⑯ これから。
玄関ホールには血の匂いが充満し始めていた。
レヴェリーが目の前で血しぶきをあげて倒れたときは、すぐに意識を失ってしまっていたミネレーリはこんなにも鉄くさく酷い匂いを嗅いだことがなかった。
「リリー、ローザ……?」
手で鼻と口をおさえて、ゆっくりとリリーローザに近付けば、場違いなほど嬉しそうに笑うリリーローザは異様で。
最初は怪我でもしているのかと思ったが、じっくりとリリーローザの体を見ても傷らしいものも、ドレスが破れた個所も見当たらない。
では、これは誰の血なのか。
「おねえさま! おねえさま!」
舌足らずに喋るリリーローザの姿が、なにかとてつもなく恐ろしいものに見えてしまう。
そんな風に思うのはミネレーリだけではないのだろう。ミンティもハンカチで口元と鼻をおおいながら、絶句している。
「おねえさま! 返してください!」
動揺していたせいでリリーローザが、はじめなにを言っているのか、わからなかった。
返す? なにを?
リリーローザに貸してもらったものなどないし、貰ったものも今まで一度としてない。
「カクトス様を返してください!」
その場にいた全員が、無邪気に話す言葉に凍りついた。
いったいなにを言っているんだ、と誰もが思わずにはいられない。
いち早く混乱から回復したミネレーリは、まずはリリーローザの傍まできて、そして納得した。
リリーローザの瞳は、ミネレーリを映しているはずなのに、ミネレーリを見ていない。
心がどこか別の場所へと行っている。
いや、行ってしまったのほうが正しいのかもしれない。
母とは違う正気を失っている目だとわかった途端、ミネレーリは嘆息した。
緊張もなにもかもが、どこかに吹き飛んでしまう。
「リリーローザ、その血はどうしたの? どなたの血なの?」
あえてリリーローザの返してを無視して、ミネレーリは問いかけた。
背後にいたミンティが息をのむ気配がして、一つの走り去る音が聞こえる。
メイドが動けない今、ミンティに動いてもらうしかない。それにこの状況をきちんと説明できるのはミンティしかいないだろう。
さてどこまで対応できるかと思いながらも、視線はリリーローザからそらさない。
リリーローザはミネレーリの言われた意味にキョトンとした顔をした後、自身が着ているドレスを見回した。
「これ? おじ様とアモル様の血よ。はなれていたんだけど、二人がたおれてしまったからそばに駆け寄ったの。そのときについてしまったみたい」
なんでもないことのように紡がれる言葉に、ミネレーリは一瞬その名前を聞き逃してしまいそうになった。
「ぺザンテ子爵と……」
「アモル様よ。おねえさまに求婚なさったかた」
「…………どうして、リーベン家のご子息様が傷を負われたの? それにぺザンテ子爵も」
アモル・リーベンは、あの舞踏会以降伯爵家がほぼ軟禁状態に置いていると、カクトスやシェルツから聞かされていた。
リリーローザに求婚でもされてはかなわないということでの処置だったらしい。
婿入りするにしても、あれは問題外というのが貴族位を継いでいる者の、ほとんどの意見だ。
そう認識されているからこそ、ぺザンテ子爵としか結婚できなかったし、援助の当てもなかったのだろうが、アモルはリリーローザが結婚した辺りから、伯爵家で多々暴れることがあったようだ。
様子もおかしいとガルテン公爵家のメイドの一人が教えてくれた。幼馴染みが、メイドとしてリーベン伯爵家に仕えているらしく、情報はそこから。
「わたくしをたすけるために屋敷をぬけだしてきたんだっておっしゃっていたの。そしたらおじ様とケンカをはじめてしまって」
「……剣を交えることは喧嘩とは言わないわ」
「二人とも、わたくしのためだって。だからこれはいけないことじゃないんだって」
微かに手が震えるのがわかった。
けれど、それは恐れという感情からではない。
ブラインド王国の元王太子に抱いたものと同じもの。
ああ、これが怒りというものなのかとミネレーリは手を握りしめた。
「…………怪我をしたお二人を置いて、ここに来たのね」
怪我などという生易しい表現ではいけないだろうが、今のリリーローザに言っても、わかりはしないだろう。
リリーローザの上半身や顔まで飛んだ血の量から考えても、二人とも瀕死の状態か、あるいはもう……。
