8-6
こ、この怪力は。
わたしは一成君と揉み合っていた。
普段長身の蓮の横にいるせいで、そんなに大きく見えていなかった一成君だけど、それでも身長は百七十センチ台後半はあるのだ。いつも物腰穏やかで強さなんてかけらも感じさせないというのに……。
「ぎゃっ」
詰め寄ってくるのを防ごうとして、腕で庇っていたのだけど、急に右膝の裏をすくわれて、思い切りバランスを崩し、わたしは床にひっくり返った。古い掃除機とか、もう使っていないマットレスとか、なんだか無造作に置いてある物に、肩とかぶつけながら転がる。
「蓮ほどじゃないけどね」
ぼそっと言って、一成君はわたしにのしかかってきて、拒絶する手を封じるように、肩口を手で押さえつけた。
「俺も小学校のころから空手をやってます。たしなむ程度に」
たしなむどころじゃない予感。
薄暗い部屋は、天井近くにある窓から、ほのかに明かりが入ってくる程度だ。近いはずの一成君の表情さえ読めなくて、私はあせる。
「一成君痛い!」
「うるさい」
乗っかられた足が痛くて悲鳴をあげたというのに、一成君がしたのは、わたしの口を手でふさぐという外道な行為だ。
圧し掛かられて身動きはとれないわ、口塞がれて声は出ないわ。わたしの手は一成君を押しのけようとしているけど、どう考えても力が足りない。
ていうか。
この状態そのものが、もしや外道なのでは。
「別に俺、こんなことしたくてするわけじゃないよ」
じゃあ止めろ!
一成君はわたしを覗き込んでいた。多分、高い窓からの淡い光は、逆光としてわたしに一成君の表情はみせないけれど、こっちの顔は見えているはず。
「別に梅乃ちゃんとこ好きなわけでもないし。そんなに誰かとやりたいとか、せっぱつまっているわけでもないしさ。むしろ面倒くさい」
開いている手で、一成君はわたしの襟元に手を伸ばす。
……ちょっとまて、まさか。
一成君の意図がいまひとつ読めず、ただ何か剣呑な雰囲気だけを感じ取っていたわたしは、ようやく焦り始めた。
「なんだこのボタン」
一成君が舌打ちをした。
こんな時だというのに、なんだかおかしいくらい几帳面に一成君はわたしのブラウスのボタンを外していた。くるみボタンで摩擦が大きいため、はずしにくいボタン。しかしこんな展開になると知っていたら、甲冑とか鎧とか着てきたものを!
一番上がはずれて、胸元に半地下の冷たい空気が入ってきた。
「でも、仕方ないよね。蓮に悪い気もするけど、こうなったらしかたない。やだなあ、無理やりなんて俺の趣味じゃないんだよなあ」
趣味なんてどうでもいいが、これは犯罪だ!
「蓮ほどスキルないから、痛いかもしれない、ごめん。先に謝っておくね」
そんなことが問題なんじゃねーよー!というわたしの一成君に対する始めての罵声はもごもごと手のひらに吸い取られた。
「あんまりじたばたすると痛いと思うから、じっとしていてもらいたいんだよ。あのさ、マジで俺も誰かを傷つけたいわけじゃない。でも俺もいろいろ邪魔されるのはごめんだからこんなことになっちゃってるんだけど。これで、黙っておとなしくなってくれれば、俺ももう二度としない。でも保険としてあとで写真取らせてもらうけど」
どんな写真取るつもりなんだよ!
……どう考えてもまずい。
「ほんとに、いやだいやだ、いやだ」
一成君は自分がされている方みたいに呻いていた。え、大丈夫か?とこっちが一瞬思ってしまう。
わたしは押しのけようとしていた手を諦めて、思いきり彼の腕に爪を立てた。なんかもう加減できん。
「いッ……」
さすがに一成君がわたしの口をふさいでいた手を外して自分の腕を庇った。
「どいてよ!」
ふざけんなよ、なんて一成君に対して思うとは今まで考えてもみなかったけど、わたしは怒鳴りつけた。
「……なんでいつもおとなしくしてないわけ」
一成君の声は潜められていた。でもそれはよけい深い苛立ちを内包した声だ。突然乱暴にわたしの両手を掴むと、まとめて頭の上で床に押し付けた。手、大きいんだなあとか思っている場合じゃない。
この時わたしは、いの一番に絶叫して助けて、とかいうべきだったのかもしれない。後で気がついたけど、ここは本当に生徒が近寄らない場所でそんな風に叫んでも誰も分からなかった場所だった。
でも危機に迫った身としては、そう言うべきだった。
それなのに、わたしという人間は。
「一成君こそ、なんでこんなことするの!」
ああ、我ながらつっこみどころだと思うよ。そんなこと、どこか安全な場所で冷静な状態の双方話し合いの段階で聞くことだろうが、わたし!明らかにいまそんなこと聞いている場合じゃない。
でも。
わたしは、一成君を見つめる。暗くて見えない中でも、表情くらいつかみたくて。
「どうしてそんなに『王理』を憎むの」
あーあ、自分でもバカだなって思う。こんなの今言うべきことじゃない。隕石の影響で滅びつつある恐竜が、大気中の二酸化炭素濃度を心配するような、意味のないことだ。
それでもわたしは突き詰めていけばそこに至るよりほかない根源的な謎を問う。
「……そんなの心配している場合?」
「多分違うと思う」
四つ目のボタンまで外されていて、こんなこと聞いている場合じゃないよね。
「でも知りたい。わたしは、一成君の友達だから、一成君がいったい何に執着しているのか」
「そんなの言う義理ないし」
