3-1
そういえば、と気がついた。
この学校って男性教諭しかいないんだっけ?
「いるよ」
なんで知らないの、とばかりに蓮が答えた。
今日も今日とて、楽しいランチの時間である。GWは実家に帰っていたけれど、その休暇もあけてしまえば食堂一面のむっさい野郎ばかりが目に映る。いいや、せめて目に麗しい一成君を見つめよう。視界をチョイス。
「ああ、美術の先生のこと?」
カレーをつつく一成君が同意した。
「なんだっけ、薬師寺先生だっけ」
「そうそう。あの人」
「そうかそうか……って、どんな顔だったかなあ……」
どうにも二人の会話は要領を得ない。大体この学校にはわたし以外の女性はその薬師寺先生しかいないんだから、もっと印象に残っているものだと思うけど。
「どうしようかな。挨拶しておいた方がいいと思う?」
「なんか挨拶っていうと、姐さんと妹分みたいでどうかと思うけど……」
いや、わたしは本気だ。だってお父さまが、目上の人への挨拶は欠かすなって言っていたし。
「仁義は通した方がいいよねえ……」
「みたい、じゃないくて、本気で任侠なんだウメちゃん……」
「胸にさらしまくなら手伝うけど」
「お断りです」
なんていうか、蓮は本当に見た目と言動が合わない気がするなあ。どこからどう見てもだらしなくて、言うことはシモネタ大王なんだけど、妙に女の人に対して慣れているって言うか。男子に対するシモネタじゃなくて、女子がひかない冗談の領域の限界をわきまえている辺り、なんだかまわりにすごく女の人がいたみたい。お姉さんが多いとかかな。機会があったら聞いてみよう。
わたしは誰かに家族のことを聞かれるのが苦手だから、相手にも聞きにくい。なんていうか「お父さんのご職業は?」って聞かれたら「……たびびと、かな(遠い目)」とかしかいえない久賀院家はイタイのだ。
そんな会話をしていた時に、ちょうど理事長が通りかかったのだった。まるで話を聞いていたのかと思うようなタイミングで、わたしに言ってきたのは
「久賀院。お前、まだ薬師寺先生にあってないのか?」
と言うことだった。
「え、何でですか?」
「何言っているんだ。王理で女性は久賀院と薬師寺先生だけなんだ。頼りにしなくてどうする。おい、今から行くぞ。しかし、鷹雄にも、久賀院を薬師寺先生に会わせておけと言ったのに、あいつも仕方ないヤツだな」
などと自分の言いたいことをまくし立てる。確かにお昼ご飯は大体終わっていたが、無理やりわたしは拉致られた。
美術室は、しんと静かだった。
「薬師寺先生?」
声をかけて理事長とわたしは美術室に入り込む。はい、というかすれたような声がして、奥から出てきたのが……うん、展開的に薬師寺先生なのだろう。
「いや、昼食時に申し訳ない。これが先日お話した、久賀院梅乃なんですが」
いま、普通にわたしをコレ呼ばわりしましたね、理事長。
「あ、久賀院梅乃です」
でもわたしも思わず反射的に頭を下げた。そして上目遣いに彼女を見る。
貞子だ。
すいません、薬師寺先生。こんな感想ですいません。でもほんとにそうなのだ。
髪の毛は確かに長いけど、ただ伸びましたというままに腰まである。その真っ黒さ加減が若干怖いです。あんな髪が、排水溝を覆っていたら凍る。半分が髪で隠されてしまっているので顔もよくわからない。しかも化粧もしていない。
多分二十代前半だと思うのだけど、それを推定するのは、氷漬けになったマンモスの生息年代を推定する程度には難しい。
「どうも……」
薬師寺先生は、ぼそぼそとそれだけ言う。手には、絵の定着液の缶があったけど、その爪先は油絵の絵の具で爪先が染まっていた。
「よろしく……久賀院さん……」
おっ、二語文になった。こりゃわたしの中学校時代の地味っぷりのさらに上をいく。いや沈みすぎてむしろ浮いている感じだ。
「じゃ、ちょっと3人で茶でも飲みますか。まだ昼休みはあるし」
理事長、正気か!?と思わず見上げてしまった。しかし理事長は『生徒や教職員と交流持ててかなりいいことしてる!』とばかりに能天気に笑っている。
貞子先生……薬師寺先生はもたもたと教員用の棚から湯飲みを取り出した。その間無言だ。ふむ、と唐突に理事長が立ち上がり手伝い始める。しょうがないので私も手伝って、お茶を入れる作業が三人がかりというなんかシュールなことになっておる。
と、理事長の携帯電話が鳴った。ちょうど茶が入った瞬間で、理事長は不満げな顔をして電話に出た。ところが相手は校長先生で、なにやら忘れていた仕事を思い出させられた理事長は弱り顔で電話を切った。
「すいません。来客があるのを忘れていました。話は途中ですが私はこれで……」
「あ、じゃあわたしもおいとまを……」
「久賀院は薬師寺先生と話をしていけ」
嫌なのだ!と目でわたしが訴えているのがわからないのか。受け取れわたしの電波!
