「小鳥遊雛はもういない」
~~~新堂新~~~
屋上への急な階段に足をかけた。
「今日は……疲れた……っ」
一段ごとに膝が震えた。
「腰も痛えし……っ」
一段ごとに腰が痛んだ。
「全身……っ、傷だらけだし……っ」
体中が軋み、悲鳴を上げている。
帰ろうって、逃げろって、何かが叫んでる。
だけど気力を振り絞って手摺りに掴まった。
「でも………………行かなきゃだろ……!」
うがあっ、とうなり声を上げて最後の段に足をかけた。
――今日じゃなくてもいいんじゃないか?
心の中の誰かが言う。
――明日になれば合宿も終わり。家に帰って落ち着いて、それからでもいいだろう。
心の中の誰かが言う。
――そもそもこんなことをして何になる? 自己満足以外の何ものでもない。
心の中の誰かが言う。
――放っとけばいいだろう。聞こえないふりでもしとけ。
心の中の誰かが言う。
――そのほうが楽しいぞ? あの女とふたり、両手に花だ。
心の中の誰かが言う。
――かっこつけんな。ぬるま湯の中で生きろ。まどろみの中で夢を見ていろ。無理に目を覚ます必要がどこにある。冷たい風の中に出て行く必要がどこにある。みんな、そうやって生きてるんだぜ?
「……黙れよ」
ひとりごちていた。
「……黙ってろよ」
周囲には誰もいない。目の前にはただ、屋上への扉のみがある。
「……行かなきゃいけないんだよ」
優しい言葉に耳を傾けないように、悪魔の囁きに唆されないように、あえて声に出した。力をこめた。
「……俺は知ってる。俺は弱い人間だ。弱くて、ずるくて、卑しくて、浅ましい、人間の屑みたいなやつだ。だから知ってた。知ってたのに何もしなかった。だからこんな状況を生み出しちまった。あいつは6年ぶりに会ったのに昔からいたみたいに気安く接してくれて、隣の部屋に移り住んできて、手料理を振る舞ってくれて、困ったことがあったら何くれとなく世話してくれて。トワコさんを……受け入れてくれて……っ」
呪文みたいにつぶやいた。
「ずっと待ってたって……? あなたの彼女のままだって……?」
冗談だろ。そんなの呪いじゃないか。俺がトワコさんにかけたのと、まるっきり同じじゃないか。
「もうダメだ。これ以上はダメだ。待たせすぎた。縛りすぎた。俺は彼女を、解放してあげなくちゃならない――」
だから一刻も早く行かなければならない。彼女の元へ。
安定も安寧もかなぐり捨てて、かつて愛した彼女の元へ。
「行くぞ……俺っ」
ぎゅっとドアノブを握った。
「行け……っ」
回して体重をかけた。
「お……っと……」
つんのめるように屋上へ歩み出た。夜の風が頬を撫でた。
月が出ていた。何も遮るものはなかった。それはむき出しでたたずみ、下界を照らしていた。
彼女がそこにいた。月の光を浴びながら、じっと俺を待っていた。
シルクのような髪の毛が風になびいていた。
少女のように清廉な顔立ちに、微かな憂いが香った。
どこか寂しげに、儚げに、彼女は笑った。
「――お帰り、新くん」
あの日、セーラー服を着て学校の屋上に立っていた雛が。
いま、白いワンピースを着て別荘の屋上に立っている雛が。
二重写しに見えた。
だから俺は両方の雛に向けて、言葉を贈った。
「……ただいま、雛」
唾を呑みこむ。
拳を握る。
――発する。
「そして……さよならだ」
~~~小鳥遊雛~~~
裕福な家に生まれ育った。
恵まれた環境で育てられた。
有形無形、多くの愛情がわたしには注がれた。
怒涛のように、奔流のように。
みんなの望むままに、わたしは生きてきた。
みんなの理想のままに、わたしは生きてきた。
怒らない、嘲笑わない。誰にだって優しく、いつもニコニコ他人の幸せだけを考えてる女の子。ガンジーもテレサもかくやという女の子。
その子の名前は小鳥遊雛。
そんな自分が嫌いだった。
そんな自分が、本当は大嫌いだった。
新くんと出会ったのは、小学校の入学式の日のことだ。
渡り廊下との境目で転んで膝から血を流して泣いていたわたしに、しわくちゃのハンカチを渡してくれた。
落ち着かせようと、泣き止ませようと笑ってくれた。
優しく柔らかに、包み込むように笑ってくれた。
大丈夫だよって。
心配するなよって。
