第十一話 ウェルカム トゥ ザ ローズガーデン
「……書き直せ」
沙樹は冷たく言い放った。
「お前は一体何を見聞きしていた? こんな小学生の作文みたいなのが報告書だと? 常に現場に近い立ち位置にいながら、なぜそれを形に出来ない?」
「あー、その何だ……」
「それに何だ、この不揃いなフォントは。お前は高梨から何を教わった?」
「いや、その……」
「今度は言い訳か? とにかく書き直しだ。これで何回目だ?」
「……三回目、かな?」
「またお前は……。いい加減、曖昧な返事を返す癖、直したらどうだ? お互い時間の無駄だと思わないか?」
とにかくこんな調子だった。
俺はローズガーデンの書庫に篭りっ放しで、今回の一連の報告書を作成していた。
だが何度作っても沙樹がNGを出す。
いつ終わるとも知れない報告書作成の道のりは、果てしなく遠かった。
*
「江藤様」
ローズガーデンの書庫では高梨さんが待っていた。
「今度はどこをご指摘されたのですか?」
「……全部ですよ」
俺はため息と一緒に全てを吐き捨てた。
「加えてフォントが揃っていないとか、そんな事言われましたよ」
「左様で……」
高梨さんは珍しく語尾を濁した。さすがに付き合い切れないと思ったのかも知れない。
「ね、江藤さん」
「何だよ」
俺は駆け寄ってきた泉に目を向けた。
泉は今回の一件以来、ローズガーデンへ出入りするようになった。
学校は? と聞くと自主休講だと言う。
俺は日本の未来を憂いた。
「沙樹さんて、いつもあんな感じなの?」
見てたのか……。
「まぁ、そうだな」
「初めから?」
「初めって何だ?」
「江藤さんと沙樹さんが初めて会った時」
「ああ……」
思い出したくもなかった。
「想像通りだよ、きっと」
俺は何とか気を取り直し、PCの前に座った。報告書を書き直すためだ。
「それ、いつまで作ればいいの?」
「いや……別に期限はない。でしたよね、高梨さん?」
「左様でございます。ただ──」
「ただ?」
「出来るだけお早めにお作りになられた方が宜しいかと」
延びれば延びただけ沙樹の機嫌を損ねる。それは分かっている。
だが報告書の内容がちょっと複雑になっているのは、沙樹のせいでもあるのだ。
あんな回りくどいやり方をしなければ、かなりシンプルな報告書として提出出来ていたはずだ。
「大体あの怪文書、泉が作ったのと別に用意したのは沙樹のアイディアでしょう?」
「仰る通りです」
「それならその部分について、もうちょっと詳細な説明があってもいいでしょう?」
「仰る通りです」
「高梨さん」
「はい?」
「あなたは誰の味方なんですか? 職場の後輩が困っているんですよ?」
「後輩でございますか?」
「ローズガーデンの渉外担当としての、ですよ」
「ああ……」
これだ。
高梨さんは今までずっと一人で仕事をして来たらしい。一匹狼というのはチームワークを考慮しない。それとも俺は、ローズガーデンの一員としてまだ認めてもらっていないのかも知れない。
「俺もまだまだなのかな……」
誰にも聞こえないように呟いたつもりだった。
高梨さんは極々自然な動きで俺に近づき、肩に手を置いた。
「……頑張りなさい。沙樹様はもうそのつもりですよ」
ホントかなぁ。
*
居酒屋てんもんじで暴露された大原泉の嘘、そして十五年前と先月起きた交通事故。
これらは複雑に絡み合い、様々な人物を巻き込んだ。
直接的な被害としては居酒屋てんもんじの経営だ。大打撃だった。
──ここの店長は人殺しです──。
こんな貼り紙をされれば客足は遠のく。
その貼り紙の発案者は大原泉。十五年前の交通事故で加害者側の立場にいた人間だ。
