7-3
「ほほう、恋もしたことないウメが光源氏とはねえ。頑張って、もてる男の心理を妄想しろ。無理でもやれ」
この言葉。いわずもがなだが梓だ。
文化祭も近くなったある日、劇の練習が終わってとっとと帰ろうとしたところを、化学準備室の前でうっかり掴まってしまったのだ。わたしから取り上げた台本を眺めながら、梓は優雅にコーヒーを飲む。無駄にセレブっぽい。
「ちょっと読んでみろ」
「え」
なんだって、そんなカモネギなことをしなければならないのか。梓の前で演じるなんて、自分から鍋を持って「いい鍋になりますよ」とお願いするようなものだ。
「いいから読め。高瀬は面白いことを考えるが、何せ甘い。いいか、学園祭と言うのは、当日大量の部外者が入り込む」
「なるほど不審者め」
「バカ!大事なお客様だといっているんだ。いいか、中学三年生とかも進学先の判断材料にするためにもちろんやってくるわけだ。特に源氏物語はうちの名物だからな。すごいアピールになる」
名物にうまいものなし、ってよく聞く。
「ということで、無様な真似は許さん」
……えっとですね、人には向き不向きってものがあるわけです。そしてわたしはどうも演劇の才能には少し欠けるような気がするのですが。
案の定、台本を見ながら一生懸命情感こめて読んだセリフに梓は茫然として言った。
「……大根」
そういえば、蓮にも言われた……。
「なあ、女性はデフォルトで演技上手なんじゃないのか?」
純真な高校一年生に、手練手管を求めるほうがどうかしてる。
梓は台本を自分の机に置いた。今まで立たせていたわたしを向かいの椅子に座らせる。
「現代文だって別に点数悪くないんだから、ちゃんと解釈しろ。『葵』では、今まで源氏とは不仲だった正妻の葵の上が病んで弱々しくなっているわけだ。ムカつくところもあった女だが、それでも源氏を頼りにしてくるところを見れば、源氏もほろりとくる。だからここのシーンは、二人の和解でもある。ここでほろっとさせておいてこそ、ラストの死別が響くんだぞ」
「そんな事言われたって、この源氏ってほんとにダメ男なんだもん。さっぱり共感できない。葵ちゃんだって、産後の上、病でやむなく頼ることになって、絶対悔しいはず。だってマザコンでロリコンで浮気性だよ。葵ちゃんだって、ダメ男のハットトリック決めてる源氏とよりを戻すなんて絶対不本意だ!」
「お前には男女の微細な心のひだがわからないのか!」
「牛の微細な心臓のひだならわかる」
「それはハツだ」
梓は深くため息をついて頭を抱えた。
「……ウメ、誰か好きな野郎とかいないのか」
「あずさせんせいとかだいすき。すきすきだいすきちょーあいしてる」
「棒読みするな」
大根だから仕方ないです。
「何代か前の先輩が、演劇として向くように台本にしてくれたんだから、たとえどれほど大根であろうとも、ちゃんとやらないと失礼だぞ。言葉だって現代とさして変わらないようにしてあるだろう?」
人に大根といわれると腹が立つ。
「僕が源氏を読んでやるからちょっとお前、葵の上のセリフを読んでみろ」
「え?」
「見本を見せてやろう。それには一応相手がいたほうがやりやすいからな」
「そっか……」
「ほら、源氏が産後の葵の上を見舞うシーンだ。ここで二人の気持ちが近くなって和解するわけだ。この前の場面で葵の上のところに御息所の生霊がとりついていることがわかっている。だから多少の警戒を残しつつ、それでも源氏は葵の上と素直に語り合う。熊井は葵の上でありながら、御息所の怨霊もやる難しい配役なんだぞ。それに比べたら源氏なんてやりやすいものだろう」
小言オヤジが……。
内心で文句言いつつ机の上に置かれた台本をわたしが覗き込んだとき、梓が言った。
「『今、この時のように素直に語り合うことが最初から出来ていたら、私達は長い間こじれることはなかったものを。』」
まるで耳元で囁かれたみたいだった。
その言葉が台本の光源氏のものだって気がつくまでに、不覚にも一瞬も間が開いてしまった。わたしは慌てて次の葵の上のセリフを読む。
「『この間のことはよく覚えておりません。けれど気がついたとき目の前にいたあなたの姿を見て、あなたがわたくしを守ってくださると』」
アワアワしながら読んだために普段以上に大根役者っぷりを露呈したわたしとは裏腹に、梓はおちついたものだ。
「『私も、あなたの取り繕わない姿に、始めて手をとりたくなったのです』」
ぎゃー、なんかちょっとびっくりしてしまった。
ちゃんと梓は話している。だって演劇だから、囁くようにって言ったって、見ている人に声が通らなきゃ意味が無い。梓の声はけして小さくない、なのに梓のその声音は、目の前の唯一人にのみ告げる言葉の静寂に満ちていた。
「『これから二人やり直していきましょう。同じ家に住み、わが子を慈しめば、おのずと本当の夫婦のようになれるはず』」
そして、梓は笑う。
まるで見たこともない笑顔だった。いつもの邪悪さのかけらも無い……あ、いやカロリーゼロじゃなくて、カロリーオフくらいな感じで、毒気のない微笑。顔をあげたわたしはおもいきり梓と目があってしまった。
「『あなたと共に、新しい人生を送りたいと思うのです』」
梓はわたしをまっすぐに見ていた。
わたしは、早く次の葵の上の言葉を言わなきゃと思うのに、台本に視線を戻せない。
梓と言うのは本当に美形だと気がついた。黙っていれば。
若干特殊な家業とはいえ、それなりにおぼっちゃまで、多分梓自身もなんでも如才なく出来るタイプの人間なんだろう。毒舌だけが唯一最大ですべての長所を吹き飛ばす常時迎撃態勢の長距離ミサイルだけど。ただ、以前理事長から梓は女の人にももてたと言う話を聞いた。多分言わんで良いことを言わないでいることも出来るのだろう。
三分間悪口を言わないと死んじゃうとか制限はあるのだろうけど。(弱点はそれか!)
