぱさという音を立てたそれとわたしを見比べている蓮はさっきよりは具合はよさそうだった。一応一成君から頼まれたということと、蓮が開けてくれたんだよいうこと、不法侵入ではないことを強調して説明だけした。
布団の上の濡れタオルを拾い上げるとボウルにつっこんで、しぼる。
「……もう帰って」
背を向けていたわたしにそっけなく蓮が言った。
「え?」
「もういいから、帰って。風邪をうつすと悪いし」
振り返ったわたしは、またもそもそと布団にもぐりこんでいる蓮を見た。
なんていうか、大歓迎しろとはいわないけど、もうちょっとありがとうとかあってしかるべきじゃないですか?
「ちょっと蓮、顔ぐらい出してよ。タオル置くんだから」
「いい……平気……」
「あと熱も測ったほうがいいよ」
「いい……」
「なんか食べる?」
「……」
どんどん口数が減ってしまった蓮に、わたしはだんだんしょげてきた。やっぱり余計なお世話だったのかなあ。でもさ、誰もいない家で動けないくらい具合悪くなったら困るじゃん。
「あのさ、蓮、わたしもうしばらくいるからね。邪魔だったらごめんね。なんかあったら呼んでね」
とりあえず、また眠ってしまったのか、黙ってしまったのか分からないけど、静かに横になっている蓮を置いてわたしは寝室を出た。
そのままリビングに戻ってソファに座る。ついでに誰もいないことをいいことにころん、ってソファに転がってみた。
考えれば考えるほど余計なことしたような気がする。ペットボトル置いて帰ればよかったかな。一成君にそろそろ帰るって電話して帰ろうかなあ。でもでもこじらせちゃったら困るよ。
いろいろ考えながら、元日の暖かな光の降るリビングにわたしはいた。それでもやっぱり帰る気にはなれなくて、結局そのままずるずるいてしまう。何度か様子を見にこっそり寝室の覗き込んだら蓮は静かに顔を出して寝ていたから、また額にタオル置いて戻ってきた。
夕方になって、さすがに日も落ちてきた頃になって、さすがに帰ろうと思った。でも蓮、今日一日に何も食べてないんじゃないかな。
わたしは立ち上がってキッチンに行った。戸棚を開けるとその中は、整然といろんなものが並んでいた。家政婦さんいい仕事してる。米をちょっとだけ出して、鍋に放り込む。冷蔵庫の中に梅干があったから、これでおかゆでも作ろう。食べられないかも知れないからすこしでいいけど、ちょっとは何か食べたほうがいい。
ゆるゆると米を鍋で炊き始める。火加減だけ見ながらぼんやりとキッチンに立っていた。こういう現代風のシステムキッチンにいると、どうしても考えてしまうのは梓の家、そして梓自身のこと。
もうわたしは理事長と付き合うことにしたわけだから、こんなこと心配することこそが不遜なのかもしれないけど、でも梓のことは心配だった。
あの時梓は「僕がどれほど孤独か」って言った。それはすぐに嘘だと言って笑ったけれど、でもあの一瞬にわたしが感じた真実味がすべて嘘だとはなんだか思えなかった。
わたしは梓のことはまあいろいろ不満はありますが、多分好きなんだと思う。でも理事長への好きとは違うんだ。
梓がわたしを嫌いと言ったなら、悲しいけどじゃあどこか悪いんだろうって思って努力できる。自分の悪いところを直して頑張ろうってって思う。でも理事長がわたしを嫌いだといったならそんなこととても出来ない、ただその事実がつらくてただ悲しい。ただ好きになって欲しい。
理屈とは違うところにある。
でもわたしが梓にできることと、梓がわたしに求めることは違っていて、その違いはどうにも埋められないんだ。
そうか。
わたしはため息を付いた。
誰かを選ぶということは、選ばれない誰かがいるということなのか。それに今頃気がつくあたり、わたしもあまり頭良くないのかなあ。
さらりとした五分がゆが大体よさそうになったとき、リビングの扉が開いた。
「……ウメちゃん……」
蓮が立っていた。
「あ、蓮。ごめんね、長居しちゃって。もう帰るね、ごめん」
蓮の表情の固さが怖くて、わたしは慌てて火を止める。
「まだいたんだ……」
「もう帰る、帰る!」
「……そんなに慌てて帰らなくてもいいじゃん」
「は?」
お前はさっきわたしに言ったことを覚えていないのかー!
「それ、何」
「あ、おかゆだけど、食べる?」
「……食べる」
やっぱりけだるい声と低いテンションのまま、蓮はソファに座った。おかゆを持ってわたしもリビングに戻りそれを差し出す。
「ありがとう」
蓮はにこりともしないで言う。やっぱり怒っているのだろうか。もそもそと言葉も発しないで食べている蓮を見ているとだんだん居場所がなくなってくる気がした。
「……ごめんね、帰るね」
「……うん」
うんって言って箸を置いた蓮だけど、ソファから立ち上がりかけたわたしの手をつかんだ。まだ熱い手は体温が下がっていないせいだろう。
「やっぱり帰らないで」
どうしろと!