加害者側といっても当時五歳。両親と一緒に乗用車に乗っていただけだ。
だが──。
事故は『憶測』で言えば、居酒屋てんもんじの店長、佐藤門次郎氏が、通報先を間違えた事により救急車の到着が遅れ、その僅かな数分が、被害者であるスクーターに乗っていた男性の生死の境界線となった。
だがこれはあくまで『憶測』に過ぎない。
それを知っているのはローズガーデンとその関係者だけだ。佐藤氏は沙樹がその事を暴露するまで知らなかった。佐藤氏はその瞬間まで『善意の通報者』だったのだ。
だがその可能性を『憶測』とせず、『現実』として扱っていた女性がいた。
大原泉だ。
大原泉は旧姓は城島だ。城島家は十五年前の事故で、加害者の立場になった。泉の話では、その後間もなく両親は離婚した。泉は母親に引き取られた。
そしてつい最近、当時のローズガーデンの渉外担当だった大門氏──高梨さんの事だが──が十五年前に作った『調査報告書』を読んだ。そこには佐藤氏の通報先の間違いと、生死の境目となる僅かな数分間について記載されていた。
その数分間が『交通事故』が『死亡事故』になったのかならなかったのか。
あくまで可能性だが、泉はそこに縋り付いた。
だから大原泉は、密かに佐藤氏を恨み、復讐する機会を待っていた。
折しも、大学の友人がそこでアルバイトをしていた。
彼女はそれを利用した。
貼り紙、『ここの店長は人殺しです』を貼る事だ。
もちろん直接的な危害を加える気はなかった。ささやかな悪戯程度の復讐だ。それは本人も認めている。
「ただ、知らせたかっただけなんです。復讐なんて大げさな考えじゃなかったんです」
後に大原泉はそう言っていた。
その貼り紙も、アルバイトをしていた友人が辞めた時点で終わりにするつもりだったのだと言う。
だが貼り紙がなくなった翌日、怪文書が『投書』された。
──『人殺し』。
貼り紙より端点かつ直接的な言葉。
より悪意や憎悪のこもった文字列。
「何で、投書なんかしたんだ?」
「それは……」
泉にそれを問い質すと言葉を濁した。
貼り紙の件が俺の行動により明らかになったタイミング。
そこに怪文書が登場する。
これ以上ない効果的なタイミングだ。
「……やっぱりどこかで許せなかったんだと思うの。分かってる。店長さんには何の責任もない。分かってるの。でも……」
そういう泉はどこか寂しそうだった。
両親の離婚。その原因は事故の結果だ。でも死亡事故でなくとも、同じ結果になっていたかも知れない。
そう。
あくまで可能性でしかないのだ。
でも泉は割り切れなかった。自分の家族を壊された恨み。当時何も出来なかった自分。それらが許せなかった。そして、それをぶつける相手がいるとしたらどうだろうか。
「……これはエゴなんだと思う。自分の境遇が店長さんのせいだと思い込む事で、私は心の安寧を得ていた。だからあの怪文書は私が満足出来ればそれで良かったの」
泉はそれを自分で背負い込もうとした。
佐藤氏も可能性としての責任を背負い込もうとした。
そして俺も、先月に起きた事故の、これも可能性としての責任に過ぎないが、人の死を背負い込もうとした。
だから俺は、どうせ背負い込むのなら少しでもその重さを減らそうと考えた。
誰も悪くない。誰も人なんか殺していない。
事故は不幸な偶然が重なって起きた。
ドアミラーが曲がっていたのは佐藤氏のせいではない。
転倒したスクーターを避けられなかったのはドライバーのせいではない。
そこに殺意はなく、ただ結果だけが存在する。
そう。
死亡事故としての記録だけが存在する。
──一人で背負うには重すぎる。
俺は再び、生死の重さに想いを馳せた。
──でも、みんなで背負えばちょっとでも軽くならないか?
