5-3
り。
「りりりり理事長!?」
一瞬幻かと思って目をこすりそうになったけど、こんな幻、見る自分のほうが嫌だ。
なので素直に現実とみとめるのはやぶさかではありません。でも。
「理事長?」
とりあえず靴を脱いで寮にあがったわたしは、理事長に声をかけた。それだけでなくとりあえず肩に手を置いてみた。さらに揺さぶってみた。なにかの救急のマニュアルみたいだ。ちなみに寮内にはちゃんとAEDが据え付けられているよ。
「……だるい……」
とか理事長が言ったような気がした。
「大丈夫ですか、理事長」
一成君が尋ねる。
気が回る一成君に思わず惚れそうだ。なんというか、一成君は本当にそこいらの男子とは一線を画して王子様なのだ。背が高くて笑顔が爽やかで賢くて性格もよくて、成績優秀でスポーツ万能とかいう、なに食べたらこんなふうに成長するのか非常に興味津々な生き物である。梓に発掘されるまでのわたしが裏庭にうっかり生えてしまった苔ならば、一成君はいかにもセバスチャンが世話をしているガラス張りの温室で育った薔薇と言う感じだ。
温室に咲いてよし、外に出してよし、切花にしてよし、ドライフラワーにしてよし。
わたしなど一成君に比べれば、せいぜい盆栽の土台。
理事長の肩に強く手を置いて声をかける一成君を見守っているうちに、理事長はようやくのろのろと起き上がった。
「……久賀院!」
理事長は一成君の横にいるわたしに気がついたみたいだった。とたんにはじかれたように身を起してその無駄に大きい図体でわたしを見下ろす。
「もうすぐ夕飯の時間だ。まったくこんな時間まで一体どこをほっつき歩いているんだ」
「校内、図書室ですが……」
「早く食堂に行け!」
理事長はなんだかよろよろしながら階段を上っていく。足元は明らかにふらついているが、帰るそうそう小言を言われたわたしが手助けするわけが無い。
「……風邪、っぽかったよね」
一成君が半ば唖然としながら言った。
「みたいね」
「なのに、梅乃ちゃん見たとたんにすごいから元気だ」
「すごいよねえ、そこまで女子どもに弱み見せたくないかってかんじ」
「あー、でもなあ」
一成君は笑う。
「理事長の気持ちもわからなくもない」
「ええ?」
やだやだ、一成君と理事長が分かり合うなんて嫌だ!そんななら人と人がわかりあわなくてもいい!血で血を洗う世紀末救世主伝説でかまわない!
「好きな女の子には、自分の弱みなんて見せたくないよ、かっこわるいから」
いやあ、理事長のあれは単に無駄な矜持だ。そうかあ、でも一成君にもそんな見栄っ張りな面があるんだ。理事長だったら鼻でわらうところだけど、一成君の言葉だとなんだかとっても微笑ましい。
「一成君はいつだってきっとかっこいいよ」
わたしはそう言って階段を上り始めた。てっきり後ろにいると思った一成君がなんだか呆れたような顔でわたしを見上げているのに気がついたのは、踊り場についてからだ。
「どうしたの、一成君」
「すごい豪快なスルーだ……」
「なにが?」
「いや、あのさ」
一成君がなにやら言いかけた時、階段を降りて来たのは蓮と鮎川君だった。
「なに、お前ら今帰ってきたの?」
「早く食堂行こう。もうすぐ夕飯になるよ」
「え、もうそんな時間?」
「今日カレーだって」
「え、じゃあ急がないと」
カレーとかシチューとかだと、大鍋と炊飯器だして調理師さんが帰ってしまうことがあるのだ。そうすると、あとは無法地帯で遅くに行くと何も無いとか言う怪現象が起こる。ていうか、皆自分のことばかり考えすぎー。とりあえず、遅く来た連中などしらんけど、自分の分は確保しなくては!
「なあ、ところでテントの入り口で理事長が行き倒れていたけど」
「いいよいいよ、自由にさせておこうよ。理事長だってテントの外にいたい日はあるんだよ」
わたしはぱたぱたと廊下を進んだ。
確かに蓮の目撃談どおり、わたしの部屋の手前でテント頭だけつっこんで、理事長が行き倒れていた。
『悲劇の雪山遭難。あと一歩でビバーク地点だったのに……』と、とりあえずその構図にタイトルをつけて満足してみる。
理事長に声をかけてみたけど、唸っているばっかりだ。
さすがにこれじゃますます具合悪くなってしまうんじゃないかと思ったけど、この巨体をわたし一人の力で動かすことは無理そうだった。仕方ないので、自分の部屋から毛布を持ってきてテントからはみ出している部分に掛けてみた。ふー満足。よし、義理は果たした、ご飯に行こう。
そういえば一成君がなにかいいかけていた気がしたけど…………まあいいか。
人生というのは順位付けが大事だもん。一番今なすべきことは、わたしはやっぱり勉学ですから。え、動機ですか?動機だって全然不純じゃないですよー。
多分。
それから数日間は天気が崩れた。どうせ試験勉強なのでどこにいくわけでもなく、どうでもいい。一成君達と、少し遅れた梅雨みたいな天気を文句言っていただけだった。一成君と、ときには蓮も混ざって図書室で勉強して帰るのが日課みたいになっていた。そんなときに美術室で麗香先生とお茶をするわけにいかなくて、高瀬先輩との約束は中に浮いた形になっている。ときどき思うのはこのまま無かったことにならないだろうかということ。
人の恋路に首つっこむとろくなことにならないというのは、4月の鮎川君の一件で実証済みだ。
あまりにも天気が崩れて大雨になってきたことに気がついたわたしは、教科書を閉じた。雷までなってきてちょっと怖い。さすがに帰ろう。
一成君と蓮は今日は用事があるとかでわたしは一人だった。
