閑話3 梓鷹雄の場合
僕が浴室から戻ってくると、ウメはソファでうたたねしていた。
空調は効いているが、十月の夜だ。こんなところで寝たら風邪を引く。
テーブルの上に飲みかけで置いてあった缶ビールをとりながら、起こしてやろうと考えた僕だが、その寝顔を見てしみじみと思う。
そうか、僕は久賀院梅乃が好きだったのか。
ウメの可愛らしい顔は片目の周辺を中心に腫れあがっていた。その現実を認識するだけではらわたが煮えくり返りそうだ。
王理一成と鳥海蓮。高校でのウメの友人と言っていい二人だが、この二人もなかなかな悪ガキだった。特に王理一成が何かたくらんでいそうだと言うことは僕もわかっていたが、まさかウメを殴るとは思わなかった。まあ僕がやつら三馬鹿を体育館で見つけたときには、ウメは笑っていたし、空気は穏やかだったから、何かもめごとは解決したのだろう。
だからといってウメを殴ったことを許せるほど、僕は心広い人間ではない。
体育館からウメを掻っ攫って、知り合いの大学教授に電話をした。その付属病院で最も腕のいい眼科医を深夜ではあったが呼び出してもらい、病院で見てもらった。
その理由はともかく、僕にはそのくらいの力はあるのだ。仮に威を借る狐であっても。
普段はまったく係わり合いになりたくない権力だが、ウメのためなら使えるものは全て使っても惜しくないと思った。
視力に異常があったらどんな手を使っても王理一成を葬ろうと思ったが、ウメの怪我は目の周りの皮膚の内出血だけだった。鎮痛剤ももらってけろりと復活したウメは、へらへら笑って「一成君のこと怒ったらだめだからね!」とか生意気ににも僕に釘をさしてきやがった。
いい度胸だ。
「ああ分かっているとも。僕がガキ共のケンカに口をだすような大人気ない人間だと思っているのか。ウメに見くびられるとは心外だなあ」といつもの調子で答えたら、ウメはすっかりいつもの梓だと安心したようだ。
うーん、さっき体育館で「僕の女」とか口走ってしまったのは明らかに失言だった。これで警戒されたら面倒くさい。まあウメはすっかり忘れているようだか。今のところは安泰だ。
あまり忘れ去られているのも腹だたしいが、そのおかげで今日は僕のうちに連れ込むことが出来た。
夜も遅いし、明日は休んだ方がいい、僕のうちに来い、それとも奴隷の分際であの山奥まで送れと僕に命令するのかと言ったら、ウメはわりと素直にうちに来た。
警戒心の見事なまでの欠如は、確かに久賀院硝也の娘だ。
で、ウメを風呂に入らせて、その間にちょっとした軽食をつくって二人でそれを食べ、僕が風呂から上がってきたら、ウメは爆睡中というわけだ。
三人掛けソファの上にまるまって寝ているウメ、その頭の隣に腰掛けて、さて、と考える。
このままご馳走になってしまうことも可能は可能だ。
顔にかかるさらりとした髪を僕はどけた。まだ柔らかな丸みが残る白い頬を眺める。化粧を落として眠るウメは、起きているときよりもずっと子どもっぽく見える。そうだよなあ、よくよく考えたらまだ十五歳だ。
家の借金背負って、周りに野郎しかいない高校で頑張って、男子に負けることも、女を捨てることも許されない。それを文句言いながらだけどこなしている彼女は本当に超人だと思うよ。これが二月にはぼんやりとした印象の、単に成績がいいだけの子どもだったとは思えない。
磨いたのは僕だという自負はあるが、それ以上にウメがものすごい原石だったというわけか。
…もうちょっとカット数増やしてもいいかもしれん。びしびし磨こう。
いやそんなことはまだいい。今若干の問題となっているのはウメが少々年下だということだ。おそらく常識的には僕は淫行教師だし、ロリコンだし、犯罪者だ。
いろいろまずいよな。それは大人として恥ずべきことだし、人間としての品性に関わる。大体ウメは十郎が好きなのだ。おそらく十郎もウメを嫌いというわけではなかろう。一人の少女の恋愛感情と、昔からの友情を台無しにしていいわけがない。
で、それがどうした。
僕がウメをものにしたいと思ったんだから、他のことなど知るものか。
