第十話 シークレット オブ スプリング 後編
「十五年前、この路地で交通事故がございました」
高梨さんはとつとつと説明を始めた。
「先月の事故と同じくスクーターと乗用車との衝突事故です。……誠に申し上げ難いのですが、スクーターに乗っておられた男性は亡なっております」
それは俺がローズガーデンで見た事故の記録だ。
事故の発生場所と時刻は、先月に起きた事故と同じ。
ただ季節が冬だった。
スクーターのスピードの出し過ぎによる運転ミス、それと乗用車の前方不注意、安全配慮義務違反。それが当時の警察が出した結論だった。
転倒したスクーターは正面から来た乗用車に巻き込まれ、デパートの壁に激突。スクーターに乗っていた男性は死亡した。
乗用車に乗っていたのは、城島という家族だった。父、母、娘の三人だ。幸い城島家側には怪我人は出なかった。
この事故の第一発見者及び通報者は、居酒屋てんもんじの店長、佐藤氏だ。
ただこれには続きがある。
「私は加害者側となった城島様ご夫妻からある依頼をお受け致しました。それは事故の原因を探す事でした。しかしながら、私にはそれを解決する事は叶いませんでした。今でもその事を後悔しております」
十五年前の交通事故。亡くなったのはスクーターを運転していた男性。その加害者となったのは城島夫妻とその娘。
だが事故の原因を突き止めても死んでしまった人間は戻ってこない。これは城島氏のエゴでしかない。あるいは自分が犯した罪に対し、娘が背負うであろう負担を幾分かでも取り除けたら、と考えたのかも知れない。
「私はお受けした依頼を解決に至らなかった旨と併せ、調査報告書として提出致しました。報告書は城島様のご厚意で受理して頂けました。ただ……あの報告書には佐藤様の事故後の対応についても書かれておりました」
「何だ? 俺にも関係があるんですか?」
佐藤氏は急に自分の名前が出てきたので驚いたようだ。
「俺はすぐに通報した。それに何の問題があるって言うんだ?」
「いえ問題ではございません──正確には佐藤様の問題ではございません」
「それはどういう事だ?」
「通報先でございます」
高梨さんは淡々と口にした。
「当時佐藤様は、一一〇番と一一九番を掛け違えておられました」
「それがどうしたってんだ?」
佐藤氏は椅子を蹴っ飛ばして立ち上がった。
「俺は事故が起きてすぐに通報した。それが一一〇番だろうが一一九番だろうが、どっちが先でも同じだろう? それに何の問題があるんだ?」
ここから先の話は佐藤氏にとっては辛いし酷だ。だが誰も悪くはない。現場も、消防、警察もきっと最善を尽くした。それは分かっている。
だが言わなければならない。
「佐藤さん、それは──」
言いかけた俺を沙樹が制した。
「事故直後、スクーターの男性はまだ息があった」
店内にいた全員が息を飲んだ。
「沙樹、お前!」
「祐一、お前は黙ってろ。これはローズガーデンの管理人、情報の管理人の私の責務だ」
沙樹の目。碧い目が力強く俺を射貫いた。
「……店長が一一〇番に通報し、そこから一一九番へ連絡が行き、結果として救急車の到着が数分遅れた。これは事実だ」
店内を沈黙が支配した。
空気が重い。俺は指一本動かせない。唐突に、先月の事故の情景が脳裏に浮かんできた。路地に散乱する破片、ヘルメット……。俺は何も出来なかった。ただそこにいただけだ。通報する事すら思い付かなかった。そんな俺が誰を責める?
