9-7
あ、頭が煮える……。
奴隷も主人もいらん。普通の彼氏が欲しいだけじゃ。
わたしは梓をけっとばして「もう火傷大丈夫!ありがとう梓!ではこれにて失礼仕る」て言ってその場を立ち去るのがスジだと思った。ていうかそれしかないでしょうが!
なのになのに、どうして動かない、わたしよ!
顔を上げた梓は微笑む。いつにない、否、いまだかつてないほどの優しい笑顔だった。なのに、過去最高の不吉センサーが働いています。測定不可能領域に到達した。
「あ、梓?」
わたし、声が変。
「ありがたいことに」
梓は何かを語り始めた。多分、ためになる教訓話とかじゃないことだけは確かだ。
「十六になれば女は結婚できるんだよな」
「は?」
ぜんっぜん話の行く末がみえません。
「十郎と僕は、成績も運動も腕力も似たようなもんだった。でもどういうわけか、女にもてるのはいつだって僕の方だ。どんな差なのかわかるか?」
「人相」
疑問形じゃなく断定できるけど。
「そんなもん見せ方だ。ウメは偏見あるからもしかしたらわからなくなっているかもしれないが、あいつもそれなりに良い顔しているんだぞ。だからそれは問題じゃない」
「じゃあ?」
「僕にあって十郎にないもの」
日本刀!……は逆だ。理事長に合って梓にないものだった。なんだろう。口の悪さはベクトル違えと二人とも標準装備だし。
「僕は自分が一番大事にしたいもののためなら、次点以下は捨てることができる思い切りのよさがある。十郎は優しい分だけいつも迷っているんだよ」
梓は優しげなのにいつもの数倍剣呑な感じのする笑顔を見せる。
「なにか問題になったら僕は王理をやめる。資産はあるから別に困らん。ウメも王理高校辞めるなら別の高校探してやるし、進学だって希望のところに行かせてやる。留学したいならそれもいいぞ。専業主婦やりたいなら、学校はどうでもいい。ウメの誕生日までどうせあと少しだ」
……なに言ってるんだあんた!
梓の言い出したあまりのトンチキ発言にわたしはなんと言って良いのかわからない。なにか言わなければと思うのだけど、「バカ!」ではとても足りない馬鹿加減に言葉がない。わたしはこんなに語彙が貧困だったのか。
梓はようやく立ち上がった。ずっと冷たい水の床に座っていた梓が気になっていたから、それでようやくほっとする。
だけどそれも一瞬だった。
立ち上がった梓は浴槽のふちに座っていたわたしを抱え上げた。お姫様だっことは違う。もっとかるがると、子どもを抱き上げるみたいに。梓の腕に座るみたいになってバランスの悪いわたしは目の前にある梓の首や頭に手を回してしまう。これじゃ自分から梓を抱きしめているみたいじゃないか。
「梓!怖い!高い!」
「しばらく我慢しろ。お前びっしょりだから、廊下が濡れると困る。寝室まで連れてってやるから。それだけだ」
「そ、そっか。ごめん」
そういえばわたしは頭から浴槽に落ちただけあって、見事にぬれねずみだった。梓はひょいと手を伸ばしてタオルを取ると廊下にでた。廊下には転々とわたしの足跡としてミネストローネがこぼれていて、そこにわたしから滴る水と、梓の足跡の水がにじんだ。
あれ?
梓だって結構濡れているじゃん。わたし一人抱え上げたって変わらない。むしろ浴室でそれぞれ一通り拭いてくれば話が済んだ気がするけど……?
