9-6
「何やってんだウメ!」
音を聞いて梓がキッチンに飛び込んできた。
「あっつ……」
床に思い切りこぼれたスープに、かかった足。それを見てなおさら混乱してわたしは呆然と立ちつくしてしまう。
「ご、ごめん、梓。今拭く」
「バカ、そんなのあとでいい!」
派手にスープがかかってしまったわたしの足を見て梓が血相変えた。
「来い!」
「あ、でも足拭かないと床が……」
「いいから来い!」
ぺたぺたと不快なベタつきを残す足を意にも介さず、梓はわたしを浴室に引っ張っていった。有無を言わさず浴槽のふちにわたしを腰掛けさせる。
またこの浴室が半端無く広いんですよ。なんか梓も一人でこんなところに暮らしていて、訳アリっぽいんだけど、その理由を見せたこと無いなあ。
「ぎゃー、つめたー!」
わたしの考え事はシャワーで足に浴びせられた冷水で止まった。
「冷たくなかったら火傷が冷やせないだろう!」
「死んじゃう!老人だったら心臓とまっちゃう!」
「ピンピンコロリにはまだ早いだろうが」
ひぃー、十一月にこの冷水はキツイ……。
でも、わたしだけじゃなくて、梓も飛び散った水でびっしょりだ。キッチンも廊下も汚してしまって申し訳ないことをした。
「ごめん、梓。うっかりしてて。もういいよ、廊下拭きにいくから」
「だからそんなことは後でいいって言っているだろう」
しばらく冷やして、梓は言った。
「ちょっとこれ持ってろ。ちゃんと足に当ててろよ」
シャワーヘッドをわたしに預けて、梓はいったん浴室を出て行く。戻ってきた梓の手にはハサミが握られていた。梓はわたしの靴下に手を伸ばす。それは自分で脱ぐからって言ったのに、うるさい!とか一喝された。
「痛かったら、このまま医者に行くから言え」
十分冷やされ凍りつくような冷たさになっている足に、まるで宝みたいに丁寧に梓は触れた。わたしが止めるまもなく靴下にハサミが入った。脱がされるというより、取り除かれるって言う感じだ。もったいないという気分は否めないわたしは骨の髄まで貧乏人だ。
かすかにひりついたけど、そんなに大きな火傷にはなっていないみたいだった。足の甲の一箇所だけ、かすかに赤くなっていた。
「……医者に行くほどではないか」
「大丈夫だよ、梓。あ、ありがとうね。もう平気」
「もう少し、冷やしとけ」
わたしからシャワーヘッドを奪い返して、梓はひざまずいたまま、無言で冷水を当てていた。……あんまり足をじろじろ見られているのもなんだか恥ずかしい。
「梓までびっしょりじゃん」
「かまわないよ」
「でも、このせいで風邪引いたら」
「大丈夫だ。ああそうだ、お前冬だからだといって、ペディキュア怠けるな。その緊張感の不足がだめなんだ」
「……はーい」
でもいつもの小言を言われて、わたしは安心した。今日あんまり梓が優しくてかえって緊張していたから。
「……梓、今日なんか優しいね」
わたしはちょっと笑いながら言ってみた。
「ありがとう、理事長と会えなかったのは残念だったけど、一日楽しかった」
その時、梓が顔を上げた。
「僕じゃだめなのか」
言葉の意味がわからなくて、浴室に沈黙が落ちる。ただ、水の音だけが途切れることなく床を叩いた。
「……なに?」
「お前は、僕に僕の女扱いされたことをなんとも思わないのか?」
……あー!
「だって、あれって、奴隷の言い間違いでしょう?」
「僕がそんな言い間違いをすると思うのか。奴隷は奴隷、女は女だ」
なに、この展開、どういうこと?超予測できない展開になってきているんですけど。
「あ、梓?」
「以前、十郎に電話で指摘されたときにはそんな馬鹿なと思っていたが、この間ウメが王理のバカに殴られたのを見たとき、自分の激昂ぷりに自覚した。久しぶりにキレて王理をボコりそうになった」
「殴っていたじゃん!」
「本気になったら半殺しだ、さくっと」
……そうだ、梓はいつも余裕綽々だけど、八重子さんの事といい、本気になったらちょっと常識をはずれているんだっけ。
「お前は本当に十郎を好きみたいだし、十郎もお前のことを大事に思っているのなら僕の出る幕はないと思っていた。でも、あいつは僕にお前を譲ってばかりだ」
その指摘には胸が痛んだ。確かに言うとおりだから。理事長がわたしに執着することなんて無い。梓を頼むとか無神経な発言の連続。今日だって梓を寄こしたり。
「だから僕が貰うことにした」
え、突然どうした。わたしにとっては五輪記録級ハイジャンプな話の飛躍ですが。
梓がシャワーヘッドを床に置いた。もう感覚がなくなるほど冷えたわたしの足首をつかんで骨に添うようして撫で上げる。愛しそうに、と言って優しい手だ。
バランスを崩しそうになって、わたしは浴槽のふちをつかんだ。
「愛しているよ」
さらりととんでもないこと言ってますが……!
「だ、だって梓とわたしじゃ歳の差が」
「僕はわりと年齢なんて関係なく愛を信じているが?」
何言い出そうとしてるんだ。やばい、その時歴史が動きそうだ。
「別に学校行きたければ行けばいい。進学したいなら支援してやる。できれば王理高校を守りたいから卒業するまでは公には出来ないが、さすがにそれくらいは我慢しないとな。黙っていればなんとかなるだろう」
梓がおかしい……!