「……その数分で、事故が『死亡事故』じゃなく『交通事故』になっていたかも知れないってのか?」
佐藤氏は力なく椅子に座り込んだ。
「……そんな、そんな……」
さっきまでの勢いのいい口調ではない。小さく呟くだけだ。
「……俺が間違えたからなのか?」
「いや、それは違う。店長に責任はない。その数分で命が失われたか、そうではなかったのか。それは誰にも分からない。そこにあるのは事実という結果だけだ」
誰も口を開かない。
人の生死に関わる。
それが間接的な関わりだったとしても、その重みには何も変わりはない。
誰が良いとか悪いとか、そんな言葉に意味はない。
でも投書をした主はそれを憶測としなかった。佐藤氏を『人殺し』と決めつけたのだ。
「じゃ、じゃあ、この怪文書を作ったのは、その城島家の人間だってのか?」
佐藤氏は再び大きな音を立て立ち上がり、店内を満たしていた沈黙を破った。
「この嬢ちゃんが城島家の人間だってのか?」
「店長」
沙樹が凛とした声を張った。
「結論はまだだ。今はまだ仮定でしかない」
「一条さん、あんたはそう言うがな。さっき言っていた投書のタイミングと十五年前の事故の件を考えれば、この嬢ちゃんが犯人だという充分な理由があるだろう?」
「いや」
沙樹は、短くそれを否定した。
「理由はあっても理由がない」
「何だいそりゃ?」
「一つ目の問題だった『タイミング』で仮定はしたが、城島家と大原泉を繋ぐ物がない。だから犯人には投書をする理由はあるが、まだ大原泉にはその理由がない」
「そんなの……言葉遊びじゃないのか?」
「店長。冷静になって欲しい。ここにいるのは城島泉じゃない。大原泉だ。私が言ったのはあくまで『事実』だ。そこには憶測は入り込めない」
佐藤氏は黙って椅子に座り直した。しかし納得はしていないようだ。
そう。憶測なのだ。
それを憶測でないとするならば、佐藤氏も責を負う事になる。
「今、沙樹様が仰いましたように、十五年前の事故は結果として死亡事故として扱われました。これは『事実』です。私は城島様のご依頼を完遂出来なかったのです。ローズガーデンの人間として『困っている方』のお役に立てなかったのです」
俺は泉を見た。
泉は俯き、身じろぎ一つしない。
高梨さんは問題は二つあると言った。
一つはタイミング。投書がここに投げ込まれたタイミングだ。
それを高梨さんは、消去法を用いて泉が行ったと仮定した。
そして二つ目。
十五年前の事故により一人の人間が死亡した。そのため加害者と被害者の関係が生じた。
そして加害者側となった城島氏は、その事故の本当の原因の究明を高梨さん──当時は大門氏だ──に依頼した。
結果として、残念ながら原因は判明しなかった。
だが怪文書の投書の主は、当時の佐藤氏の対応を『憶測』としなかった。
死と生を隔てた数分間。
これを佐藤氏の責任だというのはあまりにも酷だが、投書の主はそう考えていない。佐藤氏を投書に書かれている文言通り『人殺し』と決めつけている。
だがそれと泉を結びつけるものは何も提示されていない。
「……十五年前の事故なんて私には関係ない。だってそうでしょう? 私は城島じゃないし、もしそうだったとしても当時の私は五歳ですよ? それを投書をした犯人にするのは無理があるんじゃないですか?」
その通りだと思った。
「……この報告には続きがある」
沙樹が口を開いた。
「対外的には、高梨が出した報告と警察の見解でクローズしているが、ローズガーデンとしてはそうはいかない」
「沙樹?」
「ローズガーデンにある情報は常に完全だ。不完全な情報は徹底的に補完する。高梨、いや当時は大門か──が、追跡調査をしなかったと思うか?」
「追跡調査だと?」
何を追跡する?
誰を調べる?
