第七話
「あなたのおかげで世界は救われた。……竜殺しの英雄、マティアス・レドフォード」
まだ幼い彼女が美しい紫紺の瞳に涙を湛え、慈愛に溢れた笑みでそう言った瞬間、俺の心は畏怖で満たされた。とんでもない現場に居合わせているのだという事実に、胸が震えた。
――ああ、俺は今伝説を目にしているのだと。
王国騎士団に入団したのは十七歳の時だった。
それから八年。
今の俺の所属はブラッド・レドフォード隊長率いる一番隊だ。隊は五番隊まで存在し、一番隊は主に城内の警邏、および王族の警護が職務となる。
この隊に所属する者には貴族の子息が多く、隊長も代々有力な貴族の子息が務めている。そして歴代の隊長すべてとはいわないまでも、隊長としての実力に乏しい者でもその座に就くことが出来るため、別の隊からは「お飾り隊」などと不名誉な呼ばれ方をされている隊でもあった。
だが現在の隊長であるブラッド隊長のおかげで、その不名誉な二つ名も少しずつだが払拭されつつあった。ブラッド隊長はレドフォード公爵家の嫡男でありながら、誰もが認める剛腕の持ち主だったのだ。
そして現在、そのブラッド隊長の従弟であり、この国の第三王子であるマティアス殿下がこの一番隊に所属していることは、世間ではあまり知られていない。
知っているのは一番隊の者と、各隊の隊長格くらいだろう。あるいは薄々感づいている者もいるにはいたが、皆王家とレドフォード公爵家を恐れ口を噤んだ。
殿下が新兵として騎士団に入って来たのは二年前。成人してすぐのことだった。
王子として生まれ何不自由なく青春を謳歌することを許されているはずの殿下が何故騎士団に入団し、臣下に混じり汗と泥まみれにならなければならなかったのか。それには深い訳があった。
マティアス殿下は曰くつきの殿下であらせられる。殿下が生まれた際、王家専属の占者により不名誉な託宣を受けたことは多くの者が知っている。
『竜殺し』
それがマティアス殿下に下された非情な運命だった。
竜とは王のことを指している。
もしこの『竜』という言葉がこの国の王を指すのなら、マティアス殿下は未来において、父王か、あるいは第一王子である兄殿下を弑すという意味になってしまう。
平和なこの時代、万一にそれが他国の王を指しているとしても、その不穏な名が歓迎されるわけもない。殿下の受けた託宣は、瞬く間に貴族中に知れ渡ってしまった。
だが陛下は殿下の話が広まるとすぐにかん口令を敷かれた。今後は決して、この件を口に出してはならないとして。
その時の陛下は大層お怒りだったらしいと、城に勤める高官である俺の父親が言っていた。
殿下の受けた託宣は、過酷なものだ。
ただ唯一の救いは、当の王と兄殿下たちがその託宣を聞いてもなお、マティアス殿下のことを大切に想っていた点だろう。陰で囁かれる殿下への中傷に、私人として怒りを顕わにするほどに。
けれど周囲の者がそれで静まるかといえば、残念なことにそうはならなかった。いくらかん口令が敷かれても、殿下を危険視する者たちまで排除することはできない。
確かに王家を護ろうとするならば、将来内乱の可能性があるという高名な占者の託宣は懸念せざるを得ないものなのだろう。
マティアス殿下にもそれはわかっていた。
だから殿下は無用な争いを避けるため、成人まであまり表に出ることなく、城の奥でひっそり生活なさっていたのだと俺は聞いていた。
しかし実際のところは城ではなくブラッド隊長のご生家であるレドフォード公爵邸にお住まいになっていたらしい。
そしてレドフォードの姓を名乗り、王子であることを隠し、マティアス殿下は騎士団に入団したのだ。
殿下がレドフォードと名乗り騎士団へと入団したことを、ある者は安堵し、ある者は危惧した。
俺としては何故マティアス殿下が自ら託宣の真贋を裏付けるような行動をお取りになるのか理解し難かったが、ブラッド隊長に殿下はいずれ臣籍に下る予定だと聞かされ、そして殿下とともに行動するうちに何となくだがその理由がわかってきた。
殿下は王子であらせられるが、普通の青年でもあるのだ。
王族という身分に生まれた相手にそんなことを言うのは甘いのかもしれない。けれどマティアス殿下は人生に王族としての恩恵をあまり受けてはこなかった。少なくとも俺はそう思う。
殿下にだって己の人生を生きる権利はある。王子としての権利を奪われたなら、どこで何をしようと殿下の勝手ではないか。