詭弁なのは分かっている。
だが、お互いに悪意のない事件性のない過去の出来事を、可能性という曖昧な状況で背負い込むのはきっと違う。
──俺も前を向かなくちゃな。
俺は手が止まっていたPCのキーボードを再び叩き始めた。
*
俺が修正し終わったばかりの報告書と睨めっこしていると沙樹が入ってきた。
「珍しい。お嬢様が自ら部下の仕事を見に来たのか?」
皮肉のつもりだったが、沙樹は気にも留めていないようだ。
「まぁ、そういうな。それより調子はどうだ?」
俺は恐る恐る報告書を差し出した。
「今度こそ、とは思っているが……」
「ふん……」
沙樹は報告書の表紙をめくり黙り込んだ。
「ああ、そうだ。沙樹に聞きたい事があるんだ。報告書にどうしてもうまく書けない部分があってな」
「ん? 何だそれは?」
「二通の『怪文書』だよ。何であの『怪文書』をもう一通用意する必要があったんだよ」
一つは新聞や雑誌の切り抜きで作られた『怪文書』。もう一つは泉が自宅のPCで作った『怪文書』。どちらも『人殺し』と記載され、今回の件を解決へ導く足がかりになった。
「あの段階で大原泉が素直に認めてくれれば出さずに済んだんだ」
大原泉が城島である事。
怪文書の主である事。
「大原泉は認めなかった。だから、かなり面倒な事をしなければいけなかった」
それは十五年前の事故の調査の報告書だ。
そのせいで佐藤氏まで関係者となってしまった。
「店長はどうせ知る事になる。早いか遅いかの違いでしかない」
「まぁそうなんだろうけどさ……それより、泉が作ったものじゃない側の怪文書はやっぱり高梨さんか?」
「ああそうだ。古風な手だろう?」
新聞記事の切り抜きで作った『人殺し』と書かれた、もう一つの『怪文書』。
「ワープロで印刷した味気ないモノより効果的だろう?」
悪趣味なことこの上ない。
ただ、投書に関してはまだ疑問が残っている。
俺は挙手した。
「質問が」
「何だ?」
「いつすり替えた? 泉が投函して佐藤さんがポストを見るまでの時間って、そんなに余裕はなかったと思うぞ?」
時間的には、俺が徹夜で張り込んでそのまま昼過ぎまで粘って、結局手ぶらでローズガーデンに戻るその時間、正味三十分程度だ。
「お前、誰がそれをしたと思っている?」
「高梨さんだろう?」
「それなら分かるだろう? 高梨が何かヘマをした事があったか?」
「……ないな」
「そういう事だ」
「というか、どう考えてもあのキーワードを事前に知っていたとしか思えないぞ? しかも同じ封筒まで用意して。いくら高梨さんが万能でもそこまで予測出来ていたとは思えない」
「だからお前は考えが浅いんだ。封筒は最悪違ってもいいが、キーワードは揃える必要がある。ただあの時点でどんなキーワードが使われるかは不明だ。それなら力技しかないだろう?」
「力技?」
「全部私に言わせるつもりじゃないだろうな?」
沙樹が俺を睨み付けた。
──どれだけの数を作ったのかは知らないが、考えられるパターン全ての怪文書を作ったって事か……。
俺は天を仰いだ。
──さすが高梨さんだ。
だがまだ疑問が残る。
「新聞記事の切り抜きから犯人を特定するなんて良く思い付いたな」
「そうか?」
「あれは驚いたよ。まさか裏写りした記事から雑誌を特定するなんてな」
「まぁ、あれは作ったのが高梨だから、もしどの雑誌か言われても大丈夫なようにはしてある。だがな。実はあれには穴がある」
「穴?」
「女性雑誌な、あれを泉に特定されると嘘がバレる。泉が雰囲気に呑まれていたから上手くいったに過ぎないんだよ」
「そうなのか?」
「ちょっとした賭けだった。あの時泉が居直ったら話が破綻していた。まぁ次の手は打ってあったがな」