「高梨」
「はい」
高梨さんは泉へ向き直った。
「十五年前の事故──先程申し上げましたように、私は城島様よりお受けした依頼を完遂出来ず、中途半端な状態での報告となりました。しかしローズガーデンとしては、そのまま放置する事は出来ません。理由は単純です。ローズガーデンは事実を記録しております。その事実に漏れがあってはなりません」
高梨さんはここで一息ついた。
「──私は事故の原因を解き明かさなければならなかったのです。しかし十五年前の事故は、有効な手がかりは何一つございませんでした。それでも原因を明らかにしなければならない。その為には様々な手段を用いました。人も使いました。私自身もあらゆる手を尽くしました。そして先月『また』事故が起こりました」
十五年前の事故と酷似した事故が起きた。
「先月の事故は十五年前の事故と状況が酷似しておりました。私は調査のため何度か現場に足を運びました。その結果、十五年前と同じ原因だと思い至り、今度こそ原因を見いだそうと致しました」
──それは過去の過ちを繰り返さないため。
この言葉は、高梨さん自身に向けられた言葉でもあったのか。
「私はその調査の中、ある女性を見かけました。十五年が経つとはいえ面影がございました。私が忘れようはずもございません。しかし疑問が残ります。どうしてその女性がそこにいらっしゃったのか。私はこう考えました」
高梨さんは一瞬だけ沙樹を見た。沙樹は小さく頷いた。
「その女性は、十五年前に私が作成した調査報告書をお読みになっておられた。そして探していたのです──事故の本当の原因を。私と同じく『人を殺した何か』を」
事故が起きた本当の原因。
なぜスクーターが転倒したか。
なぜ運転ミスをしたのか。
その『人を殺した何か』を探していた。
俺は泉を見た。
泉は俯いたままだ。そこからは何の感情も読み取れない。
「その……その女性は誰なんですか? 面影があったんでしょう?」
俺は訊かずにはいられなかった。
泉は俺に嘘をついた。
父親が刑事だと言った。そして亡くなったと思い込ませた。
すでに泉から得た情報は価値がなくなっていた。
だから俺は、高梨さんに尋ねた。
「調べたんでしょう? 城島氏のその後を」
「はい」
高梨さんは感情の篭っていない声でそう答えた。
「だから高梨さんが見かけた時も、俺と会った時も探していたんだ。『人を殺した何か』を。先月の事故と十五年前の事故。この酷似する二つの事故は、どちらも『人を殺した何か』が明らかになっていない。そういう事か──泉」
泉はびくっと体を震わせた。
「お前の父親が刑事ではないと分かった時点で、俺との会話で得た情報は価値を失った。そして今高梨さんが提示した二つの問題。それに合致するのは、泉。お前だけだ。それなら答えは一つしかない」
泉は黙ったままだ。
「それを俺から言わせるつもりか? 泉?」
それはきっと酷だ。二十歳の女の子に背負わせるにはあまりに酷だ。
だがそれを俺が言ってしまうのはもっと酷だ。
「泉」
俺は優しく泉の肩に手を置いた。
泉は俯いたまま静かに口を開いた。
「……ここに呼び出された時、何となく予感があったの」
俺は訊き返した。
「予感?」
「そう。あまりにタイミングが良すぎるから」
「タイミング?」
「今日はこのお店、定休日でしょう?」
泉は顔を上げ俺を見た。
「定休日?」
「十五年前も、先月も、事故が起きた日はこのお店が定休日だった。そこに事故の原因を探している関係者が集まる。だから予感があったんです」
定休日。俺の中で何かが繋がった。
「そうか、定休日か」
「そう。そして私は城島泉だった。そしてそこにある投書を出した『犯人』です」
それは告白だ。
泉は自ら負った傷を曝け出そうとしている。
「十五年前に店長さんがとった対応……数分の遅れ……私はそれを、母が隠していた『調査報告書』で知りました」
「隠していた?」