「あのガキ二人は僕の相手じゃない」
いや、おかしいんじゃない。この激情な一面が梓の本性なのかも。
梓の目は本気だった。殺られる!くらいに迫力がある。なぜだ、それなりに男前の相手に告白されているのに、ときめくというよりは身の危険を感じるのは。
わたしの知る数々の物語、どのヒロインも、本命じゃない相手に告白されるときでさえ、きゅん☆くらいの効果はあるのに、わたしはどうして今、蛇ににらまれたカエル状態。ちがう、何かが違う。命の危機を感じるくらいだ。
「だってわたし」
その時わたしは手を滑らせた。梓に怯えてそんなに幅もない浴槽のふちを下がりすぎていたのかもしれない。ずれていた蓋がはずれて隙間ができ、わたしは後で入るつもりで温めていた浴槽内に思いっきり頭から落ちた。
激しい水音が一瞬だけして、あとはくぐもった鈍い音しか聞こえなくなる。落ちて驚いた拍子に水を飲んでしまったわたしは息苦しさに暴れた。
家の中で水死はさけたいけど足が上になっていて、顔があげられない。
「暴れるなウメ!」
腰を抱えるようにして梓は引き上げてくれたけど、わたしは激しくむせながら水を吐き出すのに一生懸命で全然余裕が無い。とりあえず梓のシャツにしがみ付いた。ぜいぜい言っているわたしを浴槽のふちにまた座らると、梓はわたしをみつめる。
ひい、小馬鹿にされるよー。
「ほんっとにお前……」
もういいや、罵れ、罵るがよいわ!わたしもこのマヌケさには我ながら驚く。
「お前、どうしてそんなに可愛いんだ!」
は?
梓は自分の服が濡れるのもかまわずに、何をとち狂ったかわたしを胸に抱きこんだ。
「いつも意表をつくし、僕の言うことなんてさっぱり聞かないけど、そこが可愛らしすぎる。なんだこの生き物。ウメには理解できないだろうが、紫の上を育てた光源氏の気持ちがこれでもかというくらいわかる。いいよな、光源氏は。十四歳に手を出しても罰されないんだから」
梓のタガがはずれた?
「いいいいいい今の社会では、犯罪ですよ?」
「融通きかないね」
とんちんかんな返事をした梓はふと、わたしの胸元を凝視した。つられた見たわたしはぎゃって叫んで自分の手で体を抱く。
淡い色のカットソーが水にぬれたせいで、下着が豪快にそのレースを透けさせていたのだ。
「もーいいから、梓、あっち行ってよ!」
「それは残念」
高校一年生かあ、うーん、高校一年生は確実に犯罪……とかなんとか呟きながらわたしから離れて、梓は流れっぱなしだったシャワーを止めた。急に物音一つしなくなった浴室の沈黙に耐えられない。
梓は詰め寄るようにしてわたしを見つめる。
「ウメは僕が嫌いか?」
「嫌いじゃないけど、彼女にはなれないよ!」
「懇願してもだめなのか?」
「懇願って」
だめだ、とことん会話がかみ合わない。
「僕がどれほど孤独であるかを語ったら、お前は僕を見てくれるのか?」
「え」
梓はうつむきかげんに言った。
「僕に両親はもういない。八重子さんが死んでから確かに付き合った人もいたけれど、誰も本気にはなれなかった。僕が必要とするのはウメだけだ。それでもウメは僕を選んではくれないのか」
梓はそう言ってわたしに手を伸ばす。
その手を拒絶しなければと思うのだけど、わたしは腕をつかまれても拒絶できない。
そうなの?梓はそんなに一人だったの……?
知らなかった梓の告白にわたしが動揺していると梓は耳元に口をつけるようにして囁いた。
「お願いだ、僕のものになってくれ」
どうしよう、どうしたらいいんだ。寂しい人だなんて知らなかった。こんな急に言うなんてずるいよ……。
呆然としているわたしの顔を眺めたい、そんな思惑でもあるかのように梓は身を離し、濡れているにも関わらず、床にひざまずいて顔を上げた。改めて火傷をもう一度確認するけれど、手は、なにげなく座っているわたしの腿に置かれた。
なんか梓、その、えっと。
くすぐったいのか気持ち悪いのか良くわからないその穏やかな手つきに、わたしの頭は混乱しっぱなしだ。
「ウメは僕のどこが好きになれない?」
「だって梓、いじめるじゃん!」
梓は余裕たっぷりに薄く笑う。
「僕は自分の女には優しいぞ。確かに口が悪い自覚はあるが、でもかなり尽くすタイプだと思っているが?ウメだって立場が逆転したら楽しいだろう?僕に思う存分仕返しすればいい」
「立場って?」
梓がわたしのふくらはぎに手を滑らせる。そのまま冷え切ったわたしの膝にうつむいて自身の唇を触れさせた。
「ああああああずさー!?」
「僕を選べ、ウメが主人でかまわないよ」
凍りつくような足に、その部分だけが異常に熱い。そこから伝わるような梓の激情に、わたしの背骨が震える。
跪く梓のジーンズの膝には、ひたひたと冷たい水がしみているというのに、それを気にすることも無く梓は頭を垂れる。
他人の足に口付けた梓は顔を上げて言った。
「望むなら、僕が奴隷のようにウメに尽くそう」