「探偵──いや高梨さんからのメールか?」
「そうだ。あの雰囲気の中で自由に行動出来るのは私と高梨だけだ」
話の途中でお茶のお替わりを言い出すなんて、沙樹でなければ出来ないだろう。
そして、それを受けてその場を離れて不自然ではないのは高梨さんくらいだ。
「泉の対応次第でメールの内容は複数のパターンを用意していた。まぁ、乗り切る自信はあったがな」
──まさに力技だ。
準備に時間をかけ、ある程度のパターンに対応出来る手段を用意してその場に臨む。
沙樹が言っていた『忙しい』とは新聞記事や雑誌を見たり探したりしていたのではなく、対大原泉向けのシミュレーションをしていた時間だったという訳だ。
「まぁ、その力技はいいとして。なぜ泉が投書する事を知ってたんだ?」
貼り紙がなくなりその後に泉が投書をする。
そう読んでいたのはなぜなのか。
「言っただろう? 調べはついていたんだ。大原泉が城島の人間だって事も、十五年前の事故の加害者の立場にいたという事も。貼り紙の件も元アルバイトの阿部某も、全部調べていた」
「は? じゃ、じゃあ、俺は何のために?」
つまり俺を雇う前に全てを知っていたという事だ。
それならなぜ俺をわざわざ雇ったんだ? しかも街中で高梨さんを使ってまで。
「……ちょっと言い難い」
「……いや、これは大事な事だろう?」
沙樹は「うーん」と唸った。
「十五年前に城島夫妻から依頼を受けた時な」
「あ、ああ」
「会ってるんだよ」
「誰が?」
「私が、だ」
「誰と?」
「……お前な、全部私に言わせるのか?」
──つまり。
大原泉と沙樹は十五年前に会っている。
「だから確認したのか?」
──本当に初対面か? ローズガーデンを知っているな?
沙樹は泉にそう確認していた。
「大原泉は覚えていないような態度だったが、本当の所は分からない。佐藤氏の貼り紙の件。これに手を付けた段階で、事を進めるのはリスクがあると踏んだんだ」
「リスク?」
「十五年前に面が割れている可能性がある私や高梨ではシナリオを描けない。大原泉に見抜かれる可能性が大きい」
「まぁ、そうなるかな」
「だから、先月の事故の時点で、もう一人ローズガーデン側の人間が必要になったんだ」
「それが俺か?」
「ああ、そうだ。今回の件は、居酒屋てんもんじの『困った事』だけを解決するだけじゃダメなんだ。事故が起きた根本を探す事。それが今回の目的だった。十五年前の事故の関係者が動き回るのは、色々不都合がある」
「あー、ええ? ってことは……。全部知っていたのか! お前は!」
「大きな声を出すな。だから言い難いと言ったんだ」
ローズガーデンは、居酒屋てんもんじからの依頼が来る前から、つまり先月の事故が起きたその時から動き出していた。貼り紙の件も泉の事も。そして──。
「俺が先月の事故の目撃者だって事も知っていたんだよな、そういえば」
俺はため息をついた。
「それに、泉にも会わなければならなかった。十五年前と先月の事故に関わる原因を明らかにするためにな。その段階までは、私と高梨は表に出る訳にはいかなかったんだ」
十五年前。
その段階からずっと準備して来たのか。
俺は沙樹を見た。確か二十四歳。十五年前ならまだ十歳にも満たない少女だったはずだ。その少女がその後を見越して人の死の記録を背負い、それを明らかにするための準備を進めていた。
──呪縛、か。
以前沙樹が言った言葉だ。
まさにこれは呪縛だ。
膨大な過去の記録に縛られ、ここ──ローズガーデンを守り、維持し続ける。
それが沙樹の役割だ。まさに呪縛だ。
その負担を少しでも和らげるためにいる──これは高梨さんの言葉だ。
俺はその役目を、少しでもこなせただろうか?