「はい。両親は離婚しました。事故があって間もなくだったと思います。当時私は小さかったから……両親は、私が事故の事を知らずに済めばいいと考えたのかも知れません」
「お母様に引き取られたのだな?」
沙樹が俺の後を継いで話を続けた。
「泉のご両親が離婚していた事は高梨の報告で知っていた。だから投書の件も察しはついていた」
「沙樹! お前!」
俺はかっとなって叫んだ。
「知っていたのか! 泉の過去も今も! 城島家がどうなっていたのかも!」
「ああ、知っていた」
「それならなぜこんな手の込んだ事をした? お前が説明すればそれで済んだじゃないか!」
「祐一。私の口から全てを話してそれで誰か納得するか? 私が持っている情報はローズガーデンの持つ情報と同義だ。記録でしかない。事実でしかない。それをただ説明しても、誰がそれを受け入れる?」
「そ、それは……」
「これはな、本人じゃなきゃダメなんだ。手の込んだ事だとお前は言うがな、それを実行に移すまで私がどれだけ迷ったか、お前は想像出来るか?」
人の生死に関わりそれを背負い込む。
それを本人に他人が告げる。
そんな残酷な事はない。
「……すまん」
「いや──私も、もうちょっといいやり方があったかも知れないと思っている。すまない」
「謝るのは俺にじゃない」
「──そうだな。泉。すまん。ただ理解して欲しい。これは必要だったんだ。ローズガーデンとしても私としても。そして泉、お前もだ。これを解かないと次に進めない」
「次?」
「ああそうだ。まだ事故の真の原因は謎のままだ。そうだろう?」
「……でも結果として人が死んだ。そして私の両親は人殺しになった──これは事実です」
泉は俯き、口を開いた。呟くような声だった。
そして顔を上げた。
「当時、お父さんとお母さんが、どんな思いで事故に向き合ったのかは分かりません。でもあの事故が死亡事故でなかったら……、きっとこんな事にはならなかったと思います」
離婚。生みの親、肉親と離れ離れになる。それまで普通に暮らしていた家族が、一瞬で崩壊する。
そして背負うのだ──人の死を。
「だから十五年前の事故の報告書を見つけた時、私は店長さんを恨みました。なぜ一一九番に先に通報しなかったのかって。でもそれは筋違いなんです。事故が起きて人が死んだ事実は、誰に何を言っても変わらない。それでも私は──」
やり切れない思い。
理解は出来る。
同情も出来る。
だがそれ以上傷口を広げるのは違う。
「嬢ちゃん」
佐藤氏が泉に声をかけて来た。優しい声色だった。
「貼り紙や投書の件でこの店が被った被害は、あんたがいくら謝っても戻らない。風評被害ってヤツだ。だがな嬢ちゃん。俺も十五年前の事故については、未だに後悔している。だから俺にも謝らせて欲しい」
「店長さん……」
「一条のお嬢様が言ってたが、その数分か? 憶測でしかないかも知れないが可能性はゼロじゃなかった。それを知った今となっては嬢ちゃんだけを責める訳にはいかない──すまん」
十五年前と先月に起きた事故。
それに関わった人間はそこで起きた事をずっと背負って行く。
あの時こうしていれば。
あの時そこにいなければ。
それは後悔なのか贖罪なのか分からない。
ただずっと背負って行くんだろうなと思った。
──俺もその一人なんだな。
先月に起きた事故で、俺はその場にいながら何も出来なかった。
もし俺が佐藤氏より先に通報なり何なりの行動を取っていれば、何かが変わっていたかも知れない。生と死の境界。それは結果に過ぎないのか。
店の中は沈黙に支配され、ただ時間だけが過ぎて行った。
皆何かを思い、振り払い、そしてまた考える。
その無限とも思える回廊はいつ終わるとも知れない。
ただただ時間だけが残酷に過ぎ去って行く。
と。
「さてと。謎解きの時間だぞ、探偵殿」
沙樹がなぜか明るい声でそう言った。
──謎解きだと?
「祐一、お前ここに何をしに来た? ただぼけっと座ってるだけか?」
「沙樹……お前、何言ってんだ?」
「ローズガーデンの目的は何だ。言ってみろ」
──目的?