「一成君がお父さんとお母さんを嫌うのなら、意味はわかる。でもお母さんすごくいい人だったよ。一成君だってお母さんを大事にしていたじゃん。お父さんが嫌いならそう言うはずなのに。どうして嫌うのが『王理』なの」
一成君の手が止まる。
「……あんた、怖いものないのか」
梓。ナンバーワンかつオンリーワン。
0コンマ03秒くらいで内心で即答しつつも、無言でわたしは一成君を見つめた。
「可愛くないんだよ。きゃーとかやめてとか言えば、もりあがるっつーのに、どうして泣きもしないでまっすぐに俺を見てるんだ。気持ちの上でごまかしているなら俺がちゃんと言ってやるよ。今、押し倒されてんだぞ」
「もちろん嫌だよ。そんなこと想像したくも無い。これ以上のことするなら一成君はもう友達じゃないし、わたしも傷つく。一成君がこの件でわたしを脅すなら、わたしは言うことを聞かざるを得ないかもしれない。皆にばらされるのも嫌だ。その時にはわたしの方を悪くいう人だっていると思う」
本当は今、冷静に言っているようなことだって、精一杯の虚勢だ。今、一成君が手を止めているけど続きがはじまったら本当に限界。
それでも、一度意地をはったならせめて最後まで通したい。それに。
わたしは一成君を下から見据えた。
「でも、そんなことされてもわたし自身の価値がさがるわけじゃない。人として堕ちるのは一成君のほうだ」
どうして傷つけられた人間が、自分を卑下しなければいけないんだ。抱くべきは恐怖じゃなくて、ただ激怒じゃなきゃスジが通らない。やせ我慢でもそう思う。
「……押し倒されてていうことじゃないよな」
吐き捨てつつも、一成君も動きを止めてわたしをじっと見ていた。
「……馬鹿馬鹿しい」
すっと退いたのは、しばらくしてからだった。
「やってもあんた絶対おとなしくもならないし、言うことも聞かないだろうな。そんなら俺が犯罪者になる分ハイリスクじゃん」
しかもノーリターンなこと請け負います。久賀院ファンド。
わたしはようやく圧迫感の消えた身を起し、一成君から距離をとった。震える手で、ボタンをはめなおすけど、うまくはまらない。
「……なんだ、怖いんじゃん。手、震えているし」
「こ」
最初はうまく声にならなかった。
「怖いに決まっている!」
私の怒鳴り声を聞いて、一成君は目を見開いた。その次の瞬間、彼の顔が歪んだ。ものすごい後悔という名の染料に、頭から沈められたみたいだった。取り返しのつかないことをした、と目が語っていた。
一成君が立ち上がって、わたしは自分の肩が震えるのが分かった。虚勢だっていつまでも張り続けられるものじゃない。
どうかとわたしは祈る。
これ以上、ひどいことが何も起こらないようにと。結局祈ることしかできないのだ。
「誰に対して怒りをむけたらいいか、わからないんだ」
わたしと距離をとったまま、一成君はぽつりと言葉をもらす。
「……両親に対して、怒りはないよ、あんまりね。母親の心臓が悪いことは、父親も知っていた。でも周囲が許さなかった。結局王理の直系として絶対子どもが必要だったんだ。母親が嫁に相応しくないって一族から追い出されようとしたときに、父親がキレて『じゃあ子どもさえいればいいんだな』って言って、それから放蕩を始めた。でも、どういう運命か、おそくになって俺ができた」
あの病弱そうなお母さんが一成君を産んだなら、それは命がけだったんじゃないかなあ。
「母親も、他の女の人達に対しての意地もあったんだろうな。でもおかげで、心臓もっと悪くして、寝たり起きたりだ。しかも、もう産んだから用なしみたいにあの施設に放り込まれて。父親は生涯唯一の惚れた女が具合悪くなったのは俺のせいだって思っているから、あれだけいる子どもの中で、唯一俺だけが苦手みたいだよ。それに俺の兄弟のほとんどが、俺を疎ましく思っているはずだ。今更直系が生まれても困るってさ」
わたしはへたりこんだまま、一成君を見上げる。
「俺が生まれたために運命変わった人間がたくさんいるんだ。俺のせいだって、いろんな人間に憎まれている」
こんなときも一成君の言葉は静かだ。
「時々つらい」
その静かさが諦観だと気がついてわたしはぞっとした。わたしの同級生で、わたしがまったく知らない感情を持つ人が目の前にいる。苦痛を露呈しながらも、それを諦めている。
「でもその理不尽さについて、誰に対して怒りを向けたらいいのかわからない」
一成君の言葉が痛い。
「自分の身体の調子もわきまえずに俺を産んだ母親かな。でも、彼女は俺を愛してくれているよ。じゃあ母親を肝心なところで守りきれなかった父親かな。でも、父親は俺なんかいなくてもよかったと思うくらい、母親のところは愛しているみたいだよ。そしたら跡継ぎのことしか言わず母親をいびった親族かな。でもみんな『王理』を守りたいだけだ。結局は、そんな古い体質しか持たない『王理』ってところに問題があるよね」
一成君は笑う。良き友、模範的生徒、愛息子としての強靭な鎧である微笑で。
「……だから俺は、せめて『王理』を憎む」
梅乃ちゃん、って言って、一成君はひざまずいて、わたしに手をのばした。後に下がろうとしたわたしだけど、壁に当たる。でもその手は外したときと同じ穏やかさで、ボタンを留めることしかしなかった。
「……ごめん、俺の感情に巻き込んで。本当にごめん。もう関わらないで」
一成君は謝る。
「俺のやることの無意味さは俺が一番良く知っているよ。でも、俺はもう、他に何を憎んだらいいのかもわからない」
そして一成君は立ち上がってドアを開け、出て行った。