「実家に呼ばれちゃってさ」
お昼休みに一成君はそんなふうに言っていた。
それはあれですね、王理の総本山。もしいえるものなら、あの化学の教師はどうかと思いますが、と誰かエライ人に伝えてくださいとお願いしたい。
「一成君の家族ってどんな感じなの?」
でもわたしはとぼけてそんな風に聞いてみた。この間蓮から聞いたことはきかなかったことにして。
「え、普通だよ」
一成君はけろりとした顔で言った。
「普通すぎて特に何もいえないくらい普通。王理グループっていたって、結局人間なんだし、別に普通だよ」
あまりにも簡単にそんなことを言うので、蓮が言ったことは嘘かと思ってしまう。確かに校内で一成君と理事長が兄弟っぽく話をすることは見たことない。
よくよく考えてみれば、そんなドラマチックな家庭がそうそうあるわけもないか。話したのが蓮だし……あいつの話はとっても怪しい。
「でもちょっと体調悪い家族がいてさ。まー、俺が行ったところでどうしようもないんだけどとりあえず様子見てくる」
「おうち?」
「病院。すごくいい病院だよ」
一成君はその病院名をさらっと言った。そんな病院聞いたことがないっていう顔をしていたら、私的な療養所に近い扱いだからね、うちすごく寄付しているし、とセレブなことを言う。
そんな話をしているときにも、一成君の携帯電話は明るい音を立てて鳴り出した。この曲、蓮の携帯電話の着ウタだったかも。軽快なリズムの可愛い女の子の声。
どうやらそれは、その家族からの電話だったようで、一成君はお昼休みもそこそこに話をしていた。話の内容までは聞けなかったけど、どうやら弱気になっている家族を励ましていたようで。
王子様は、さらに家族思い……!
そんな具合でもはや非のうちどころのない彼は、とっとと帰ってしまったのでわたしは夕刻ひとり、図書室を出た。
雨の音が強く、遠くで雷の音までしている。わー、こっちに来る前に帰りたい。
そんなわたしは、学校の玄関で途方にくれることになった。
傘がですね。
明らかに人為的な力でぽっきり折れていたわけですよ。
えーと。
わたしはそのもはや傘としては再起不能なそれを手にして眺めた。哀れ。
けっこうこの傘気に入ってたんだけど。
ていうか、これっていじめって言わないか。
わたしはなんだか怒ろうかしょげようか微妙なところで、気持ちを作り損ねてそこに立ち尽くしてしまった。
まったく、もういいかげん大人になろうよ、だ。
多分さ、わたしに文句があるのはわかるんだ。今までみんな男子ばっかりでやって来たところに急に女子が一人入り込んだなら、気分が悪い人がいるのはわかる。でもさ、文句があるならちゃんと声に出して言えばいいのに。
そういうことを面倒に思った時点で、卑怯さが身につくと思うんだけどな。
なんてことを思っても、哀れな傘が奇跡のカムバックを遂げることは無い。まったくもう、この傘だって、還暦でロッキー4やっちゃうスタローンくらいの根性出せ。
雨はやまないままで、玄関先でわたしは空を見上げていた。
「……何をしている、久賀院」
いつもより若干テンション低めな理事長の声に呼ばれた。
「理事長こそ」
「職員は久賀院のようなアホな生徒の相手で日夜残業なんだ」
だからどうしてそこの、例1でわたしの名前を出すよ。
むかつきながら振り返ったわたしは、明らかにおかしい顔色の理事長を見た。そういえば何日か前に行き倒れた以来具合が悪そうだった……。
理事長はわたしから顔を背ける気遣いをしてから咳き込んだ。
「で、その愉快な物体はなんだ」
「……あ、ちょっとしたオブジェです」
わたしはにっこり笑って言い切った。
「……しかしそれは、この雨には役に立たないと思うが」
「芸術というものは、生活にはなんら役に立たないことが多いかと」
理事長は無言でわたしと傘を見比べた。あんまりじろじろ見られて嫌なので、つい傘を後ろに隠してしまう。
「久賀院…………お前のその無駄な頑固さというのは、不治の病か何かか」
余計なお世話だ。
「ほら」
理事長は持っていた自分の傘を差し出した。これぞこうもり傘といった黒い無骨な傘。
「これをさして帰れ」
「嫌です」
「即答だな……」
「優等生ですからはきはき答えます!」
えへん、と胸をはってみたが、なぜかバカを見る目で見られた。
「だって理事長どうするんですか」
「大丈夫だ!」
……わたしも理事長をバカを見る目で見てみる。
「根拠なさそうですね」
「しかしまあ、女子どもを雨に打たせて自分だけのうのうと帰るのも気が引ける」
このタイミングでまたサムライ化……。
「とにかく受け取れ」
「嫌ですってば……そうだ」
お互いに大人になりましょう。
「しかたないから二人でこれに入って帰りましょうよ」
「……!」
そんな軟弱なことできるかって言うんでしょう?どうせ。でもこれじゃラチがあかない。
「……それは」
珍しく歯切れ悪い理事長の顔は、かすかに赤くなっていた。
「そんな……そんな、ふしだらなことは出来ん!」
そういって、理事長は傘を無理やりわたしにおしつけると、雨のなか駆け出してしまった。
「り、理事長―!?」
しかしわたしの呼びかけも聞こえたのか聞こえなかったのか。理事長の姿はあっというまに雨のカーテンに消えてしまった。
相合傘がふしだらだったら、手をつなぐのは18禁ですか?って聞きたかったのに。
理事長の傘は、何かの訓練としか思えないほど重いものだったけど(鉄棒でも仕込んでいるのか)、でも、確かにわたしを雨から守った。