寝室って言うから、わたしが前使っていた部屋に行くのかと思いきや、梓は自分の寝室を開けた。前、春休みここに世話になっていたときには「僕の寝室に入ったら夕飯抜き」とか言ってたくせに。
梓はわたしを抱えたまま後ろ手にドアを閉める。
梓の部屋はゆとりあるスペースをとっていた。壁際には巨大な本棚があって、実用書から古典まで様々な本が押し込められている。深い緑のカバーがかけられたけっこう大き目のベッドは寝心地よさそうだった。
でも、まてよ。
「梓?」
この部屋にわたしの着替えはないと思うのだけど……。
「ああ、僕の服を貸してやろうと思って」
梓はベッドの前でようやくわたしを下ろしてくれた。そのまま持ってきた大判のタオルでわたしを頭からくるんで濡れた頭を中心に拭く。タオルと服越しだけど、梓の手が、背中とか腕とか肩とかをいつもならありえないほどに触れてくる。そういえば三月に姿勢が悪いって怒られたときは、口で注意されるより早く、ものさし背中につっこまれたっけ……昭和っぽいしつけだった。今は、あれが嘘のように優しい手で髪を拭かれるのがくすぐったくて、わたしは笑ってしまった。
「梓、大丈夫だよ、自分でやるよ?」
タオルから顔を出すと、梓は思いかけず、真面目な顔をしていた。クロゼットを開けることも無く、わたしの前に立ち尽くしていたかと思うと。
「遠慮するな。着替えまで面倒見てやるよ」
って言って、とんとわたしを押した。強い力じゃなかったけど、予想もしていなかったのでわたしは思い切り背後のベッドに仰向けに倒れこんだ。
「はい?」
なんで天井が見えるんだってあっけにとられたわたしだけど、不自然に梓がのしかかって視界をふさいだ。ていうか、これは。
「はい。ブブ漬け問題発展編、ウメ不合格」
そう言って梓は会心の笑顔を見せた。
「あ、あ、梓、なんかこれじゃ、わたし押し倒されているみたいだよ?」
「押し倒しているんだからなあ、仕方ない」
「なんで?」
「そうだなあ。なんでだろうねえ」
楽しそうに梓は自分のシャツのボタンを二つほどはずす。ひぃ、なんだこの展開のわからなさは。
家で民放洋画劇場見ていて、ちょっとお風呂入ってきたら主要人物だったヤツがなぜか裏切っていて話の筋がさっぱりわからなくなっていた、みたいだ。ちきしょう、お前死亡フラグ立てていたから善人だと思ったのに!そもそも外人の顔は見分けがつかないんだよ!いやそんなことはどうでもいい。いつまでもぽかんと天井を見ているわけにもいかないんだ。梓の手が、濡れたカットソーの裾にのばされたからだ。
「梓!」
「十郎だったらやめてくれるだろうね。でも僕は、欲しいものを手にいれるためなら手段は選ばない」
「だって、こういうことして問題になったら、わたし王理高校やめることになって、梓だって困るし!」
「……だからさっき言っただろう。僕は一番のもののためには、他は切り捨てる事ができるって」
王理高校も八重子さんも理事長も、すべてふくめて梓は語っていた。そうだ……梓は王理高校のために、ずっとあの高校にいたんだ。今、わたしが知る術はないけれど、王理高校のために梓が犠牲にしたものはいくらでもあっただろうに。
そしてそれをまっさらにする梓の決意。それは。
「いいよ、僕は無理強いはしない。僕が嫌ならウメは今ここからすり抜けて、部屋を出ていけばいい。それをウメが望むなら、あとは二人でキッチンと廊下を片付けて、コーヒーでも飲んでそれぞれの寝室で寝よう。僕が王理高校と八重子さんへの妄執を過去のことにするのは、ウメには関係ない。僕が勝手に決めたことだからね」
嘘だ。それは違う。
わたしは今まで梓にぶつけてきた自分の言葉を思い出していた。梓を過去からひっぱりだそうとした言葉の数々。それは確かにわたしが発したものだ。
わたしを覗き込む梓の髪から、滴が落ちて、わたしの頬に落ちた。泣かない梓の涙みたいに思えて、わたしは身動きできない。
梓から執着する過去を奪って、それで、代わりのものを何も与えずに放り出すのかと、その滴は問う。
「僕がウメを愛しているのも、僕の勝手であって、ウメが付き合う義理はないよ」
梓は底意地悪くて、毒舌で、身勝手で、強引で。
でも、いろんなことが見えている人だ。
わたしの勝手を許そうとしている人からわたしは逃げ出していいのだろうか。
「出て行かないのか?」
服が少しめくれて見えているわたしのわき腹に梓は手を触れた。さっきまで水にさらされ冷えていた手はもう温かさをとりもどしていて、むしろ熱いくらいだ。
わたしは梓が好きなのか、なんて根本的な問いをわたしが失っていたその時。
電話が鳴った。
携帯電話じゃない、家電話が梓の寝室でけたたましくなる。
「あ、梓、電話が」
「いいよ、無視で」
けれど、無視できる常識を超えて電話は鳴り続けた。三十回を越えたところで梓はついに舌打ちして身を起こす。
「……ちっ、あともう少しだったのに」
……今、何か……?
「はい、もしもしい?!」
機嫌悪さ炸裂で梓が寝室の子機で電話にでた。
『あ、鷹雄!?私、私!やだもー、ほんっと会いに来ないんだから!あんた死んでいるんじゃないでしょうね!』
超けたたましい女の声が、受話器越しにわたしまで聞こえてきた。
「ちょ……もうちょっと静かに話せよ!」
『いいじゃない!あんたっていつも思うけど、酷い息子よね!我が子ながら心底ムカつく!おかーさん、何回携帯にかけたと思っているのよ!』
「用事はなんだ!」
『あ、あのね、おかーさんこの間、おとーさんと一緒香港行って来たの。よかったわよ香港!何回行っても楽しいのよ香港!あんたもいっしょにくればよかったのに香港!でもいなくていいか、おとーさんと久しぶりにデートみたいだったから!ざまみろ馬鹿息子!』
用件はなんだ今すぐ話せという梓の再三の督促にも彼女はひるむことなく大声で話し続け、用件がわかったのは彼女がおとーさんとのデートイン香港の素晴らしさを語りつくした後だった。百万ドルの夜景は大層素晴らしく、シェラトンのスイートはそりゃあもうロマンチックで、飲茶は最高だったらしいよ。早くあんたも彼女か嫁つくって一緒に行くといいって、アドバイスまでしていたよ。でもあんたの性格じゃ孫見るのは当分先かこの親不孝、って嘆かれてまでいたよ。
ちなみに用件は、土産のウーロン茶を取りに来い、ということだった……。
電話を切ったあと、さきほどまでの寝室の雰囲気は、彼女の電話と言う爆風で吹き飛ばされていた。とりあえずわたしは身を起す。
「梓……」
「…………タイミング、わる……」
「今の……梓のおかあさん……みたいだったよね……?」
「……」
「さっき、両親は死んだって、言ってなかったっけ?……あ、思い出した!前に両親が好き?って聞いたとき、死んだなんていってなかったじゃん!そういえばあのいかがわしい店も親のだって…………しまった!」
やれやれ、と梓は窓に寄りかかる。
「両親共にいい年してラブラブな上、心底元気。あと百年は死ななそうだ」
「さっきの話は?」
しばらくの沈黙のあと、梓は開き直ったかのように笑った。
「なんちゃってー」
可愛くいえばすむと思うな!
