6-2
昼過ぎに、理事長と出かけることになった翌日はいろいろ驚くようなことばかりだった。
まず、理事長の部屋着以外の私服を始めてみた。が。
「理事長!」
わたしは青筋立てた。
多分何も考えていないのだろうと思うのだけど、おそらく適当に買って来た黒っぽいTシャツはいい。無難だ。で、履いてるジーンズもいい。ていうか黒いTシャツとジーンズに一体なにがダメ出しだと思われるかもしれないが。衝撃の事実。
シャツが
ズボンに
イン!
お前は、これからゴルフのオヤジさんかー!
「裾をジーンズからだせー!」
「うわあ、久賀院何をするー!」
なんで体格良くて(人相は悪い)足も長いのに、こんなにダサくみせられるんだ!とりあえず飛びかかってTシャツをジーンズから引っ張り出した。
「ふー、これでよし」
ミッション完了。
「これでよし、じゃない!」
「またしまうな!」
わたしはにらみつけてそれを阻止した。
さもなきゃもう理事長は一生スーツ着ているのがいいよ。エコとかもういいから。
「最近の若いものの着方なんてよくわからんよ」
「何言ってるんですが。今やTシャツの裾を入れている人間のほうが少数派です。絶滅危惧種です。三十代だって四十代だって五十代だっていいや六十代だってそうです」
ところでわたしも黒のノースリーブにデニムのスカートなので、若干ペアルックくさい……。まあいいや。
ぐったりしながら学校まで行って、止めてあった理事長の車を見た。
空色なのだ。
そして見たこともない可愛い形だった。小さくて丸みを帯びたフォルムに丸いランプがあちこちについている。外車の中古車らしいのだけど。
理事長にはさっぱりに合わないということと、相当古いということはわかった。ちょっとこだわりがある若い女の子が乗っていそうなレトロな雰囲気の車だ。
「理事長、車……」
「ああ、うん。古いがいろいろと愛着があってな」
ベンツとかじゃなくていいのだろうか。ほら、人は期待されるイメージに応えるってことも大事だと思うよ。
ということで、あんまり冷房の効かないその車に乗って、わたし達は寮を出た。わりとすぐに高速にのったけどそれ以外どこに行くのかがわからない。
どこに行くのかと尋ねても理事長ははっきりとしたことをいわない。言うのはシートベルトはちゃんと締めたかとか、窓から手を出すなとか、人をバカにしてんのか的なことばかりだ。チャイルドシートに座れとか言われたらどうしようかと思った。
「梓先生と理事長は付き合いが長いんですか」
「まあ中学部からのつきあいだからなあ。長いといっていいだろうな」
「梓先生って昔からああだったんですか?」
「ああ」
やっぱりそうなのか……アレに十年つきあっている理事長をちょっと尊敬しそうだ。悪魔使いとか猛獣使いの称号を与えた方がいいだろうか。
「ああ、昔からいいやつだった」
なので、続けられた理事長の言葉には驚いた。
いいやつ!?
思い出を美しく脚色しすぎなんじゃないですか?
「いや、まあ少しばかり口は悪いがな」
少し、だ……と……???
「口が悪いってのは結構性格を現すと思います」
「確かに久賀院の無駄な意固地なところはそのまま性格だからな」
なぜ、わたしを引き合いに!
「なあ久賀院。あんまり頑固だったり意地っ張りだったりしても、女はいいこと無いぞ」
狭い車内だというのにマンツーマンで時代錯誤な説教か……。
「理事長も、あんまり古臭かったり男尊女卑だったりしてもいまどきいい事ありませんよ」
「だ、だが、やはり稼ぎのいい男のところに嫁に行ってというのが女性の幸せだと……」
「だからそれを、たとえば昔上司だった看護師長さんに向かっていえますかー?」
「……あの人たちは仕事が好きで……」
そこまで言いかけて、理事長はああ、と短くため息をついた。
「…そうか、みんなそうなんだな」
「そうですよ。社会に出ていることが守られていないなんてこととイコールじゃないし、そもそも守るとかそういうのめちゃくちゃ意味不明」
「確かに時代錯誤な部分はあるな」
理事長は、苦々しげにつぶやいた。でもそれは別に生意気なこといったわたし宛じゃなくて自分自身に対してみたいだ。
「……俺の姉がな」
もちろん視線は前方からずらさないで言う。
「かなり若い頃に交通事故で死んだ」
「え?」
わたしは目を大きく開けて理事長の横顔を見てしまう。
「仕事が大好きでな。父親は再三いい見合い話を持ってきたのだが、さっぱり興味もたないで毎日職場で遅くまで仕事をしていた。で、大雪の日の深夜、自分は歩いていたのにスリップした車にはねられて死んだんだ」