「二人ともおきてくれないから、おねえさまのところに行こうと思ったの。カクトス様を返してもらわなきゃって」
「……意味がわからないわ、リリーローザ。お二人が起きないのなら、怪我を負われているのなら、お医者様を呼ぶべきではないの?」
「眠っているだけなのに、どうしてお医者様を呼ぶの?」
わからないと首を傾げるリリーローザが、あまりにも常軌を逸していて、腰を抜かしていなかったメイド達も膝をついて体が震えている。
母とは別の形で壊れそうなリリーローザ。けれど、決別をした人間をもう一度心に留めることなど、ミネレーリはしない。
「……そう。もうなにを言っても無駄ね。では、帰ってちょうだい」
「いじわるをしないでカクトス様を返して! カクトス様を返してくれるまでは帰らない!」
「カクトス様はものではないわ。ましてや貴方のものではない。言い方に気を付けなさい」
「わたくしのものよ! だってカクトス様はわたくしの恋人なんですもの!」
頭がおかしい以前に狂っている。
ここにいる使用人達の考えていることが、手に取るようにわかってしまう。
ああ、本当に面倒。
「妄想もそこまでくると大変なものね。リリーローザ、貴方はぺザンテ子爵夫人でカクトス様は私の婚約者。嘘はつかないほうがいいわ」
「おじ様との結婚はぎそうだもの。おねえさまのこんやくしゃ? おねえさまこそわたくしにカクトス様をとられたからってうそはやめて! わたくしにはカクトス様との御子もおなかにいるんだから!」
「子ども……。ぺザンテ子爵は心以外は手にいれたかったのかしら?」
リリーローザが妊娠しているというなら、それはまず間違いなくぺザンテ子爵の子供だ。
だが、このリリーローザの様子では夜の営みの記憶はないようだから、睡眠薬でも飲ませていたのだろう。
リリーローザに嘘をつきながら、いつかは自分に気持ちを向けさせようと色々としていたのだろうが、そのやり方が憐れで仕方がない。
黙り込んだミネレーリに、勝ったと思ったのだろう。リリーローザは勝ち誇った笑みを見せる。
「だからはやくカクトス様を返して!」
「ごめんなさい、この子を外に出してくれないかしら。大丈夫、頭がおかしいだけで力はないわ」
座り込んでいた男性使用人に声をかければ、逡巡した後、頷いて立ち上がる。
それでやっと思考が回復したのか、執事も駆け寄ってリリーローザの肩を掴んだ。
「やめて! はなして! おねえさま! カクトス様をとられたからって……!」
「黙りなさい」
無機質で、そこまで大きな声ではない。けれど、人を従わせるなにかを持つ声でミネレーリはぴしゃりと言い放った。
「ここはガルテン公爵家の屋敷です。許可もなく子爵夫人が自由に出入りできる場所ではないわ。それに先程からの酷い妄言の数々、気分が悪くなるわ」
鼻白んだリリーローザに、ミネレーリは言葉を紡がせずに畳み掛ける。
「カクトス様は私の婚約者。これは国にも認められたものよ。リリーローザ、貴方のお腹の中の子はぺザンテ子爵の子供よ」
「ちがうわ! カクトス様の御子よ!」
「証拠は?」
「え?」
「そのお腹の子がカクトス様の御子だという証拠よ。そこまでいうのならあるんでしょう?」
「おじ様が言っていたわ! まいばん、わたくしがねしずまった時間に会いにきてくれているって!」
ミネレーリはたまらず吹き出していた。
今までの淑やかな振る舞いも忘れて笑い続ける。
本当に本当に、愚かな子。
「カクトス様がどうしてリリーローザに会いに子爵家まで行かなければいけないの? 恋人だから? カクトス様に愛を囁かれたことはある? 優しくて、それでいて熱い言葉をいただいたことがある? ないでしょう? 貴方の妄想の中では幾らでも愛を囁いてくれるかもしれないけれど、本当のカクトス様の愛は想像以上よ。私は知っているわ。婚約者ですもの。どういう風に愛を囁くか教えてさしあげましょうか? でも、ごめんなさいね。私そこまで優しくはないの。カクトス様のようには」
丁寧に、けれど強い口調で言えば、みるみるうちにリリーローザの顔色が青くなってゆく。
妄想など、リリーローザにとっては自分を守るためのものだ。
本当は心のどこかでは気付いていたのだ。
カクトスに好かれていないと。寝ている間にぺザンテ子爵に抱かれていると。
