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さて、化学準備室の悪夢事件(とりあえず名づけてみた)の数日後は、もう六月である。
五月のあの事件はまったく片がついていないと言うのに、月だけ変わるというのも理不尽なものだ。なので、わたしのくじいた足は、まだ若干痛む……。それが六月の騒動の始まり。
「すみませーん」
わたしが保健室のドアを開いたのは、間違っていない。くるぶしに巻いた包帯が緩んでしまったので、保健室の先生に手伝ってもらおうと思ってきたのだ。まだお昼休みだから、午後の授業があるので、このままだと落ち着かない。そういえば、保健室に行くのも初めてだ。
六月、と言っても梅雨らしくなく、穏やかな光の差し込む快晴だ。その光は保健室にも満ちていたが。
「え、理事長?」
わたしは保健室のデスクに座って、ぼんやりと外を見る隠居老人のような背中の理事長を発見した。
「ま、間違えました!」
慌ててそう言ってドアを閉める。うわあ、どんなぼんやりだわたし、理事長室と保健室を間違うなんて。ははは、ドジっ子キャラはわたしには似合わないのだ。
まじまじと、その部屋のプレートを確認するが、『保健室』……うん……保健室だよな、やっぱりここ。
「……なにをドアの前でぶつぶつ言っているんだ?」
理事長が、陰気な声をしてドアを開けた。
「……どうして理事長がここに……あの保健室の先生は……」
「居る」
理事長は自信満々に答えるが、わたしの視界には写らない。理事長の背中に負ぶさってるのかと思ったが、理事長の白の上着の背には当然そんなものは……は?
「理事長、白衣?!」
愕然とわたしは口頭確認をした。できれば指差し確認もしたいくらいだ。
「……白衣ぐらい着る」
「コスプレ?」
理事長はため息をついた。
「学校保健室で、一人しかいない大人が、白衣を着ていた際に、どうしてその人物が養護教諭でなく、コスプレなどという結論が出てくるのだ、久賀院!」
それは理事長の顔が、養護教諭にあるまじき人相の悪さだからです。と心の中ではきはき答えてみる。
「……理事長は、保健室の先生だったんですか?」
「ちゃんと免許は持っている。なんだその疑わしげな目は」
「疑わしいものを見ているので仕方ないんです」
とりあえず、わたしは再び保健室に足を踏み入れた。そういえば学校理事長が日中なにしているかなんて考えたことはなかったな。そっか、昼は保健室の先生だったのか。
まあ座れといった理事長はめざとくだらしなくたるんだわたしの足の包帯に気がついた。
「まだ足は痛いのか」
「少し。でも平気です。そろそろシップも外そうかって……」
そういえば、実際転倒した日は、寮で理事長が包帯結んでくれたんだっけ。たしかに手際がよかった。
理事長はごそごそを戸棚を開けて新しい包帯を探し始めている。その背を見て、わたしはちょっと気が重くなった。
そしてその原因は明らかに。
「理事長」
「なんだ」
「えっと……麗香先生のこと、咎めないで下さい」
「あー、あれな」
理事長は苦笑した。
「まあ校内で教員同士が恋愛するなど、俺からすれば、非常識千万なんだが……」
「麗香先生を怒らないでください。あれはわたしのせいなんです。だってもしあれが梓先生じゃなくて理事長あての告白だったら嬉しいでしょう?麗香先生は、梓先生のことが好きだなんて、まったく思いもよらなかったんです。麗香先生は理事長のことを好きだとばっかり」
自分がもし言われたら嬉しいと思う。だからそれに免じて許して。
「……だって梓先生は悪魔ですよ。麗香先生には何か呪いがかかっているんだと思うんですが、それはわたしが責任をもっておいおい解きます。乗りかかった船ですから。そもそもおかしいんですよ、梓先生が好きなんて女は!まだ理事長の方が納得です。そりゃ理事長は好意的に表現しても仁王像ですけど、でも仁王と悪魔だったら普通は仁王のほうがまだましですよね。だから麗香先生のせいじゃないんです、呪いなんです。の、ろ、い」
脱脂綿の入ったかごが、棚から理事長の顔面に落ちてきた。
「久賀院」
床にばら撒いた脱脂綿を拾い集めて理事長は言った。
「お前はフォローをしたいのか?」
あたりまえですよ、理事長。
「阿像でも吽像でも、仁王のほうがマシです」
わたしはさらに念を押してみた。これだけ褒められれば、理事長の態度も軟化するだろう。包帯を手に、理事長が戻ってくる。
「……すまん。俺にはその区別はつかん」
でも理事長は麗香先生に対して怒ったりしてはいないみたいだった。