「沙樹」
「ん?」
「俺は、どうだった?」
端的だが、意図は伝わったと思う。
「まぁまぁ、だな」
「まぁまぁ?」
「不満か?」
「──いや」
俺は沙樹から目を逸らした。
「不満なんてないよ。ただ」
「ただ?」
「ここの人間が皆大嘘つきな事は分かった」
「ふん──お前もその一人だろうが」
「俺がか? 俺は真っ正直な人間だぞ?」
「ドアミラー、あれは嘘だろう?」
──見抜かれていたか。
「ああ、あんなのが原因になるなんてこれっぽっちも思っていない。だけどな、ああでも言わないと誰も救われない。十五年前からずっと縛りつけられたままだ。後悔や恨みの連鎖なんていい事なんか何もない」
「だからみんなで背負う、か」
「そうだ。嘘も、事故も、何もかも皆で背負うんだ。まぁ、お前の一番嫌いな『曖昧』な決着って事になるがな」
「いいんじゃないか?」
「は?」
「嘘なんてのはな、ちゃんと理由があればそれは嘘じゃない。受け取る人がどう思うかなんだ。人間なんてそもそもが曖昧なんだ。だから私はあれ以上の決着はないと思ってる」
意外な言葉だった。
「だからお前は良くやったと思うよ。名探偵殿?」
「よせよ」
俺は照れた。
「それより──この報告書だがな」
「ああ、えーと。どうだ今度は?」
「作り直せ」
やっぱり……。
俺は再びPCと向き合うハメになった。
*
「江藤様。居酒屋てんもんじの店長がお見えです」
高梨さんは、書庫で報告書と格闘している俺を見つけるなりそう言った。
「え? わざわざ来たんですか?」
「左様でございます──庭におられますが、如何致しますか?」
「いや、もちろん行きます」
「それと、その報告書の事なのですが」
「はい?」
「修正はどこまで?」
「いや……一旦これで終わりにして印刷しようとしてましたけど……」
「ではそれをお持ち下さい」
「だって、まだ沙樹に見せてないですよ?」
「沙樹様が、佐藤様と一緒に見たいのだそうです」
「……? ええと、分かりました。プリントアウトして持って行きます」
「はい。では庭でお待ちしております」
*
もう何回直したのか分からない報告書を持ち、俺は庭に向かった。
ローズガーデンの庭にあるガーデンテーブルには、沙樹と佐藤氏が座っていた。
傍らには高梨さんが静かに控えていた。
「おう大将。久しぶりだな」
あの日から既に二週間が経つ。書庫に籠もっていた俺にはその実感はなかったが。
「報告書、見させてもらったよ。まぁ俺としては、報告書はどうでもいいんだがな」
──なんですと?
俺は手に持っていた報告書を見た。
俺はまだそれを誰にも見せていない。
「それと店なんだがな。畳む事にしたよ」
──なんですと?
「風評被害が収まらないのだそうだ。この街で居酒屋を続けるのは無理だと判断されたんだ。どうした? 座らないのか?」
沙樹が怪訝そうな顔で俺を見た。
俺が気の抜けたような顔で席に着くと、すかさずコーヒーが差し出された。
「え、ああ、すみません」
カップに口を付けたが味なんてしなかった。
「どうした? 大将? 何か悪いもんでも食ったのか?」
「あー、いえ……そんな事はないですが」
「まぁとにかく店は先々週で引き払った。一条のお嬢様がいい物件を見つけてくれてな。助かったよ。来月には新装開店だ。隣街だが足を運んでくれると嬉しいんだがな」
──あー、つまり、この一週間俺がPCと格闘していたのは……。
「とにかく、依頼した『貼り紙』とか『怪文書』とか……、色々あったが俺も何かすっきりしたよ──ありがとうよ、大将」
「いや、俺は……」
「それとな」
佐藤氏は照れ臭そうに禿げ上がった頭を撫でた。
「皆で一緒に背負う──この言葉、効いたよ。さすがはローズガーデンだ」
佐藤氏は満足そうに笑った。
「……高梨さん」
「はい」
「報告書は」
「はて。それは既に佐藤様にお渡ししておりますが?」
高梨さんはさも意外、という顔で俺を見た。
──つまりこの二週間は時間稼ぎって事かよ。
居酒屋てんもんじが移転する期間、それを俺に知られないように報告書の修正をさせていたって訳だ、この深窓の令嬢は。
何のために?