託宣を恐れて生きて行くのなら、騎士団になど入らない。暴力による謀反の可能性を疑われてしまうのだから。けれど、誰に何を言われようとも、それでも己の望む道を進む殿下のことを、俺は強い方なのだと思った。
マティアス殿下が入団した時、騎士団の者は殿下のことをブラッド隊長の親類という紹介をされた。その後、殿下の配属が一番隊に決まった時に、一番隊の者にだけその事実が知らされたのだ。もし知らずに殿下に何かあれば、隊の者が処罰されてしまうからだ。
その秘密は本来厳守されるべきものであったが、すべての者の唇を縫うことが出来るわけでもない。それに、城にいたころのマティアス殿下に拝見したことのある者だって少なくない。マティアス殿下が騎士団にいるのは、いわば公然の秘密というものだったのだ。
しかし王子という身分がなくとも、マティアス殿下は大変目立つお方だった。
マティアス殿下は伝説の美姫もかくやと言われるほどの美貌を持っていた。入隊式で見たまだ幼さの残る性差を越えた危うい魅力を湛えたマティアス殿下に、その場にいた誰もが目を奪われた。
それから二年経ち、背も、体躯も騎士のそれらしく成長した現在のマティアス殿下は、城で働く女性たちの熱い視線をすべて奪ってもなおあまりあるほどの美丈夫へと変化を遂げていた。
そしてそのことが一層、マティアス殿下に対する下卑た男どもの妬みと誹りを誘発していたのだ。
ただ、幸いにもマティアス殿下が騎士としての才能を有していたことで、それらの声を抑えることが出来ていた。
マティアス殿下は、優秀だった。すぐにブラッド隊長を思わせる才能を発揮した。そしてその才能で、挑んでくる者を拳で黙らせた。外見と口調とは裏腹に、マティアス殿下は非常に好戦的な方でもあったのだ。
入団したての頃、マティアス殿下の美貌を女のようとからかった無謀な騎士は、その場で昏倒させられていた。その後の騎士たちの大乱闘を沈めるために各隊の隊長が出張る羽目になったのも、今ではいい思い出だ。
一旦拳で語り合えば、男などすぐに腹の内を見せ合うようになる。
今ではマティアス殿下は騎士団の他の団員と何も変わらぬ、俺たち一番隊の大切な仲間となっている。
そして運命のあの日。
青い月の満月の夜。俺はその日城内の夜警の番についていた。
俺の持ち場は城門からはわずかに遠い場所だった。いつも通り周囲に目を光らせつつも代わり映えのない時間を過ごしていた時に、指笛が聞こえた。
夜警で使われる場合の、なおかつこの音程は、何事かあり当番の交代を要請している時の音だ。ただ場所が遠かったため俺が駆け付けるまでもないと判断した。一斉に持ち場を離れるわけにはいかない。こういう場合は指笛に一番近い者が駆け付け、それで間に合えばもう一度指笛を吹く手はずになっている。
もし終了の指笛が鳴らなければ、すぐ近くで夜警に当たっている者に断り、今度こそ駆けつけようとは思っていたが、あいにくとそのあとすぐに指笛は鳴らされた。
それから半刻近く経ったとき、騎士の一人がこちらに向かって走って来た。一番隊の仲間であるオーランドだった。何かあったのかと訝しむ俺に、オーランドはブラッド隊長が呼んでいると伝えてきた。俺はすぐにブラッド隊長のいる城門へと駆けつけた。
「エイベル。悪いが俺に付いてきてくれ。……何か嫌な予感がする」
話を聞けば、城外へ出るというある少女のために、マティアス殿下が付いて行ったらしい。
その話を聞いたとき、俺は純粋に驚いた。
それはマティアス殿下にしては珍しい行動だった。殿下はその美麗な容貌ゆえ女性に人気が高かったが、そのために面倒な事態にも巻き込まれやすい。自衛のためによく知らない女性とは、たとえそれが子どもといえども、深くは関わらないというのがマティアス殿下の信条だったはずだ。マティアス殿下の罪深い美貌には、年端も行かない子どもでさえ惑わされる時があるのだ。
それが殿下自ら付いて行くと名乗りを上げたらしい。俺は一瞬何かの天変地異の前触れかと身構えた。ブラッド隊長の言葉を借りるなら、「何か嫌な予感がする」だ。
そしてこの時の俺の直感はあながち間違ってはいなかった。
マティアス殿下を追い仲間とともに森へと入ることになった俺は、ブラッド隊長の言っていた「嫌な予感」というものが当たっていたことを、嫌でも思い知ることになる。森の奥へと近づくにつれ、奇妙な圧迫感が押し寄せてきたのだ。
重く、粘り着くような空気。悍ましい何かに身体中を這われているかのような薄気味悪さだ。
「くそ……何だこれは」