「なんで!超本気にしちゃったじゃん!」
「すると思ったからね」
唖然としてわたしはベッドから降りた。
「なんで騙すの!」
「お前、強気で押す相手には猛反発するけど、弱気な相手を見捨てられる人間じゃないだろ」
なあ、と言って梓は悠然としている。
「何度も言わせるな、バカ。僕は、目的のためなら手段を選ばない」
すげえ! 目的=わたしに対しても、手段を選んでない!
「ウメを愛しているのは本当だ。だからこそ、ウメを手に入れるためならなんだってできる。嘘だって簡単につくよ」
あわわわ、とわたしは後ずさった。
そういわれてみれば、あの浴室に着いたときから、全部梓ペースだったような気がする。いや待て、遡れば遊園地であった瞬間からそうじゃなかったか?
「ま、四季を通してハイテンションな母親のせいで台無しになってしまった今回は無念だが、機会はこれからもあるだろうから。残念ながら今日は僕の負けは認めるしかない。運が悪かった」
すごい悪魔だ。わたし程度ではとても退けられない!バチカン、助けて!
背中にドアが当たって、わたしは後ろ手にノブを回そうとした。でもがちゃんと言って回らない。
「あ、鍵かかっているぞ。それ」
梓はさくさく近寄ってきて、閉められた鍵を開ける。
「なんで鍵……」
「ウメが逃げ出したら、ここで時間を稼いで捕まえられるように」
「さっき嫌なら出て行っていいって……」
「そんなもん、その場の懐柔策に決まっているだろうが。ほんっとにお前の単純さは筋金入りだな」
どうぞ、って笑って紳士的に梓はドアを開けた。
「いいよ、今日は諦めよう。でも僕はウメを、十郎にも鳥海にも王理にも、もう渡す気はないから」
ひぃー、悪魔じゃ、悪魔の所業じゃ!
「ちゃんと風呂に入って、化粧水つけて寝るんだぞ」
わたしは廊下を走り出した。
「愛してるよ」
梓の超本気の声が、稲川淳○御大の話並みに怖かった。
隠れるようにして、お風呂に入り、こそこそと置きっぱなしにしていた服に着替えて、神経質な眠りをとった翌日。
「おはようウメ。玉子は目玉焼きとオムレツのどっちがいい?」
床に落ちたスープなんて跡形もなく片付けられたキッチンで、梓は爽やかに笑った。梓が慎重にドリップしているコーヒーと、今焼きあがったパンの香りはまったく昨日のことなど幻みたいだった。
梓の作ったふわとろのオムレツを食べながら、わたしは梓を盗み見る。はっきり言って寝不足で目の下にくま作っているわたしとは裏腹に、梓はものすごくつやつやしていた。
「ウメ、もっとコーヒー飲むか?」
「あ、はい、頂きます、大変おそれいります」
「なんだ?もっといつもどおり普通に話せばいいのに」
「あ、梓なんか機嫌いいね……?」
「そりゃ今まで言うか言うまいか、悩んでいたことに結論が出たんだら結果は未定であれ、気分はいい」
……やっぱり昨晩の一件は夢ではなかったのか……!
「それにウメは昨日この家から出て行かなかったから、脈はありそうだしな」
「みゃ、脈なんて」
帰るに帰れなかっただけじゃ!
そういえば、一成君は「梓先生が本当に梅乃ちゃんを好きだったらどうするの?」とかえらく不安がっていたっけ……もうちょっとよく考えればよかった……。
「ま、僕も強引な手段を使う気はないから、安心しろ。金とか力にものを言わせるような刹那的な満足には興味は無い。ウメ自身が僕に執着しないとな」
梓……思ったより良い人……。いやいやこれ普通だから、わたしよ。
「そのためなら、マインドコントロールの一つや二つ」
「ちょっと待て!」
冗談だよ、多分。と、梓は笑う。多分ってなんだ。