高梨さんは、それを見透かしたかのように、こっそりと俺にこう言った。
「サプライズ、でございますよ」
俺はがっくりと肩を落とした。
*
サプライズにはさらに続きがあった。
佐藤氏が帰った後、沙樹が俺に向かってこう言ったのだ。
「お前、賭けの事覚えているよな?」
──ああ……忘れたくても忘れられない。
俺はこの時ばかりは、自分の記憶力の良さを呪った。
「……向こう一ヶ月タダ働き、だろう?」
俺は貼り紙犯の件で、徹夜して張り込むかどうかで沙樹と賭けをして負けた。
その結果が一ヶ月のタダ働きだ。
「いっそ忘れててくれれば良かったのに……」
「お前は私がそんな面白い事を忘れると思うのか?」
愚問だった。
「ああ、ええ、そうでしょうとも。俺はここから先一ヶ月飲まず食わずだ。死んだら化けて出てやるからな」
「そう言うと思って、当面の働き口を用意してやった。ローズガーデンからは一銭も出ないが、そこの収入で糊口を凌ぐといい」
「何の仕事だ?」
「行けば分かる」
沙樹はそれだけ言うと、さっさとローズガーデンの屋敷に姿を消した。
その場には高梨さんと俺だけが残った。
「どういう事です?」
「私の口からは申し上げられませんので……」
高梨さんは口が堅い。
ただ目が笑っていた。
「で──俺は、いつからその『働き口』に行けばいいんですかね?」
「左様でございますね……まぁ明日からでも」
「それは急な話ですね。って、どうせもう何もかも準備済み──そうなんでしょう?」
高梨さんは黙ったまま朗らかに微笑んだ。
俺にはそれが悪魔の笑顔に見えた。
*
「いらっしゃいませー!」
店は大盛況だった。
「江藤さん! ケーキセット、三番テーブルのお客様!」
「はいはい」
俺は泉の指示で、ケーキが山積みになったトレーを持ち、店内を駆け回った。
カフェ・ローズガーデン。
居酒屋てんもんじが移転した跡にオープンした喫茶店だ。
俺はそこでウェイター兼サブマネージャとして忙しく動き回っていた。
「しかし高梨さんにこんな特技があるとはな」
──まさか調理師免許まで持ってるなんて……。
コーヒーや紅茶ならいつもの事だが、ケーキやパスタ等の軽食まで作る。
カフェ・ローズガーデンの店長と渉外担当の兼務という激務を平然とこなすその姿はもはや神の域だ。
その上店にはなぜか泉もいた。
雇った人間の気が知れなかった。
「沙樹さんに聞いたの。居酒屋てんもんじがいなくなって、そこにローズガーデンの喫茶店を出すって。そこで人手が足りないからどうだ? って言われたのよ。店長は高梨さんだし場所も良く知っているし。それより何より時給がいいのよー」
どうやらそういう事らしい。
「江藤さん! 何ボケッとしてんの! 七番テーブルのお客様、オーダー待ち!」
泉の怒号が飛んだ。
やれやれ。
俺は伝票片手に、『七番テーブル』に向かって足早に歩き出した。
──しばらくはローズガーデンの仕事は出来そうにないな。
とてもじゃないが高梨さんの真似なんて俺には無理だ。
*
午後の四時くらいになると客足が途切れ途切れになった。
まぁ平日だし、昼の時間帯さえ凌げばこんなものだろう。
「江藤さん、休憩入っていいよ」
泉から休憩の許可が下りた。
やっとかい。
俺は昼前からずっと店内を走り回っていた。
泉も同じようなものだが、年齢のせいなのか、性別のせいなのか、軽快さが段違いだった。
──俺も歳かね。
「ああ江藤様、昼食はこちらを」
高梨さんが厨房から声をかけて来た。見るとカウンターの上にある皿にサンドウィッチが乗っていた。
──これだ。
高梨さんには忙しいからこれは後回しだとか、そんな事はきっと無関係に違いない。
俺は高梨さんに礼を言い、エプロンを脱いで自分で作ったアイスコーヒーを持ち、店の隅のテーブルに座った。かなり遅めの昼食だ。
「お疲れのようだな」
いつの間にか俺の向かいに沙樹が座っていた。
「……いつもの事だが、お前何で気配を断つ?」
「人と対話するには主導権を握った方が有利だ」
「ああ、そうですかい」
俺はふてくされたようにアイスコーヒーを一口飲んだ。苦かった。
「しかしまぁ、良くここに店を出せたな」
アーケード街の裏にあるとは言え、立地条件は悪くない。
事実、昼の盛況は予想外だった。
「まぁ、ビルごと買い取ったからな」
「──は?」
「時間がなかったのでな。ビルごとローズガーデンが買い取った」
「何の時間だ? 別にてんもんじの移転に合わせた訳じゃないだろう?」
「驚いただろう?」
俺は頭を抱えた。
つまり、二週間という期間でてんもんじの移転とこの店のオープンさせるためだけにビルを買い取り、俺を報告書の修正でローズガーデンに釘付けにしたって事か?