ブラッド隊長の声にも焦りが見えた。
この森には何度も来たことがある。けれどこんな異様な気配を感じたことは一度もなかった。
これはおそらく何者かの発する魔力だ。だがこれほどまでに禍々しい魔力は、生まれてはじめて感じた。
まるで酩酊した時のように感覚が鈍っている。前へと進んでいるはずだというのに、その場でもがいているかのような錯覚に陥り、早く殿下の元へと、気持ちばかりが焦った。
途中、何度もこの魔力に怯えた馬たちが立ち止まり、それを宥めすかしながら森の中を進んだ。
ようやくマティアス殿下の無事な姿を捉えた時には、心の底から安堵した。しかしすぐに安堵は驚愕と、そして恐怖へと変わる。
そこにはとんでもないものがあった。地面から湧き出てくる赤黒い煙。その煙が何か見たこともないものの形を成そうと蠢いている。
あれは何だと聞いたブラッド隊長に対し、マティアス殿下は《古の災厄》だと答えた。
《古の災厄》は遥か千年以上も昔に世界を半壊させた古の邪竜のことだ。
それを目の前にしているなどとは、にわかにはとても信じられない。けれどそんな信じがたい話だったけれど、俺は半分納得もしていた。あの赤黒い煙はそうでも思わなければ説明が付かないほどの、圧倒的な破滅の気配を宿していたからだ。
俺は少ないながらも魔力を持っていた。
魔術師になるには足りない。けれど有事の際には重宝される。騎士団の中には俺みたいな奴が多くはないが一定数存在した。
騎士団において魔力持ちが重宝される一番の理由は、結界が張れることにある。王族の警護に当たることが多い一番隊には、貴族以外にはそういった魔力のある者が配属されるのだ。
俺は特に魔力や魔素を感じる能力が優れていた。魔力のある奴ない奴はすぐにわかる。周囲に漂う魔素さえも、目を凝らし集中すれは見ることが出来る。だから他人に結界を張ることも得意だった。その人物の周囲にある魔素を俺の魔力に組み込めば、近くに居なくとも結界を届かせることが出来た。
だから、ブラッド隊長は俺を呼んだのだろう。
マティアス殿下が剣に魔力を込めていることは、この場に来てすぐにわかった。武器に魔力を込めて戦う方法は魔力持ちの常道だ。これで武器の強度があがる。だがその剣から魔力の乗った斬撃を飛ばすとなると、これが途端に難しくなる。魔力を扱う精度が一気に上がるのだ。
実体のない魔力の塊には、剣そのものの攻撃は通用しない。攻撃に魔力を乗せるしかない。マティアス殿下は今それをやろうとしている。
騎士であるがゆえに、魔力をそのまま放つ魔術師の方法を取るよりも、使い慣れた剣で、そして身体が覚えている方法で攻撃する方が、より確実に魔力を放つ精度は上がるだろう。
俺はマティアス殿下を見つめた。
膨大な魔力だ。
マティアス殿下が魔力を持っていることは知っていたけれど、これほどとは思っていなかった。これはおそらく下手な魔術師よりも魔力があるはずだ。きっと今までここまでの魔力を使う機会がなかったため、知られていなかったのだろう。
しかし、それでもおそらくは目の前の存在を倒すには足りない。どんどんと膨れ上がっていく凶悪な魔力に、俺の心臓は先ほどから破裂しそうなほどに騒いでいる。
――これは、どうにかすることが出来るのか。
ふいに、そんな不安が顔を出した。
「ブラッド。いつまでこの場が持つかわからない。さっさとその二人を連れて行ってくれ」
マティアス殿下の言葉に、俺は意識を手放しているらしい女性と、その女性を小さな身体で支え、心配そうに見つめる一人の少女に視線をやった。
美しい少女だった。彼女の周辺だけ淡く光り輝いているような、そんな錯覚さえ覚えるほどに。
この禍々しい気配の充満する場で、彼女の周りだけが清浄な空気を保っているかのようだった。
「――駄目だ! 俺が残る。お前が逃げろ!」
「ブラッド魔力ないでしょ」
マティアス殿下に指摘されたブラッド隊長は、苦しそうに顔を歪めた。ブラッド隊長に魔力はない。だがこればかりは仕方ない。魔力の有無は多分に生まれ持った才能に依存するからだ。それは貴族でも平民でも変わりがなかった。
「――王子を残して逃げるなんて、出来るか!!」
騎士団の仲間でもあり後輩でもあるマティアス殿下は、しかしまごうことなきこの国の王子だ。王家を護る立場の一番隊の隊長であるブラッド隊長が、王子であるマティアス殿下を残して去るなど、常時であったなら許されることではない。
しかしその言葉はマティアス殿下によって両断された。