「いや、だって……」
もごもご言いかけたわたしを見つめて蓮は怒鳴った。
「なんでウメちゃんって、俺のかっこ悪いとこばっかり見るんだよ!俺具合悪かったからもう三日風呂入ってないしこんなジャージ姿だし!なんでこういう時に来るんだよ」
「えー!それでさっきあんな不機嫌だったの?」
そんなこと知らないよ!
「好きな子にかっこ悪いところなんて見せたくないんだよ」
「もうバカ丸出しなところたくさん見ているから気にしなくていいよ」
菩薩のような眼差しで言ってみる。うっひょーわたし優しい!超心広い!
「俺がバカかどうかは別問題だ!」
なんで怒るんだ?
わたしは仕方なくソファに座った。怒鳴ってもやっぱり蓮の声には力がない。座ったというのにわたしの手は離さないで蓮はうつむいた。
「……あのさ、あんまり優しくされると困るんだよ」
なに贅沢言ってんだ。
「だってウメちゃん」
そこで蓮はちらりと見た。
「ウメちゃん理事長と付き合ってんじゃないの」
「な」
なんでそれを……!誰にも言ってないのに……。
「ウメちゃんと理事長ってしばらくぎこちなかったよね。でもあのイブの日あたりからそれが消えたじゃん。多分何かあったんだろうなって思っていた。多分ウメちゃんにとっていい事なんだろうなって思って、気になったから様子見ていたんだ」
どうしてわたし、こんなに思っていることが蓮に筒抜けなの……。
「この間、見ちゃった。ウメちゃんが理事長の電話番号教えてもらっているの」
付き合ってんだろ?と蓮はその顔を上げていった。わたしを見る目には、今まであった困惑とか葛藤とかよりも覚悟があった。と言うより、目がすわっている。
「つ……つきあってます……」
消え入りそうな声でわたしは呟く。だって付き合うっていってもまだ一度も二人で遊びにいってないし。
「マジつらい」
でも蓮の言葉のほうがさらに小さかった。
「ウメちゃんが理事長と楽しそうに話しているのを見るとつらい、本当は好きな人が幸せになったなら喜んで上げないといけないのにそれができないこともつらい、しかもその好きな人は超無神経で、相変わらず無頓着に彼氏以外の男にも優しいし」
今どさくさにまぎれてひどいこと言わなかったか。
「本当にどうしていいんだかわからない。しばらく見なきゃいいんだよなって思って、もう寮から逃げるみたいにして帰ってきたのに、一成のせいでなんだか知らないけど、今目の前にウメちゃんがいるし」
風邪ひいただけ損した、と蓮は言う。
蓮が休みになるやいなや誰もいない自宅にもどったのは……え、わたしのせいだったの?
「つらいなら、とっと帰ってもらえばいいのに、結局居てくれることが嬉しくて追い返せない自分のバカ加減にもうんざりだ」
蓮がこんな弱気なことを言うとは思っていなかった。多分普通だったら言わなかったんだと思う。ただ熱のせいで冷静さが飛んでいて。
わたしも理事長が態度をはっきりしてくれなかった頃を思い出す。理事長がわたしを好きっていってくれなかったからとても悲しくて、でも普通に話してくれるから嫌いにもなれなかった。あ、思い出したらなんか腹立ってきた。
「今だってどうせ理事長のもんなんだよなとか思うけど、それでも追い返したら多分ドアが閉まった瞬間に後悔するってわかってる」
だんだん蓮のわたしの手をつかむ力が強くなってきてなんだか怖い。
「誰か他の子と付き合ってみようかとも思うけど、なんかまだ諦められないし」
「蓮、手が痛いよ……?」
蓮が顔を上げる。
「どうでもいい相手だったら、それなりに丸め込んでやっちゃうんだけどさ。あの六月の時にはそのつもりだった。一成から『梅乃ちゃんモノに出来る?』って打診された時、出来るって自信があったから一成にも『余裕』って言って。でも出来なかったらきまり悪くて親が家にいたってことにしたんだ、自分で笑える」
でも蓮の表情には笑顔なんてまったくない。
「今だって、多少強引にすればいけるんじゃないかって思うけど、無理なんだ。ウメちゃんがちょっとでも傷つくことはしたくない。でも自分も傷つきたくない。だから何にも出来ない。諦めることができないのがつらい」
自分の袋小路を蓮は話す。その気持ちがわからなくもけれど、わたしに話せる言葉はない。
うん、その気持ち分かるよ、なんてわたしはけして口にしてはいけないんだ。
部屋に沈黙が落ちる。蓮の吐息は熱っぽい。こんな話をしているなら蓮は寝なきゃいけないのに。
「蓮、あのさ」
「キスだけさせて」
空耳かと思った。
「は?」
「そしたらきれいに諦める。ちゃんとウメちゃんと理事長を応援する。いい友達でいられるように頑張れる」
まて、まてまてまて、いろいろ別問題だと思う。
でも今はじっとわたしを見る蓮の目には、本気しか見つけられなくて、しかも蓮に共感する部分もないわけじゃない。
「キスしていい?」
六月と同じことを蓮は言う。
あの時よりもずっと蓮を好きで信用していて大事、蓮もわたしが大事だと偽りなく言う。
だからこそあの時よりもずっと、それは、始末に悪い。