「何でそんな事を……」
「お前を驚かすためだ」
「……あのな」
「冗談だ。本当は気付いているだろう?」
この路地で過去二度の死亡事故が起きた。
その原因は不幸な偶然が重なったものだった。
もちろんそれは仮説でしかない。
だが可能性はゼロではない。
ローズガーデンは『過去の過ちを繰り返さないため』に様々な記録を溜め込む。そして、それらの完全性とその情報を活かす努力は惜しまない。
「まぁ、休憩時間にちょいと見回ってみたが、路駐している車は見かけなかったな」
「それと街灯の数を増やすよう行政に働きかけている」
「そうか」
「ああ。これで可能性は限りなくゼロに近づく」
事故が起こる可能性。
人が死なない可能性。
少なくとも、ここにカフェ・ローズガーデンがある限りそれを未然に防ぐ事が出来る。
「それともう一つ理由があるんだ」
「もう一つ?」
「ローズガーデンは遠いだろう? 何かが起こるのは大半は街中だ。それなら街中に拠点があった方が動きやすいだろう?」
「まぁそうだな。でも、お前はどうするんだ? 高梨さんがずっとこっちにいたら困るんじゃないないか?」
「祐一、お前な……」
沙樹はこめかみを押さえた。
「私が一人で何も出来ないとでも思っているのか?」
「少なくとも料理は出来ないだろう?」
「バカにするな。オムライスくらいは作れるんだ」
俺は口元を歪め、ニターっと笑って見せた。
「オムライス、ねぇ……?」
「ま、まぁ後はここで食べればいいだろう? 何もローズガーデンに私が貼り付いている必要はないんだ」
「そういや沙樹、お前どうやってここまで来た?」
高梨さんがいないという事は、リムジンを運転する人間がいないという事だ。
服装はいつもの『深窓の令嬢スタイル』ではなく、白いシャツにデニムのパンツだったが、まさか徒歩ではないだろう。
「私だって車の運転くらいは出来る」
「車?」
「すぐ戻るつもりだったからな。表に停めてある」
「表……」
俺が仰け反って表を見ると、そこには一台の真っ赤なスポーツカーが歩道と車道を隔てる縁石に乗り上げていた。
多分、サスペンション、イカれているぞこれ……。
沙樹はそんな俺の顔を見て、慌てて言い繕った。
「いや、これはその何だ。ここは狭いだろう? 出来るだけ店に寄せようとしたらだな、こうガリガリっと」
「ガリガリ?」
車のドアをよく見ると、大きな擦り傷があった。きっと電柱か何かで擦ったに違いない。
「……高価なアルミボディが……」
「傷くらい直せばいいじゃないか」
「修理にいくらかかると思って……いや何でもない」
俺は金銭感覚が一桁違うと思われるお嬢様を見た。
「何だ?」
「沙樹、今度ここに来る時は俺を呼べ。その方が被害が少ない」
「被害?」
「お前の車がいくら壊れてもいいがな。電柱とか縁石とか、他の車へのダメージが心配だ。次からは俺が運転する」
俺は実家に置きっ放しになったままのサイドカーを引っ張り出す決意をした。そうでもしないとここ界隈でのローズガーデンの『記録』が増えるだけだ。
維持費や駐車場代がかかるので置いてきていたのだが、このお嬢様の自由奔放な運転を止めるには他の手段を思い付かない。
それにバスとか電車でも何をしでかすか分かったもんじゃない。