だから、今。
梓が普通に告白みたいな言葉を口にしているのをまのあたりにして、一生の不覚ながらわたしはちょっと動転してしまった。
でも一方で、梓が誰に対して、たとえ演技であれ、この言葉を言っているのか疑問だった。
葵の上としてのわたし。
だけど、本当に言いたいのは、轟八重子さんなんじゃないかとも思う。
いまでも。
と、梓は動転して次の言葉が出てこないわたしになぜか右手を伸ばした。すっと梓の長い指がわたしの頬に触れる。暖かくて乾いたその指先は、頬をすべり。
そんでもって思いっきり頬っぺをつまんできた。
「何ぼんやりしているんだ。この僕が貴重な時間を割いて付き合っているのに、感謝の気持ちとかはないのか、集中しろ!」
「いひゃいー!」
ぱっとはなしてくれたけど、梓の表情にはあのトリカブトを上回る毒がもどっていた。
「ちゃんと真面目に読んでいるのか」
「やってますー」
痛いよう、虐待されたよう、とわたしは頬を押さえる。
「それともなにか、僕に口説かれたとでも思ったか。ははは、ウメは単純だなあ。細胞一個しかないんじゃないのか?今すぐ一度くらい分裂して単細胞の汚名を晴らせ。ほれ二人になってみろ」
やっぱり誰かを罵倒し続けないといけない生き物だったんだ、梓は。
「まったくもって、ウメの単純さが微笑ましいが、しかしそんな単純では困るんだ。本当に変な男にひっかかりそうだな」
たしかに、梓に目をつけられた時点で、わたしの男運は最悪ですが。
「でも、ちょっとほろっときただろう。そういうこともあるんだ。お子様のウメにもそう言うことがあるんだから、風流の世界で生きている平安貴族だったらなおさらだろうよ」
「そ、そっか」
「わかってきたら、台本と源氏物語でも読み込んでいろ」
「はあい……」
「たかが文化祭だが、バカも精一杯やるとのちのち楽しいぞ」
梓はなにかを懐かしんでいるみたいな笑顔を浮かべた。
「ねえ梓」
わたしは、台本を閉じて言った。
「梓は、まだ理事長のお姉さんが好きなの?」
「人の恋愛にかまっている暇があったら、自分の恋愛を探せ」
「……でも理事長が……」
口走ってしまったあとに、後悔した。聞き流すかと思った梓がそれを聞きとがめたのだ。
「十郎がどうしたって?」
「……なんでもない」
「なるほど、年末の冬期化学補習にもウメエントリーだな。そうかそうか、仲良くしような、沢山課題を考えてやるからな」
大人ってきたない!
「理事長が、梓のことよろしく頼むって」
「は?」
わたしが不承不承吐き出した言葉に、初めて見るくらい、梓の表情が間の抜けたものになる。
「梓が、『過去』にまだいるからって」
沈黙が化学準備室に落ちる。
言ってしまったわたしは後悔していた。この頼みは本当はずっと黙っていた方が良かった。でも、梓のさっきの源氏として言葉。
わたしのカンだけど、あれは絶対「葵の上」への言葉じゃない。今も想っている誰か現実の人間への言葉だ。それが今も生きている人なら、わたしも別になんとも思わない。この際だ、それが、梓の母親にそっくりな熟女でも、十四歳(……は犯罪なので出来れば十六歳以上で)のロリコン顔でも、誰かの奥様でもまあいいよ、応援はしないけど見守る。
でも、死者への言葉は嫌だよ。
誰か、生きている人間を見つけてよ。
「……あのバカ……」
梓がため息混じりに呟いたのは、だいぶ経ってからだった。
「人のことより自分の方が問題だろうに」
「でも梓!」
わたしはもう我慢できなかった。
「梓、さっきの言葉って、演技じゃないよね」
「え?」
ぎょっとしたように、梓はわたしを見つめる。
「え、いや、ウメ。あれは、ちょ……ちょっとまて」
なんだか梓は挙動不審になっていた。なんだか言われたくないことを見事に言い当てられたみたい。
やっぱり八重子さんなのかな。だったら人の思い出に踏み込んじゃうかな。
でも梓だからイイや、えぐるように打つべし打つべし打つべし!
「理事長のお姉さんのことは悲しいと思うけどさ、でもちゃんと生きている誰かを好きになろうよ!」
「……え?」
「きっといい人が梓の目の前にいるよ」
ちょっとまて、と梓は口をはさんだ。
「お前、それはまさか僕にこくは」
「死んじゃった八重子さんじゃなくて、麗香先生とか、生きている素敵な女の人が沢山世の中にはいるじゃない!」
あれ、今梓なにか言いかけたような気も。
「あ、ごめん、何?」
熱弁ふるっていて聞き逃した。
「……もういい」
梓はなぜか深呼吸した。
「僕もまだまだだ……」
「なにが?」
「あやうく鳥海の気持ちがわかりそうだった」
「生徒の気持ちがわかるのは、教師としてすごくいいことだと思う!」
「うるせえ、帰れ!」
化学準備室から放り出された。
なに?どうして急に怒られたんだ、わたし。
まったくもって男の情緒不安定は困る。
はて、と、廊下を歩き始めたわたしは、階段を降りたところで、一成君にでくわした。
とりあえず、セーブ!セーブを!
ああ、メモリーカードが一杯だ!
逃げることもままならず、わたしは一成君と正面切って相対した。