でも、それを認めることを心が拒否して、こんな奇行に走った。
可哀相だとは微塵も思わない。
そうなったのは間違いなくリリーローザの責任で、ミネレーリには一切関わりのないことだから。
「うそよ!」
執事の手を強引に振り払い、リリーローザの両手はミネレーリの首を絞めつけた。
どこにこんな力があるのかと思うほどの力と痛みが襲ってくる。
「ぐっ……!」
「うそよ! うそよ! うそよ! うそよ! うそよ! うそ! うそ! うそ! うそ! うそ! うそ! うそ! うそ! うそ! うそ! うそ! ぜんぶぜんぶうそ!」
執事やメイド達がリリーローザを引き剥がそうとしているのが、霞む視界に映る。
ミネレーリはリリーローザの両手を掴んで、睨みつけた。
まだ燻る怒りがおさまらない。
「いい加減にっ」
「ミネレーリ嬢! やめろ!」
ここにいるはずのない人物の声が聞こえ、ミネレーリの圧迫されていた首からリリーローザの手がはずれたことはわかった。
だが、理解しても急に正常な息遣いができるはずもなく、大きく咽てしまう。
そんなミネレーリの背を優しく擦り、ふわりと抱き締めてくれる腕。
「カク、トス様っ」
「もう大丈夫だから」
ミネレーリに優しく微笑みかけてくれるのは、間違いなくカクトスだ。
けれど、どうしてガルテン公爵家にカクトスが?
と、奇声が上がり、声のほうに振り向けばリリーローザが数人の兵士達に取り押さえられていた。
その傍には疲れた様子のミンティとシェルツがいる。
ミンティは何かを兵士達に告げていたが、しばらくしてミネレーリのほうにくる。
そうしてカクトスに抱き締められているミネレーリを強引に自分のほうへと引き寄せた。
「ミネレーリ、大丈夫!? 無事!?」
大丈夫だと言いたいが、激しく揺すられて声がだせない。
「俺の大事な奥方、そんなことをしていたらミネレーリ嬢が喋れないよ」
「……大丈夫よ。それよりミンティに激しくゆすられたほうが気持ち悪くなってきたわ」
「ああ、よかった! いつもの無愛想のミネレーリだわ!」
シェルツのおかげでミンティから解放されたミネレーリの放った皮肉は、同じく皮肉で返された。
命の危機もあった場面での、この物言い。
呆れているミネレーリの傍で、置いてけぼりをくらったカクトスは面白くなさそうな顔をした。
「ガルテン公爵夫人、婚約者同士の大切な一時を邪魔しないでほしいな」
「あら、ごめんなさい。女に負ける腕力とは思わなかったわ」
バチバチとカクトスとミンティの間に火花が飛び散っているように見える。
やはりこの二人の相性はよくないらしい。
シェルツは放置の方向なのか、ミネレーリの傍まできて、安堵の息をはいた。
「視察の帰りで、屋敷の近くにいて本当によかったよ。ガルテン殿とはつい先程会ったばかりなんだ。ミネレーリ嬢に会いに来ようとしていたみたいでね。そこにミンティの知らせで駆け付けた兵達の姿を見て、慌てて帰ってきたんだよ」
「カクトス様っ!」
シェルツの声に重なって甲高い声が邸に響く。
まだそんな力があるのかと、首をさすりながらミネレーリは声のほうに視線を向ける。
そこには兵達に取り押さえられながらも必死にカクトスの名を呼ぶリリーローザがいた。
「カクトス様! おねえさまがひどいのです! わたくしとカクトス様をひきはなそうとするのです! わたくしはカクトス様の御子をやどしているのに!」
さすがにリリーローザのその言葉に兵達は動揺したのか、目を交わし合っていたが、それで掴んでいる力を弱めるほど馬鹿でもない。
ミンティは憤怒を通り越して呆れているようだし、シェルツもしかり。
だが、カクトスだけはそうではなかった。
ゆっくりと立ち上がり、リリーローザの元へと歩を進める。
リリーローザは喜色を浮かべたが、どうしてあの零度を通り越しそうな雰囲気のカクトスにそれができるのか不思議だ。
現にリリーローザを取り押さえている兵達はカクトスの冷気に当てられて、固まったり青ざめたりしている。
ああ、表情もひどいことになっているんだろうな。
ミネレーリには後ろ姿だからわからないが、これで終わるとため息が零れた。
最後まで愚かな子。
「……僕の子ども? たちの悪い冗談はやめてくれないか」
「カクトス、さま?」