俺がついてるからって。
それが、初め――。
紅子と勝くんも含めた4人で遊ぶようになってから、わたしはすぐに新くんの好意に気づいた。
ほんのりささやかな好意。
それまでわたしが注がれてきたものに比べたら、玩具のジョウロで注ぐようなわずかな好意。
でもそれが良かった。
でもそれが嬉しかった。
押しつけがましくない彼の気づかいが、2ミリ進んで1ミリ下がるような距離感が。
――もっと来て、頑張って。
――まっすぐわたしのところへ来て。
赤ちゃんのハイハイを応援するみたいに、心の中で応援してた。
2年になった、3年になった、4年、5年、やがて卒業。
中学生でも一緒になれた。高校も同じ所へ進学した。
その頃には、わたしたちの距離は肌の触れ合うところまで迫っていた。
屋上に呼ばれ告白された時は、天にも昇るような気持ちだった。
拳を握り締めて返事を待つ新くん。
答えの代わりにわたしは抱き付いた。
戸惑ったような声、やぶけそうなほど激しい心臓の鼓動、燃えそうなほど熱い体、男の子の声、汗、匂い。全部、わたしのもの……
あの時と同じ、汗みずくな格好で、だけど新くんはさよならを告げてきた。
その口は、あの時みたいに「好きだ、つき合ってくれ」とは言ってくれなかった。
ただ悲しげに歪んでいた。
「わたしじゃ……ダメなの?」
「………………ダメなんだ」
血を吐くようにしゃがれた声で、新くんは答えた。
「こんなに……好きなのに……」
「……………………知ってる」
新くんは拳を震わせた。
「ずっと……待ってたんだよ?」
「…………………………ごめん」
「わた……しは……っ」
呼吸が乱れた。
「こん……なに……新くんのことが……好き……なのに……っ」
ギシリと、心が軋んだ。
「ごめ――」
「初めてなの……!」
わたしは叫んだ。
「昔から、自分が嫌いだった! 蝶よ花よと育てられて! 望まれるままに良家のお嬢様を演じて生きてきた! みんなが褒めてくれた! 綺麗だねって! 可愛いねって! いい子だねって! でも本当は嫌だった! わたしは自由な鳥になりたかった! 好きなように羽ばたきたかった! 籠の中はもうたくさん! ――でも、あなたに出会った……!」
わたしの剣幕に、新くんはびっくりしてた。
「これでいいんだと思った! だってあなたがわたしのことを好きになってくれたから! 愛してくれたから! いい子の小鳥遊雛を愛してくれたから!」
痛む胸をかきむしった。
胸のボタンが、いくつかはじけ飛んだ。
「初めて認められた気がしたの! 初めて自分という存在を肯定できたの! わたしはこれでいいんだって! 籠の中にいていいんだって! そう思ったの! このままでいれば、あなたはわたしを愛してくれるんだって! これが……新堂新の理想の女の子なんだって!」
「…………ひ……な……?」
新くんは呆然としている。
「そう思えばすべてが許せた! 辛いときに笑わなきゃいけなくても! 苦しいときに笑わなきゃいけなくても! 悲しいときに笑わなきゃいけなくても! あなたさえいれば、最後にすべて報われる! そう思えたから!」
なのに――
「なんで、違う女の子を見ちゃうの⁉ なんで、違う女の子を好きになっちゃうの⁉ あなたが好きなのは、このわたしじゃないの⁉ いつから……わたしは……!」
もう、立っていられない。
「間違……って……!」
よろめき、膝をついた。
コンクリートの感触が膝にあった。
ざらついたものが、皮膚を破いた。
わずかに血が出た。
「ねえ、新くん! ねえ、新くん! ねえ、新くん!」
繰り返し、わたしは彼の名を呼ぶ。
「ねえ、新くん! ねえ、新くん! ねえ、新くん!」
愛しい人の名を呼ぶ。
「好きよ! 大好きよ! 愛してる! あなたのためならなんでも出来る! 犯罪を犯せと言うならそうする! どこへだってついて行ける! 月旅行だって行ってみせる! 違うタイプの女の子になれと言うならそうする! ……プロレスだって出来るようになるから! だからお願い! わたしを選んで⁉ 好きって言って⁉ ねえ、新くん――」
「俺は……俺には……っ」
新くんは強くかぶりを振った。
「好きなコが、いるんだ――」