しかしまあ、この朴念仁の理事長が思春期のわたしのナイーブな思いなど気がつくはずもなく、あわただしく出て行って、美術室には気まずさに気が遠くなっているわたしと、明らかに途方にくれている薬師寺先生が残された。
「……あの……お茶どうぞ」
こ、声が小さい……。
わたしはその湯飲みを取った。だいたい、いくら同じ女とは言え、先生だから十歳ちかく年も違うわけだし、一体何を話していいのかさっぱりわかりませんよ。共通の話題として使えそうなのは「おいしいカレーの作り方」ぐらいだ。
「あの……久賀院さんは……」
うつむき加減で薬師寺先生が言う。
「学校、楽しいかしら?」
「た、楽しいです」
何故だろう、楽しいと答えたら、ばちでも当たりそうな暗さだ。
あー。
わたしは自分の嫌な気持ちに気がついてしまった。薬師寺先生のこの内向的な感じは、わたしの中学時代に似ているんだ。梓に鍛えられてわたしは少し変わったと思うのだけど、薬師寺先生は変わらないままプラス十年。いっぱい言いたかったことを言えなかった重みが自分にダブって切ない。
自分が少し変わったからってそんなこと思うのは不遜だ。しかし、そう反省することも不遜な気がして、もう自分でわけがわからない。
薬師寺先生は沈黙だし、わたしは自己嫌悪の混乱だし、まったくもってどうしようもないこの状態に風を吹き込んだのは、アホウな来客だった。
「麗香せんせー!」
能天気な声がして、ドアが壊れるんじゃないかという勢いで美術室のドアが開いた。
「あれ、来客……って噂の久賀院さんじゃんか。えー、俺ちょーラッキー。わずか二人しかこの学校にいないおんなのこを同時に目撃じゃん!」
軽い。
低タールの煙草もびっくりな軽い言葉の数々を飛ばしながらおもむろにわたしと薬師寺先生の間に座ったのは、見た目も風が吹いたら飛びそうに軽い男だった。世の年頃のお嬢さんを持つパパ相手に『娘の彼氏にしたくないタイプアンケート』があったら、ダントツ一位だ。誰も押さなきゃわたしがエントリーさせたい。
たしか脱色は校則で不可だったはずだが、彼の髪はちゃらい茶色で、耳にはピアスがはまっていた。薄い色素の目は、もしかしたら自前なのかも知れないが、そのアホっぽい表情がすごい。
しかし、それらのわたしの減点を加味した上でも、この人は男前だった。アイドル顔だけど、多分上級生だ、同級生とちがってちゃんと男の人の顔をしている。
「どーも、俺、高瀬響平。響平先輩って呼んで、ウメちゃん。いやー、まじ可愛いっすね」
誰もあんたの名前を聞いてないし、愛称の確認もしていない。しかも何ゆえわたしの名を知ってる。……だが最後の一言で全て許す!いい人認定!
「響平先輩もかっこいいです」
わたしもにっこり笑って言った。
なんかでも言いづらいな、名前。
「あ、俺ね。俺んちお袋が女優で、親父が会社社長なんだ。お袋が親父の目を盗んで若い男前の俳優と浮気して出来たのが俺。遺伝、環境、資産の全てが揃っているわけ。だからかっこよくってあたりまえなの。美形のサラブレッド、駄馬とは生まれも育ちも違うよん」
重い出生の秘密が一瞬で台無し!
「高瀬君……」
「あ、もーそーやってすぐ怒るんだからさ、麗香先生は。そんなに怖い目でにらまないでよ。せっかく美人なんだから」
わたしは薬師寺先生の目どころか、髪に隠れて顔さえも見えないよ!?
高瀬先輩は、理事長用に入れられたお茶を遠慮なく飲むと、腕時計を見た。
「やべ、友達待たせてるんだっけ。じゃねー、麗香先生。放課後にまたくるよ。愛してる!」
多分、この人の言葉はティッシュペーパーよりわずかに重いくらいだ。鼻セレブだったら潤いの分そっちの方が重い。
怒涛のように高瀬先輩が出て行ったあと、わたしは薬師寺先生を見た。
「……先生、今のは」
「……ここの二年生よ、あれでも成績はいつも学年十位以内に入ってるから優秀なのね、高瀬君」
なんていうか、この学校。
生徒が揃いも揃っておかしくないか?
「ところで」
わたしはちょっと気になって聞いてみた。あとで思えば、そんなこと言い出したわたしがバカだったのだが。
「薬師寺先生ってお名前、麗香って言うんですか」
薬師寺麗香なんてすごい名前だよなあ。それこそ女優みたいだ。
ぼんやりそんなことを思いながらなにげなく聞いたときだった。
「……ばかみたいだってわかってる!わたしだってこんな派手な名前ほんとは嫌なのよー!」
薬師寺先生がそう言っておもむろに号泣を始めたのだった。
あーあ、余計なことにまた足を突っ込みそうだ。