真夏の、まぶしいまでに強い光の下ではとても似合わない話だった。
「別に俺が後悔してどうなる話でもないのだが、あの時姉が結婚して主婦だったらあんなことにはならなかったんじゃないかとか、無意味に思うことはある」
いっぱい自分の中で考えつくされて、理事長の中で今となっては何の波紋も呼ばない思い出なのだろうけど、その淡々とした言葉が、余計に悲しかった。
「その事故の直前だったんだが姉に聞かれた。そろそろ結婚した方がいいと思う?とかって。別に仕事が楽しければ慌てなくてもいいんじゃないか、と言ったんだが。まあでも俺が言うことじゃなかったな。姉は俺の面倒を見ていたから、仕事を続けざるを得なかっただろう。本当は男だから俺が姉を守らないといけなかったのに」
わたしは息をとめた。
「理事長…それは違うよ。すごく違うよ」
わたしは言ってはいけないことかどうかも分からないままに口にする。
「理事長が、時々女だ男だ守るだのって、とっても面倒くさいのはそれなんだね」
「……何」
「女だから男に守られたいとか、そんなことはないと思うよ。わたし達は自分が生きるために学んで仕事をして生活して、ちゃんと一人で何とかなる生き物なんだ。わたし達はそうする自由さえあれば、男の人の守護なんて必須じゃないよ。一緒にいるなら手助けはお互いにした方が良いと思うけどね。わたしが今、庇護が必要なんだとすれば、女性だからじゃなくて子供だからだよ。だから理事長もお姉さんが死んだときの自分の力不足を後悔することはないと思う……思います」
よくわからないけど……踏み込みすぎかもしれないけど、わたしは言いかけた言葉を最後まで言うことにした。
「子供だった理事長が守れなかったから、お姉さんは死んだわけじゃない」
死、という単語は、やっぱり禍々しく重い。
……その分の沈黙の後。
「久賀院は賢くて優しいところがあるな」
おっ、褒めてきた。
「そうですよ」
「その優しさは何年周期だ?76年位か?」
「ハレー彗星と一緒にしないで下さい!」
理事長はちょっと重たくなった空気をふりはらうように笑った。
いつのまにか、高速道路からは海が見えていた。結構遠くまで来たみたいだ。海水浴客らしいちいさな点が浜辺に沢山見えている。
でも理事長にも、そんな思い出があるんだ。そういえば、理事長が寝込んだとき、家族の思い出話をしていたっけ。あの時看病してくれた相手を、理事長は母親とは言わなかった。あれってもしかしたらお姉さんのことだったのかもしれない。
なんとなく、沈黙が覆ってしまった車内が気まずくてわたしは天気の話題をだす。会話に困ったときは天気の話だ。
「今日は海水浴日和ですねえ」
「そうだなあ。浜で一杯やりたいが、車の運転があるからなあ」
わたしは運転用にサングラスをかけている理事長を見る。
どこからどう見てもチンピラだ。
できれば、サイケデリックな色彩のアロハシャツとか着ていれば完璧だと思う。そして『お、覚えてやがれ!』とか捨て台詞を言ってくれたらわたしはもう大満足だ………………やってくれないかな……。
「もうすぐだ」
理事長は高速を降りる。車を止めたのは、道路沿いの駐車場だった。海に面した山があってその林の中に結構立派なお寺のてっぺんが見えた。きっとここはその駐車場だろう。
「どこに行くんですか?」
「寺だ。でも鷹雄に見つかるとうるさいから、ちょっと離れた場所に置いて少し歩く」
「寺って」
あー、帽子かぶってくればよかったな。暑い。
「墓地だ」
まさか。
梓が骨とか齧っていたらどうしよう。なんか怖い話でそんなようなものがあったような気がする。オチが「見たナー!」ってやつ。
昼が近くなって、濃くなってきた影を踏むようにしてわたし達は山道を登り始めた。足元が砂利で少し歩きにくい。なんとなくサンダルで来てしまったけど、スニーカーのほうがよかったかなあ。
あたた、なんかちょっとストラップが擦れてきてしまった。皮むけそう。多分正門側じゃなくて裏道なんだろうなこっち側って。
「大丈夫か、久賀院」
ちょっと遅れたわたしに気がついて理事長が立ち止まる。
「大丈夫です」
なんつーか、あんな話を聞いた後ではなおさら泣き言などいえぬ。
寺に着くと理事長は手招きして、墓に隠れるようにしてわたしを案内した。
「静かにな」
理事長が木の陰から指差したのは、一つの墓の前に立っている梓だった。その表情までは遠くて見えないけど、この暑い中みじろぎもしないでじっと立っていた。
梓に視線を向けながら、理事長はぽつりという。
「俺の死んだ姉はな、王理高校の教師だった」