「……困った人を助ける事、かな?」
「またお前は疑問形で……。まぁいい。言い替えよう。お前の仕事は何だ?」
「佐藤さんの『困った事』を解決する」
「なら聞くがな、店長の『困った事』とは何だ?」
「貼り紙の風評被害」
「それが起きた原因は何だ?」
「交通事故だ」
俺はやっと気が付いた。
いや──思い出した。
「……後は任せる」
沙樹はそれだけ言うと、さっさと店を出てしまった。
そうだ。
まだ俺にはやる事があった。
──いや。やれる事、かな。
十五年前と先月の事故の、『真の原因』を解き明かす。
俺は立ち上がった。
*
「皆さん」
俺が声を張ると、泉と店長が怪訝そうな顔をした。
「次です」
「次?」
泉が眉をひそめた。
「これ以上何をするの?」
「お前が探していたものさ」
泉は一瞬、それが何を指すのか理解出来なかったようだ。
「……何を言って……? え……? 分かったの?」
「多分な」
多分、と言ったが俺には確信があった。
今日は定休日だ。
居酒屋てんもんじは、定休日になると店長である佐藤氏が車で来て、店の前に路駐する。
それは十五年前も先月も同じはずだ。
「佐藤さん。確認です」
「な、なんだ大将?」
「十五年前と先月、というか二つの事故があった当日、ここは定休日だった。これは間違いないですよね?」
「え、ああ、そうだが……」
「そして今日のように車で来て、夜中までずっと掃除をしていた。これもいいですよね?」
「ああ、そうだけどよ……。大将、お前さんは何を言いたいんだ?」
「言いたいというか、正しくはこれから確認するんですけどね」
「確認? 何をだ?」
「事故の本当の原因です。ただ事実は変わりません。背負う物も減りません。それでも聞きますか?」
俺は泉と店長を見た。高梨さんは沙樹を追って店を出ていた。
「……本当に?」
泉は半信半疑だ。当然だろう。自分が何年かけても分からなかった事を、沙樹曰く『ヘボ探偵モドキ』が解き明かそうとしているのだ。
「時間帯は違いますが、理屈だけなら説明出来る」
俺は泉と佐藤氏の二人を従え店を出た。
*
いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。
まだ時間的に夜でないのだが、照明が少ない事とデパートの壁があるせいで、路地は早くも闇に包まれ始めていた。
店を出ると、入り口近くに白い軽のワゴン車が停まっていた。
佐藤氏の車だ。
その前には黒塗りのリムジンが停まっていた。ローズガーデンの車だ。
沙樹と高梨さんはリムジンの脇に立っていたが、俺たちが出てきたのを見てこちらに歩み寄ってきた。
「大体、頃合いだろう?」沙樹は小声でそう言った。
──気付いていたか。
「いつから?」
「ついさっきだ」
沙樹は佐藤氏の車を見た。
視線の先はきっとドアミラーだ。
「で、何を説明するんですか?」
泉が車の周りをうろうろしながら聞いて来た。
「二つの事故で共通しているのは?」
「スクーターが転倒した事」
「その原因がこれだ」
「え?」
俺が指差した先には佐藤氏の車のドアミラーがあった。
電動可倒式ではなく、手で角度調整をするタイプだ。
ここでは接触事故が多く、ミラーの縁は擦り傷だらけだった。
「これ……と言われても、後ろを見るミラーでしょ?」
「そうだ。で、ここの路地を良く見て欲しい。何か気付かないか?」
「路地……」
泉と佐藤氏は路地を見回した。
「大将。俺にはいつもの見慣れた道にしか見えないが……」
「そうです。ここは狭くて照明も少ない。しかも長い直線。事故当時の時刻は深夜の二時。繁華街からも離れているから、ライトを点けないと道路に何があるか分からないくらい暗い」
「それは知っているが……」
「懐中電灯ありませんか?」
「江藤様。こちらに」
高梨さんがリムジンから懐中電灯を取り出した。高照度なキャンプで使う本格的なライトだった。
なぜ車に懐中電灯を積んでいたのか不明だった。
──本当に準備がいい。
でもこれで実験が出来る。
俺は路地を見た。
スクーターが一台通り過ぎた。
正面を照らすライトが眩しかった。
「じゃあ泉。この懐中電灯持って向こうに行ってくれるか? 佐藤さんも」
泉と佐藤氏は車から離れた。そこからは、車は後ろ向きに見える。
「このくらいかな」