自慢じゃないが、表の権威と裏の権力、その間を繋ぐ有無を言わさぬ財力も、わりといろいろなものを僕は持っている。背負わされるのが面倒で逃げてはいるが。
使えるものを使えば、いろいろもみ消せる。実家に借りを作るのは心底わずらわしいが、犠牲なくして勝利なし。
今思えば、ウメと初めてあったとき、僕は自分にもまだ感情があったことを思い出したんだろう。彼女が笑ったり怒ったりすねたりする様子をみて、僕も八重子さんがいなくなって以来、どこか遠かった自分の感情が戻ってきた気がした。
八重子さんは大人げない大人だった。基本的には僕が振り回されていたけれど、時々逆襲して彼女が驚くことが楽しかった。彼女の反応こそが僕の世界だった。人間は自分の心だけじゃだめなんだ。誰かがいないと自分の気持ちも忘れてしまう。
ウメに振り回されることも楽しい。
そうやってまじまじと見てみれば、ウメが可愛らしくてたまらない。
力の限り甘やかして優しくして振り回されたい。いくらでも増長させて言うなりになりたい。
そうしておいて、調子に乗って反抗するウメを服従させたら楽しいだろうなあ。僕の言うなりになるしかなくて涙目になっているウメを想像したら、わくわくしてきた。
基本的にはウメは我が強いから、楽しませてくれるだろう。本気で反抗してくれなきゃ屈服させる意味がない。
あれ、これってウメの言うようにサディスティックなことなのか?いや普通だよな。
若い女の子を自分好みに育ててなにが悪い。おっさん趣味と呼ばれようがかまわない。
ソファの上でウメがもぞもぞと身を捩る。シャツがめくれ上がって豪快に腹をだした。
あばら骨が浮いている。実を言えば痩せすぎで少々貧相なくらいだ。本当はもうちょっとむにむにした感じが好きなんだが。標準化と好みはかみ合わない。
これで圧し掛かったらウメはいつ気がついて、どんな顔をするだろう。
楽しいけれど、それでも少し怖いなと思う。何をしてもウメが僕を許すように話をもっていく自信はあるけれど、それでも怖い。
そういえば、八重子さんに告白したときのあの緊張感、それとよく似ている。
あのころの八重子さんの年もとっくに通り越して、いろいろな手管も覚えたけれどやはり恋は人の様々な感情を揺り動かす。
僕が手を伸ばしかけたとき、ウメがなにやらむにゃむにゃ言った。
「女将…モアイ丼、おかわり…プリーズ」
…お前はいったいどんな夢をみて…!?
伸ばしかけた手をひいて僕はうっかり笑ってしまった。相変わらず寝ていたってウメの行動は読めないよ。
ひとしきり声を殺して笑ってから、僕はもう一度手を伸ばし、ウメの頬に指をさした。
「…痛ー!」
「起きろバカ。こんなところで寝ていると風邪を引く。おや、馬鹿と読んでおきながら風邪を引くとは僕も矛盾したことを言ったものだ。なんとかは風邪ひかないと言うのに」
頬を押さえ、眠たそうに瞬きするウメに僕は言った。
文句をいいながら、リビングを出て自分の寝室に向かうウメに僕はおやすみと声をかけた。
まあ、これからも機会はあるだろうし。さすがに怪我した日に丸呑みされたらウメも可哀そうだ。なんだか僕も優しくなってしまったなあ、なんて思う。
それでも見守れるなら、出来る限り見守りたいんだ、僕だって。
「久賀院、その顔はどうしたんだ!?」
翌々日、十郎がウメの顔をみて仰天するところに出くわした。
出て行って話をややこしくするのも面倒だったので、隠れて話を聞いていた。
「え、えっとですね。実は先日道を歩いていたところ悪漢に襲われた某国のプリンセスに出くわしまして」
「アホ!」
十郎にウメが事実を話さないことに、僕は優越感とも嫉妬ともつかないぶれる感情を抱きながら、その場を離れた。
事実を話さないということが友達二人への気遣いなのか、好きな男への配慮なのか、多分両方だろう。どっちにしても腹がたつ。恋なんて、自分の思いもよらない気持ちに振り回されて不便な話だ、我ながら。
……その不便さを僕はずっと待ちわびていたんだな。
これからのことを考えると楽しくてしかたない。