「僕の子どもを産むのはミネレーリ嬢だけだよ。当たり前だろう」
「そんなっ! この御子はカクトス様の御子です! カクトスさまはおねえさまにだまされているんです!」
「僕は君に指一本、そういう意味で触れたことは一度もないよ。ダンスの相手はしたことがあるけれど、あれは社交だ。その子どもはぺザンテ子爵の子だろう。そんな嘘は子どもに可哀相だよ」
「ちがいます! この子はっ」
「違わない。この際だからはっきりと言っておくよ。僕は君が大嫌いなんだ。ミネレーリ嬢の妹だというのに君は無知にもほどがありすぎる。そんな君を僕が好きになるわけないだろう」
一刀両断の拒絶にリリーローザは唇を戦慄かせて、もう声すら出せないようだ。
顔は絶望に染まっている。
瞳から溢れる涙を気にも止めずに、頭を掻き毟る。
「……リリーローザ、貴方は本当に…………愚かね」
大きくもなく、弱くもないミネレーリの声は一瞬だけ静まった場によく聞こえて。
リリーローザの発狂した声が、後を追うように続いた。
「聞いたかな? リリーローザ嬢のこと」
麗らかな日差しが気持ちよく、窓を開けながら室内でお茶を飲んでいると、ミネレーリの目の前に座っていたカクトスが聞いてきた。
「ええ。すべて聞きましたわ」
持っていたカップを置いて、ミネレーリは窓の外の咲き乱れる花々を見ながら、苦笑する。
「いつから、あんなに愚かになったのか。一緒に暮らしていたのにわかりません」
ミネレーリの胸にあるのは悲しみでも憐みでもない。ただ疑問だけ。
あの後、取り押さえられたリリーローザは連れていかれ、どんな状況だったのかメイディアが珍しく歯切れ悪く教えてくれた。
やはりぺザンテ子爵とアモルが子爵邸でリリーローザをかけて決闘し合い、互いに命をおとしていた。
現状の部屋は惨憺たる有様だったらしく、調べていた兵達も苦い顔をしていたらしい。
リリーローザはヤヌアール家に戻されたが、気がふれていて、介護が必要な状態で、子どもも間もなく流産した。
ぺザンテ子爵が死んだことで、妻であるリリーローザにすべての財産が渡り、ヤヌアール家は金銭的には問題ないようだが、
「貴族としては致命的です」
メイディアが言っていた通り、ヤヌアール家は貴族でありながらも、現在は貴族達のほとんどから煙たがられる存在となってしまった。
夜会などにも呼ばれることはなくなり、いつか名ばかりの貴族になってしまうだろうとメイディアが先を見通しながら話していた。
『お姉様!』
愛していた。家族として。
なのに。
『ごめんね』
母も愚かだったのに、同じように恋に狂った人間だったのに。
リリーローザは切り捨てられても、母はまだミネレーリの中にいる。
わからない答えを探しても仕方がないのに、つい探してしまうときがあって。
「まあ、もう関わり合いになることはないから、この話は終わりにしようか。それにしても母上が君の評判を聞きつけて、早く結婚してほしいってせがむんだよ」
「評判?」
気をきかせて話をそらしてくれたカクトスに相槌を打とうとして、ミネレーリは首を傾げる。
「リリーローザ嬢が屋敷に来たときの怒りようが凄かったらしいね。ガルテン家のメイド達があんな恐ろしいミネレーリ嬢は初めて見たって言っていたよ。相手に話す隙を与えないなんて。絶対にミネレーリ嬢は怒らせてはいけないって共通の認識になったみたいだよ。ああいう奥方だったら家に安心して仕えられるって。それを母上が耳にはさんでしまって」
「まず色々と訂正させていただけないでしょうか」
「テーヴィア姫も是非、ミネレーリに指導をうけたいと言っているよ」
一人歩きしている噂はもうどうにもならない。
ミネレーリは嫌というほど、それを知っている。
テーヴィアからの呼び出しがあったら、どうやって逃げようかと真剣に悩んでいると
「ミネレーリ嬢、いつか君にずっと一緒にいたいと思わせる夫になるよ」
先は長いねと笑うカクトスに、ミネレーリは一呼吸おいて、微笑んだ。
これから先、色々あるけれど、カクトスが母のような存在にいつかなってくれたら。
「死ぬまでには思わせてくださいね、カクトス様」
大丈夫かもしれないとミネレーリは笑う。
気は長すぎると言われるミネレーリだから、死ぬ直前まで待てると思えたから。