俺は佐藤氏の車のドアミラーを適当な角度にぐいっと曲げた。
「泉。懐中電灯でこっちを照らしてみてくれ」
俺はそう言ってミラーの後ろ側に立った。
「う、うん」
泉は懐中電灯を点け、こちらに向けた。
──後は角度さえ合えば……。
俺はミラーの角度をじわじわと調整した。光源が徐々に上に向く。
そして。
「眩しい!」
泉が悲鳴とも驚きとも取れる声を出した。
「何これ!」
「それが事故の原因だよ」
「え……?」
「泉が持ってる光照度タイプの懐中電灯でさえ驚くくらい眩しい。これがスクーターのハイビームにしたライトだったら、運転している人はどう反応すると思う?」
「……でも」
「泉が言いたい事は分かる。ミラーの角度だってきっと偶然だ。でも周りを見てみろよ。ライトなしじゃもう路面に何があるか分かり難いだろう? 立っていてもそうなんだから、スクーターのように高速で移動していたら尚更だ」
後は天候だ。
「十五年前の事故当時は路面が凍結していた。先月の事故は雨が降っていた。つまりどちらも路面で光が乱反射して、運転する側からじゃ路面が良く分からない状況だった」
俺はミラーから手を離し、リムジンの脇に移動した。
「それとここの照明、暗いんだよ。それまで車のライトや街灯の光、月明かりを頼りにしていた目は、この路地に入った途端トンネルに入ったみたいに能力が落ちる。通り慣れていればこの路地に入ったらすぐにハイビームに切り替えたかも知れないがな。で、偶然曲がっていたドアミラーにライトが反射して運転ミスを誘発した。その上路面は十五年前は凍結路、先月は雨でどちらも滑りやすくなっていた」
「で、でも、ミラーが曲がっていた事に気付かないなんて……」
「ここは、そういう事故が多発している。知っているだろう?」
泉もここで様々な可能性を探し、この路地が軽微な事故の多発地帯である事を知っているはずだ。
「でも……」
泉はそれでも納得しない。
何かを認めたくない。何らかの感情が理解の邪魔をしている。
──もう一つある。
俺はリムジンに近づいた。
「なぁ泉。佐藤さんの車とこの車の違い、分かるか?」
「え?」
そもそも車格が雲泥の差である、軽自動車のワゴンとリムジンを比較する事すらおかしい。だがある一点について比較出来る物がある。
俺はリムジンのドアミラーに手をかけた。
「これだよ」
俺はドアミラーに置いた手に力を入れ、反対側に押し倒した。
「あ……」
「そう。電動可倒式のミラーは、接触事故の被害軽減のため簡単に倒れる。つまり事故を起こす条件は、電動可倒式のミラーではない車がこの路地に駐車してある必要がある。そして」
俺はミラーを元に戻し続けた。
「佐藤さん」
「お? 今度は俺か?」
「ええ。定休日は、車はいつもここに?」
「ん? ああそうだ。いつもここに停めているが……」
「あ!」
泉が、声を上げた。
「そうか、そうなんだ……」
「分かったみたいだな」
「ん、何だ? どういう事だ?」
二人の反応は正反対だ。
泉は『人を殺す何か』を探していて、佐藤さんは『人を殺す何か』の原因だ。
「つまりですね」
俺は二人に近づきながら、話を続けた。
「全ては可能性でしかありません。これが前提条件です。いいですね?」
俺は前置きしてから説明を始めた。
「この路地は、日中は車やスクーター等の往来が激しい。一本隣の大通りが二段階右折なので、それを知っている人は、スクーターならこの路地を使う事が多いでしょう。この路地の先はT字路だ。突き当たりを曲がるだけで右折が出来る。そしてここは夜間になると極端に暗くなる。この店の向こう側に建っているデパートの壁が影を作るんです。月明かりも届かないし街灯も少ないし。とにかく暗い。深夜になれば建ち並ぶ他の店の照明も消えて、天候によってはさらに見通しが悪くなる。スクーターに乗っているのなら、きっとハイビームに切り替える。直線ですし、何より路面状況が把握し難い。そこで佐藤さんの車のミラーが何らかの事情──まぁ日中に誰かが接触して、という事になるのでしょうが曲がってしまった。『丁度良い角度』に、です。するとどうなるかはさっき泉が実験して見せた通りです」
突然暗がりに入ったと思ったら、すぐにライトの反射光が目に入る。
その眩しさで運転手は反射的に運転ミスを誘発しやすい状況になる。