「まあいいさ、あれを見ていたのは結局鷹雄と俺と久賀院と高瀬だけだ。校内で噂にならなければいいだろう。しかし鷹雄はもてるなあ。俺とは大違いだ」
「あー、確かに自覚してもどうにもならないことってありますよ。理事長の服の趣味みたいに」
まず間違いなくこの調子だと、麗香先生以外にも何人も梓のところが好きだった女の人を理事長は知ってそうだな、コレは。梓はやっぱりサバトとか開いてるんだ。
「それに理事長、女嫌いなんでしょ」
「えっ」
理事長は目をしばたかせた。
「正直、扱うのは苦手だが、嫌いなんてことないぞ」
理事長はため息をついた後はっと顔を上げた。
「まあ生徒にこんな話をしても仕方ないな。どれ、足を見せてみろ」
わたしは今、上履き代わりにしているスリッパを脱いだ。うーん、ちょっと理事長の話も気になるけれど、でも年寄りの話は長くなるからなあ。
「医者に行かなくてもすんだな」
理事長は見た目にはもう何も異常ないわたしの足首を見た。
「もし問題があったら俺の知り合いの医者に連れて行こうかとも思ったがよさそうだ」
「理事長、医者に知り合いが?」
うん?と理事長は顔を上げた。こんな人相悪くて知り合いの医者って……もぐりとか、組関係の闇医者とかだったらどうしよう。わたし、銃創とか刺青はないです。
「俺は、看護大学を出てしばらくは看護師だったんだ。で、ここの理事長になることになって止めてしまって、でも机に座っているなんて嫌だから、たまたま大学でなんとなくとった養護教諭の資格でここにいる」
多分わたしは呆然としていた。
認めない。
こんな人相悪い白衣の天使なんて認めないー!
「本当は、俺はターミナルケアのホスピスに行きたかったんだがな……まあなかなか人生は思うようには行かないものだ」
本当は、俺は組の始末屋だったんだ……まあなかなか人生は思うようにはいかないものだ……ぐふう!とか言って息絶える殺し屋役の方がどう考えても似合っているよなあ……。
「なんだ久賀院、あんまり見るな」
いや眺めて妄想していたんです。今、理事長が不幸な幼少年時代を送り、暴走族のヘッドとなり、敵対チームを半殺しにして関東連合初代総長になったところまで回想シーンが済みました。
「でもまあ、まだ二十代だから、いろいろ可能性はあるだろうな、俺も」
「……誰が二十代?」
「俺だ。今二十六歳だ」
「……はい?」
どう見ても、三十代だけど……年をごまかすなんて男らしくないぞ!と思ったが、さすがに理事長がそんなタイプでないことはわかる。そういえば、この人梓と王理の同級生だって聞いた!
わー!年の違う同級生だって、自然に思っていた!クラスでのあだなは『先輩!(笑)』に決まりだって!
ふ……老け顔!
ほらできたぞ、と理事長は包帯が巻きなおされた足を見せた。
「ありがとうございます」
なんていうか、理事長も確かに謎の人だ。どうも今の話し方からすると、うきうき気分でここの理事長になったという感じじゃない。むしろなにかごたごたに巻き込まれたみたいな。
「理事長」
「なんだ。もうすぐ授業始まるぞ」
「ここって王理グループなんですよね。でも理事長はどうして苗字は王理じゃなくて轟なんですか?」
一瞬、理事長の表情が凍った。
何か溢れるほどの言葉がありながら、それを押しとどめる顔。わたしはそれに最大の拒絶を感じる。
「……久賀院」
理事長は言う。
「あまり細かいことにこだわるな。大きな人間になれないぞ」
……話をそらすにしても、最高にダサいそらし方だ。
それでもまあ、実際昼休みも終わりそうだったのでわたしは立ち上がった。
「ありがとうございました」
「うん。ああそうだ、なかなか久賀院の部屋の前から離れられなくてすまない」
ぎょっとした。理事長から悪いなとか、すまないとか、俺が全て悪いんだ!とかそんな言葉を聞くとは思えなくて。
「いえ……ずっとテント暮らしの理事長の方が大変だと思います。あの、もう丸々二ヶ月たちましたし、理事長はおうちに戻ってください。友達もいるし」
「いや、遠慮はいらん。俺も寮生活が面白くなってきたところだ。なにより生徒との距離が近くていい」
うわー、遠慮はしてません。理事長が邪魔なだけです……。
そうか、理事長はまだ寮にいるのか、とがっくり気分でわたしは保健室を出た。包帯は巻き直されて歩くのは楽だけど心は重いよ。
と
「ウメちゃん」
廊下で蓮に呼び止められた。
「あー、見つかってよかった。探していたんだ」
「どうかしたの?」
「お願い!」
そういって蓮は両手を合わせて目を閉じた。
「俺のカノジョになってくれ!」
なんの罰ゲームだ?