「わたしを選んで――」
言葉がかぶった。
互いの言いたいことが交錯した。
「あ、あ、あ………………っ」
わたしは頭を抱えた。果てしない頭痛が襲ってきた。
「あう……くあ……う、くぅ……っ」
絶望が、身を苛んだ。
トワコさんだ。
トワコさんが、新くんの中にいる。
トワコさんが、わたしたちの思い出を上書きしていく。
わたしと新くんの間にあったもの。育んできたもの。わたしのすべて。
それを、端から塗り替えていく。
トワコさんの色で、すべてが染められてしまう。
わたしの新くんが、消されていく。
「……おまえの気持ちは嬉しいよ」
ぽつりと、新くんはつぶやいた。
「昔の俺だったら、天にも昇るような気持ちで喜んでたと思う。雪に喜ぶ犬みたいにそこら中を転げまわってたと思う。……でも、もう違うんだ。人は変わるんだ。時間が人を変えるんだ」
新くんが東京に行ってからの間も、わたしは地元に残っていた。いつか戻って来てくれると信じて、待ち続けた。
ひさしぶりに出会った新くんは、ちょっぴり大人になってたけど、しっかりあの頃の面影を残してた。そこにわたしは安心してた。油断してた。
また以前みたいなふたりになれる。
あの時間が戻って来た。
そう思った。
「……正直、最初は戸惑ってた。自分の想像が実体を伴って現れた。恐ろしくて、恥ずかしかった。赤面した。身悶えした。見ていられなかった」
こっちに戻って来てからの新くんは、急速に変わり始めた。
トワコさんと出会って、教職について、多くの生徒や先生と触れ合ううちに。
日常の移ろいや、のびゆく子ども達の姿が、新くんをも巻き込んだ。
「でもすぐに慣れた。彼女は俺の中にねぐらを作って住み着いた。そこからはあっという間だ。美人で、料理が上手くて、運動神経抜群で、俺のために何でもしてくれる。命がけで戦ったことすら、一度や二度じゃない」
マリーさんに桃華、霧ちゃん。プロレスラーや葬儀屋とも戦った。傷つき、血まみれになりながらも彼女は勝利した。新くんの元に戻って来た。
「……いつの間にか、目が離せなくなっていたんだ。IFなのに、彼女は変わっていくんだ。IFなのに、日々成長していくんだ。学校にも打ち解け、友達も出来、部活動だってする。今や、自分の意志で戦うことだって出来るんだ。今や、自分の意志で人を好きになることすら出来るんだ。彼女はすでに、IFの枠を超えた存在だ」
「……そんな彼女を、好きになっちまった」
それがまるで病気のように、新くんは言う。
「……ひいき目なんじゃないの?」
もごりと、わたしの中で何かが蠢いた。
「そう思いたいからそう見えるんじゃないの? トワコさんに対して感じている引け目を減らそうと、思い込んでるだけなんじゃないの? 針小棒大に受け止めてるだけなんじゃないの? 本当は、彼女は何も変わっていないんじゃないの? すべて全部最初から、新くんの思うがまま……」
――わたしみたいに。
「責任を感じてるのよね? 彼女を創ったことに負い目を感じているのよね? 自分が最後まで面倒見なきゃって感じているから、そう思おうとしているだけなんじゃないの? 好きだと思いこんでるだけなんじゃないの?」
――わたしだって、あなたが創ったのに。
「義務から生まれた愛情なんて、偽物じゃない。創られた関係なんて、嘘っぱちじゃない。新くんが戸惑ってたIFの存在そのものじゃない。 ――そんな形で結ばれたって、幸せになれるわけがないじゃない。トワコさんにはこれからがあるのよ? 新くんがいなくなったあとの果て無い永劫の時を、嘘を抱いて生きさせるっていうの? そんなの、残酷だよ……」
「……っ」
妬みが、嫉みが、言葉のナイフとなって新くんに突き刺さった。
新くんは泣きそうな顔をしている。
血が出そうなほどに歯を食い縛っている。
核心をつかれて苦しんでいる。
わたしの言葉がそうさせた。
わたしが新くんを、苦しめた――
「………………雛?」
新くんが小さく息を呑んだ。
いつの間にか、わたしの頬を、涙がひと筋流れてた。
「なんで……わたし……?」
拭ったけど、あとからあとから溢れてきた。
溢れて濡れて、止まらなかった。
辛くて苦しくて悲しくて、たまらなかった。