そして天候、路面状況が重なり、結果としてスクーターは転倒した。
だがこれは可能性だ。
「……大将。それは俺の車がここに停まっていたから起きた事故だと言うのか?」
「いいえ、佐藤さん。俺が今話した事は全部仮定の話です。当時の条件がどうだったのか、それを確認する術はないんです」
「だけどな。さっき試したライト。あれは確実だろう?」
「角度が合えばですよ?」
「いや、それはそうなんだが……」
「納得出来ない事は承知しています。あまりに偶然が重なりすぎる。仮説なんて言えないものかも知れない。でも事故は起きた。それだけは事実なんです」
死亡事故が起きた。そして目の前には加害者側の人間がいる。原因となりえる人間がいる。
「先月の事故。その時俺はここにいたんです」
二人は驚いた顔をした。
「ここは俺の通勤経路でした。まぁ、その仕事は辞めてしまいましたけどね。でもその時の状況は忘れられません。暗い路地、雨で見通しの悪い、そして滑りやすい路面。大きなブレーキの音、スクーターが転倒した音。そして衝突した音。その後に見た、路面に散らばった破片……」
俺は目を閉じた。
事故当時の情景が、脳裏に浮かび上がった。
「……俺はその時、足が竦んで何も出来ませんでした。我に返ったのは救急車のサイレンの音が鳴ってからです。だから俺も後悔してるんです。何であの時動けなかったのか。佐藤さんより早く通報や救助出来る立場にいながら、俺は何も出来なかった。もしかしたら助かっていたかも知れない人の命。ここ一ヶ月ずっとそれを引きずっていました」
「──十五年前の事故、私もそこに居合わせておりました」
目を開けると、隣に高梨さんが立っていた。
「もっとも私は事故が起こってから駆けつけましたので、厳密には江藤様や佐藤様のお立場とは異なるかも知れません。ですが事故に、人の生死に関わった。その事実は変わりません」
「高梨さん……」
「十五年間。私は城島様より依頼され、事故の原因を追い求めておりました。そして大原様も探しておられた。そして今。それを江藤様は解き明かされました。何か胸のつかえがとれた、そんな思いでございます」
「でも人が死んだ事実は変わらない」
沙樹が俺の隣に立った。
「その事実に大小はない。現場にいようといまいとその重さは変わらない」
「関わっちまったからな」
「そういう事だ」
俺は天を見上げた。
死亡事故には加害者と被害者が存在する。
だが今回と十五年前の事故は、その線引きが曖昧だ。
犯人となり得る人物が確固たる動機を持って事故を起こしたのなら、それは法の下で裁かれるだろうが、今ここに揃っている関係者は、そもそもが赤の他人だ。『死亡事故』という衝撃的な事象で結びついているに過ぎない。
俺は隣に立っている沙樹を見た。
ローズガーデンに蓄積され続ける記録。それを背負う沙樹。人の生死に関わる記録をずっと背負い続けるローズガーデンの管理人。
そう。
背負うのだ。
だが人が一人で背負うにはあまりに重い。
──それなら。
「ここにいる全員が十五年前と先月の事故に関わった。でも全ては可能性でしかない。いくつもの偶然といくつもの悪い条件が重なった。これもまた事実なんです」
「……何が言いたい?」
沙樹が訝しげな表情を作った。
「人の生死だよ。一人で背負うには重すぎる」
「まあな」
俺は一呼吸置いた。
「でもさ」
「何だ」
「みんなで背負えば、ちょっとでも軽くならないか?」
沙樹の目が一瞬見開かれた。俺は初めて沙樹の瞳の奥を覗いた気がした。
「……詭弁だな、それは」
「何でもいいさ。何かを償うとかそんな事はもう出来ない。過去の事だからな。俺たちに出来るのは、その記録を残す事。そして──」
「おっと。それは私が言う言葉だ」
沙樹が俺の言葉を遮り、一歩前に出た。
「過去の過ちを繰り返さない。それが過去に起きた事に対して、私たちが出来る唯一の方法だ」
それは起きた事を忘れない。そして繰り返さない。もっとも簡単でもっとも難しい事だ。
「ローズガーデンはそのためにある。起きてしまった出来事を記録し活かすために」
そう。
ローズガーデンに溜め込まれている記録は死んだ記録ではない。未来に向け生きている情報なのだ。
俺は泉を見た。
どこか安堵している。そんな表情に見えた。