「ま、まぁ、お前がそういうなら……」
さすがに反省したのか、沙樹はそれきり黙り込んでしまった。
俺は残り少なくなった休憩時間でサンドウィッチを頬張り、前から聞きたかった事を口にした。
「なぁ、沙樹」
「何だ?」
「質問というか、疑問があるんだが」
「泉の事か?」
「まあな」
「泉は、性格がちょっと天然系で歪んでいる所を除けば頭は回る。それに本人の希望もあってな」
「ここのバイトか?」
「ああ。見届けたいんだそうだ」
「何を?」
「お前も鈍いな。お前が言ったんだぞ? 背負うって」
──一人で背負うには重すぎる。でもみんなで背負えばちょっとでも軽くならないか?
「そうか……」
俺は最後のサンドウィッチの欠片を口に放り込み席を立った。
「もう休憩は終わりか?」
「順番だよ。泉も休ませないとな」
俺はタバコを吸おうとポケットに手を入れた。
何かゴツイものが手に当たった。
──ああ、そう言えば。
「……これも疑問の一つだな。沙樹、ちょっと聞きたいんだがな」
「何だ?」
「このコンパスって仕掛けがあるのか?」
俺はポケットからコンパスを取り出した。
「ああ、あれは蓋に細工があってな」
「やっぱり……」
「その蓋、模様があるだろう?」
「ああ。十二個の干支が彫られているな。これか?」
俺は適当に干支の一つを押し込んだ。
そして蓋を開くとコンパスの針はその押し込んだ干支の方向を指していた。
「……すっかり騙されたよ」
「だが困った人を探すには効果的な細工だろう?」
沙樹は自慢気にそう言った。
「全くだ。すっかり騙されたよ。ただ使い方は難しいな」
「そうだ。初めからその人が困っていなければ意味がない。使いどころが難しい。確信がないとそれは使えない」
コンパスが困った人を指すのではなく、困った人を見つけてそれを指させるのだ。
──俺にはまだ使いこなせないだろうな。
「なぁ、もう一つ聞いていいか?」
「何だ?」
「俺を採用した理由の一つは、ここを守るためだと言ってたな」
「ああ。それがどうした?」
「他の理由って何だ?」
沙樹はその質問を予想していなかったらしい。
珍しく数秒の間が開いた。
「……そ、それはだな」
「おう、何だ」
沙樹はぷいと俺から目を逸らした。
「それは秘密だ」
──秘密、ね。
まぁいいさ。
俺がローズガーデンで『困った人』を助け続ければ、その内分かるだろう。
ローズガーデン──秘密の花園。そこにいる人間は嘘つきだらけだ。だが理由がある。相手を慮っての嘘は、受け取る相手によっては嘘じゃない。
そして事実だけをずっと記録し続ける。それは死んだ情報ではなく、将来起こるであろう出来事に活かす情報だ。
つまり。
過去の過ちを繰り返さないため。そのために俺や沙樹や高梨さんがいるのだ。
泥棒やら殺人事件やらは、探偵や警察に任せておけばいい。
ローズガーデンは、もっと包括的な意義で活動している。
──俺もその一員なんだよな。
俺はタバコを咥えて、店の外に出た。
店内は禁煙だ。このご時世、タバコを吸うにも気を遣う。
──ああ、こりゃ結構かかるぞ。
沙樹の車のドアの傷を見ながら、ため息と一緒に紫煙を吐き出した。
ふと見ると、車のドアミラーはしっかりと畳まれていた。
了




