10-3
「一成君!」
朝、のろのろと学校の廊下を歩いている一成君を見つけてわたしは追いついた。
「おはよう!ねえちょっと質問あるんだけど!」
「……ごめん梅乃ちゃん……ちょっと静かにして……」
最近気分は沈みがちなので、病は気から!と思ってせめてあいさつぐらい爽やかに大声でしようとしているのにな。
と思ったけど、なんだか蒼白といっていい一成君の顔を見て驚いた。
「どうしたの、一成君。具合悪いの!?」
「お願いだから、静かにして……」
頭痛くて死にそう、と一成君は言った。
「昨日、熊井先輩と高瀬先輩に誘われて、ちょっと飲酒をしてしまって」
「不良だ!」
しかし今朝の若干けだるげな一成君は、それはそれで退廃的な王子みたいでなかなかよろしいかと思いますよ、ええ。
「ていうか……あいつら後輩にはもうちょっと優しくしろ……」
「えー、優しいよー?」
「それは梅乃ちゃん相手だからだよ」
「わあ、わたし、姫みたいだねえ」
一成君は足を止めた。
「……姫」
うーん、って一成君は不満そうだ。
「なんだろうな。梅乃ちゃんは姫っていう感じじゃないな。なんだろ……」
「あ、そんなことより!」
わたしは当初の目的を思い出した。
「わたし一成君に聞かなきゃいけないことがあったんだ!」
「何?古典の宿題だったら135ページからだよ」
「うわ、忘れてた。じゃなくて、一成君、何悩んでんの?」
「は?」
本当に何言ってんのという顔で一成君がわたしをマジマジとながめる。廊下でのど真ん中で立ち止まっているのもいいかげん邪魔なので、わたしと一成君は教室の前の廊下で窓際によった。
「なんか、熊井先輩が、一成君悩んでいるみたいだって言ってたから。あのさ、わたしじゃ役に立たないかもしれないけど、もしお母さんのこととかで悩んでいるのなら話を聞くことぐらいはできるから。多分蓮も心配すると思うし!」
「……熊井先輩、何口走ってんだ、裏切り者」
一成君が迷うことなく罵る。熊井先輩と一成君の関係は複雑だなあ。
「何、やっぱり熊井先輩には相談したの?」
「してないしてない」
一成君は笑った。
「悩んでいるのは生徒会活動と部活動のどっちを優先すべきかって事。二年になったら進学のこととかもぼちぼち考えないといけないし。でもこういうのって梅乃ちゃんや蓮みたいな同学年に相談してもなかなか難しいだろ?話せば今みたいに心配するし」
そ、そっか。二年生とか三年生に相談した方が確かに現実的かも。
「それだけ。まあ、まだ世間話のレベルだから」
一成君は二日酔いを吹き飛ばすように王子然として微笑む。
……つーか、さすがにもう騙されないよ?
一成君はしれっとして嘘ついたりごまかしたり出来る人間だ。でもそれはもう、一成君の性格で仕方ないのかも。それに今のはわたしに心配かけないように口にした嘘だし。そうやってわたしにまで気を使うのはやっぱりちょっと寂しいけどさ。
でも今問い詰めても一成君は口を割らないだろう、また何か聞き出すために作戦練らなきゃいけないかな……とりあえず、蓮に相談した方がよいかな。
うん、そうしよう。
「あ、そうそう。蓮に言ったらいくら梅乃ちゃんでも怒るからね?」
ぶっすり釘を刺された。
「えー」
「なんか相談する気満々だっただろ……」
「えーと」
とにかく蓮に言っちゃだめだからね!と子どもみたいに諭された。わたしに知られるよりもなんだか蓮に知られる方が嫌みたいだ。やっぱり親友だから心配かけるのが嫌なのかな。だとしたら……少し安心。
わたしのせいで十月に二人がぎこちなくなって、でも仲直りして、いまでは元通りお昼とか三人で食べていることも多いけど、本当に仲直りしていたのか心配だったから。
うん、よかった。
「じゃ、秘密だよ。これは……うん、俺と梅乃ちゃんの間の友情だ」
そうか、わたしと一成君の間の友情なのか。
「梅乃ちゃんは俺を裏切らないよね、なんせ友達なんだから!」
わあ、燃えてきた。努力、友情、勝利の一個なんてすごい!こりゃおろそかにはできませんよ、梅乃!
「分かった。絶対蓮には言わない!」
「ありがとう梅乃ちゃん」
うん、って胸の前で拳を作ったわたしを一成君は同士を見る目でみてくれた。
でもなんか……ごまかされたような気も……?