でも笑わなきゃ。
こんな時こそ笑わなきゃ。
新くんに嫌われちゃう……。
でも笑えなかった。
どうしても、笑みを形作ることが出来ない。
醜く歪んだ表情にしかならない。
「雛……」
見かねた新くんが、すっとハンカチを差し出してきた。
今日一日動き回ったせいで、すでにしわくちゃのハンカチだ。
走り転げ、がなり叫んだ一日が染み込んでいる。今の新くんそのものが焚きしめられている。
新くんの優しさそのものが詰まっている。
「…………っ」
――その瞬間、過去の新くんと現在の新くんがつながった。
――その瞬間、わたしの中のそいつが断末魔の悲鳴を上げた。
いい子の仮面を被った小鳥遊雛。創られた小鳥遊雛。
そいつが、太陽の光に浄化される吸血鬼みたいに焼け焦げた。
イノセントな新くんの善意の前に、まるでIFが滅びる時のように、散り散りに消え去った。
「ずっ……るいよ……」
声が震えた。
鼻の奥にツンとくるものがあった。
口の中に入り込んだ涙がしょっぱかった。
「ごめん……」
「謝ん……ないでよ……っ」
終わりを知ったのは、いつのことだろう。
今日か昨日か、あるいはもっとずっと昔からか。
新くんの目線の先にあるものが何かを知っていた。
知りながらもしつこくしがみついてた。
恋人だって言い張った。
きっちり別れるって言われてないからって。
まだ大丈夫だって。逆転のチャンスはあるって思いこんだ。
でも、差は開くばかりだった。
こんなに近くにいるのに、手を伸ばせば届く距離にいるのに、今や地球と月ぐらいに遠く感じる。
「新くん……」
ハンカチを受け取って顔を上げた。
「……それでも、トワコさんのことが好きなのね?」
「うん」
新くんは迷わずうなずいた。
うなずいて、くれた。
「――大好きだ」
「…………うん。……うん」
わたしはその言葉の意味を咀嚼するようにうなずいた。
決して目は逸らさなかった。涙であふれた視界の中に、新くんの顔があった。
まっすぐ、真摯な瞳でわたしを見てた。
わたしも負けじと見返した。
この瞬間を忘れまいと、心に刻んだ。
新くんはもう逃げない。
新くんはもう曲げない。
もう、わたしでは追いつけない。
「新くん……」
崩れそうになる背を気力で支えた。
「………………バイ……バイ」
消え入りそうな声でつぶやいた。
――それがわたしの、精いっぱい。
ひとり屋上に座り込んでめそめそしていたら、下から紅子が登って来た。
「何よ。あんたこんなとこにいたの?」
知ってたくせに、わざと聞いてきた。
「……うん」
「あらら、景気悪い顔してるわねえ。幸せいっぱいの小鳥遊家のお嬢様が。あんたを泣かせるほど悲しいことが、この世に存在するとは意外だねえ」
「……あるもん」
ぶうたれるわたしの隣に、「よっこらせ」とお婆ちゃんみたいな声を出しながら紅子が座った。
「へえ、そりゃたいしたもんだ。あんたでそれなら、あたしら庶民は号泣しなきゃいけないような大変な事なんだろうねえ」
「……また嫌味言うぅ」
ぶうぶう言うわたしの背中を、紅子は平手で叩いた。
「ほら、言ってみな? いつもみたいに聞いてやるから」
「……紅子?」
目をぱちくりさせていると、紅子は肩を竦めて笑った。
「あたしらはいつだってそうだっただろ? あんたが泣いて、あたしが慰めて、それの繰り返し。大人になったって変わらないものが、世の中にはあるんだよ。それでいいことだってあるんだ」
「――紅子ぉ……っ」
涙を溢れさせながら抱き付くと、紅子は優しく受け止めてくれた。
「重いってーの」なんて文句を言いながら、でも決して避けようとはしなかった。
――人は変わる。時間が人を変える。
それが真実なら、いつかわたしと紅子の関係も変わるのだろうか。
いつかどちらかが誰かを好きになって、嫁いで、子供を産んで、住むところも離れ離れになって。
心までも、離れることがあるのだろうか。
それはわからない。
でも今、この瞬間だけは、甘えていようと思う。
親友の肩に顔を埋めていようと思う。
また重いって叱られるかもしれないけど……でもちょっと、今だけは。
せめて、ひとりで羽ばたけるようになるまでは。
泣かせて、お願い……。