ところでその日のわたしは忙しかった。
一成君の悩み事もそうだけど、梓が理事長をイメージチェンジしたわけだって問い詰めなければいけなかったから。
あ、あと麗香先生のことをどうするのか高瀬先輩にも聞かなきゃ!大忙しだ。
とりあえず、わたしは苦手な事はとっととするべく、校内万魔殿化学準備室に放課後急いだ。悪魔は一匹だけど、一匹でも一万匹。
「あ、梓せんせー……?」
できればいないほうがよいなあ、とか思ったというのに、梓はそこにいて満面の笑顔でわたしを見た。ああもう神様、たまにはわたしの願いも聞いてくだされ。年始のお賽銭奮発するよ、五円を五十円で一気に十倍。
「やあウメ。元気そうだね。最近来ないから、嫌われたんじゃないかと思って僕はとっても不安だったところだ。あんまり不安すぎて、借金の金利を一気にあげちゃおうかと考えていた」
グレーゾーンぎりぎりでこのくらいかな、と梓が見せた電卓の数字にわたしは目を剥く。
「梓!冗談だよね!」
「冗談に決まっているじゃないか。僕が金の力でなんとかするとでも?」
それはしないって言ってたけど……。
「でもまあ、僕の得意な手段は、プレッシャーと気がつかれないプレッシャー。じわじわ行くよー」
なあ奴隷、と梓は目だけは何か可愛らしいものを見ている目で言った。言葉が怖いよ。
「で、どうした?」
「あ、あのさ、昨日麗香先生のお見舞い言って理事長に会ったんだけど!なんか様子がおかしかった!じゃない訂正、超かっこよかった!」
「……薬師寺先生の見舞いにもう行ったのか?」
さすがにそれには梓も驚いたようだった。
「ああそうか、高瀬がウメも連れて行ったんだな。あいつも薬師寺先生のことになると人が変わるからなあ」
「……それより、理事長をイメージチェンジしたのって梓でしょう?」
「ご名答」
「なんで!?」
ウメ、コーヒー飲むか?と言って梓は立ち上がった。
「コーヒーいるけど質問にまず答えて」
梓は戸棚を開けてコーヒーの道具を引っ張り出す。
「大事な友人が、男前になったら僕だって嬉しいんだよ。ウメは男の友情は理解できないかなあ?」
「合コンに自分より可愛い子は連れて行くなって教えたのは梓だけど?」
「ああそうだった。いやいや恋愛の基本だったね」
梓はストーブの上で湯気を立てている細口のポットを手にした。
「薬師寺先生と十郎は結構合うと思うんだよね、僕は」
痛いところを突かれたと思った。わたしもそれはなんとなく思っていたからだ。見た目だけじゃなくて、麗香先生のおっとりした人柄は理事長の意味不明な言動も受け流すことができるかもしれない。
理事長の頑固さも、ああいう自己主張苦手な人にはありがたいかもって。
もしかしたら、わたしが思っている以上に二人は似合っているのかな。
「そんなのやだあ……」
そんなのちがうもん!とはいえなかった。
「嫌でも事実だったらしかたないと思わないか?」
化学準備室内に、コーヒーの香りが満ち始める。なんか寂しい気持ちになって鼻をならしたわたしの胸は香りで一杯になる。
「十郎の魅力に薬師寺先生が気がついてくれるといいのだが」
「……それは……やっぱり」
「十郎が、こともあろうに僕に相談してきたのは先月の話だ。『久賀院から好きだと言われて断ったものの、困った……』とか」
困った。
そっか、やっぱり困ったんだ……。
「ふられたところで、ウメはまだまだ諦めたりしなさそうだからな。もう一つ決定打が欲しいところだ」
「どうしてそんな風に言うの!」
目の前にコーヒーを置いてくれたけど、わたしは梓に食ってかかった。
「わたしが理事長を好きなことを一番よく知っているのは梓なのに!」
「僕がウメを好きなことを一番よく知っているのはウメだろう?」
梓は片方だけ唇をわずかにあげて、奇妙に歪んだ笑顔を見せた。
「いいよ。僕は酷い人間だ。失恋したばかりな上、そもそも恋だってろくにしたことのない高校生を本気で追い詰めに入っているからね、いいとも、酷い人間だ。でも、僕は十郎にだけは渡さない」
「なんでそんな」
「今はまだ、ちょっと可愛いらしくて優秀な高校生なだけだが、ウメは絶対大した女になるよ。十年はいらない、五年で群を抜く」
梓がわたしをここまで手放しで褒めるなんて、どういうことだ。深夜テレビショッピングの商品並みに褒めちぎられた!
「だから、それだけの女だって価値もわからないあいつには絶対渡さない」
そんなに褒めるならむしろオススメ商品だって理事長に言ってよ……。
「その部分さえウメに理解してもらえるなら、僕は酷い人間でかまわない」
梓は今、わたしとは十分な距離をとって座っている。手を触れようともしない。
でもこの蛇に飲まれた蛙感は何! なんか丸呑みされているような気分なんですが。目が覚めているのに金縛りだ。
と、化学準備室のドアがノックされた。
「あ、いた」
嬉しそうに艶やかに笑ったのは、どういう風のふきまわしなのか、熊井先輩だった。
……救い!と思ったけど微妙だ。
さらにトラブルになるか救いの神になるか、確率は半々だと、わたしはルーレットみたいな気分を噛み締めた。
※お酒は二十歳になってから。




