第三話
ベルタは涙を流しながら、目を見開き何かを叫んでいる。そこにある感情は恐怖だ。
けれど助けたくても助けられない。だってこれは単なる私の記憶だから。本物のベルタはまだそこで二股野郎と言い合っている。
思い出した記憶に、私は愕然とした。口の中に溢れてくる唾を飲み込むのさえ苦労した。
――……違ったんだ。
《古の災厄》が復活したのは、祠が壊されたからじゃなかったんだ。
本当は封印が解かれたのは祠が壊れたからではなく、この場が血で穢されたからだ。ベルタに張り倒され、激高した二股野郎の手によって殺されたベルタの血によって。
痴話喧嘩どころの騒ぎじゃなかった。ベルタは殺されるところだったんだ。
そう思った瞬間めまいを感じ、私の世界がぐらぐらと揺れた。さっきマティアスに運ばれていた時よりもひどい。
――私の馬鹿! 何でこんな肝心なことを忘れてたんだ! ……いや、違う。……大丈夫。間に合った。ベルタは無事だ。
本当に邪竜が復活するかはわからない。ベルタが殺されるかもわからない。ここが本当にあの小説の世界なのかもわからない。
けれどもしそうなのだとしたら――。
これから起こることはどちらも絶対、絶対に防がなければ。
「……マティアス・レドフォード。これからベルタがあの二股野郎を張り倒す。そしてそのことに激高した二股野郎がベルタを切り殺す。この場所が血で穢れれば、《古の災厄》が世に放たれる。そうなればこの国は一夜で消滅する」
棒読みにも程があるけれど、勘弁してほしい。出来るだけ私の知っている情報を客観的に、かつ正確に伝えるためには仕方ない。邪竜復活も防がなければならないことだけれど、ベルタをあいつに殺されるわけにはいかない。そんなこと許すものか。
当初の目標は変わっていない。ベルタが二股野郎を張り倒すのを防ぐ。これだ。
ベルタにぶたれたあの男は、激高してベルタを切り殺す。だから、ベルタの平手打ちさえ防げばこの場が穢れることはないはずなのだ。
それにもしあの二股野郎がベルタに危害を加えようとしても、ここにはマティアスがいる。止めて貰える。
兜の隙間からこちらを見下ろすマティアスの青い瞳をひたと見据え、私は言った。
「マティアス。ベルタを助けて。あの二人を止めて。この場を穢させないで」
信じるか信じないかはマティアス次第――とは今回ばかりは口が裂けても言えないな。
お願い! 私を信じてえ!
けれど、私のそんな心配は杞憂だった。
「――わかった」
マティアスは一言そう答えると、今まさに二股野郎を張り倒そうとしているベルタと二股野郎の間に身を割り込ませた。
ベルタの勢いづいた手がマティアスの兜に当たろうかという直前、その手はマティアスの手によって捕らえられた。それを見た私はほっと胸を撫でおろす。甲冑なんて殴れば、ベルタの手の方がイカれてしまう。
突然現れたマティアスに二人とも大層驚いていた。ていうか、これまで気づかなかったの? よほどヒートアップしてたな?
けれど、ようやく双方冷静になったようだ。二股野郎はマティアスのことを知っていたのだろうか、「え? マティアスさん?」なんて言ってちょっと驚いている。そしてベルタもマティアスの後方にいた私に気付き、目を見開いた。
「アリーセ? どうしてここに……」
「ベルタ――!」
私が両手を伸ばしベルタの名を呼べば、ベルタはハッとした表情で慌てて私に駆けよって来た。ちなみに私はまだ地面にへたり込んだまんま。ベルタもきっと驚いたんだろうな。
「ベルタ……私、あいつが二股かけてるって知って……」
ここへ来た理由は本当はちょっと違うんだけど、心配だったことには変わりない。ベルタもそれを信じたみたいだ。しゃがみ込んだベルタは眉を顰め、泣きそうな顔をしながら私の頭を撫でてくれた。
「そう……ごめんなさい、心配かけて。こんなところまで来てくれたのね」
「ベルタ……。あんな男にベルタは勿体ないよ。別れて」
私よりも五歳年上のベルタはいつも私のことを妹のように可愛がってくれている。だから私の頼みならきっと聞いてくれるだろう。
それに小説の中ではあの二股野郎のせいで世界が滅びかけたのだ。てか、女性にぶたれたくらいで殺そうとする奴ヤバみしかない。牢屋に入れとけ。
「アリーセ……。大丈夫。言われなくても別れるわ。あいつリカナとも付き合ってたのよ? 私とリカナが友人だって知ってたくせに。最低な男よ」
「うん。最低二股野郎だね」
私がそう言えばベルタはにっこりと天使のような微笑みを返してくれた。尊い。ベルタの微笑みに癒されほっこりとした気持ちでいた私の耳に、許されざる二股野郎の情けない声が聞こえてきた。
「ベルタ! リカナとはお互い本気じゃないんだ! 僕には君だけなんだよ!」
煩い、二股野郎。どの口が言うか! お前、私たちが来なければベルタを殺していただろうが!
キッと二股野郎を睨みつけた私の目に、とんでもない光景が飛び込んで来た。
「……は、鼻血が」
なんと二股野郎は鼻血を出していた。
なんでぶたれてないのに鼻血出すんだよ。変態か。美少女二人の熱い友情に萌えたのか?
「ああ、さっき私がぶったのよ。当然の権利よね?」
――……すでにぶってましたか。ということは二回ぶつはずだったの? 小説では省かれたのかな? いや私が覚えていなかっただけか……。
まあ確かに? ぶつのは当然の権利ですよ? 何ならグーで殴ってもいいくらい。でも今回だけは押さえて欲しかった。そして間に合ったけど間に合ってなかった……!
鼻血で邪竜復活とかマジでやめてくれ。死んでも死にきれないだろ、そんな理由。
……いやいや、鼻血の量なんて微々たるものだ。さっさと拭いてしまえば大丈夫。
大変不本意だったが、私は二股野郎の鼻血をさっさと拭き取ろうと慌てて立ち上がった。けれど二股野郎に駆け寄ろうとした瞬間、二股野郎の鼻から垂れた血が一滴、ポトリと地面に落ちた。
その瞬間、地面からまるで間欠泉のように赤黒い煙のようなものが噴き出して来て、二股野郎がそれに飲み込まれた。
あっ、と思った時にはもう遅かった。
赤黒い煙の向こうで二股野郎の皮膚がでろんと溶けた。
いや、溶けるというよりは腐食する、が正解だ。黒くなって萎れていって、ボロボロと崩れていく。そんな過程がまるで早送りでもされているかのように、目の前で起きていた。
そして二股野郎は最後には何も残らず消えてしまった。
誰も、何も、口にしない。私もマティアスもベルタも。
目を逸らす間も、悲鳴を上げる間もない、あっという間の出来事だった。
このままずっと沈黙が続くのかと思ったけれど、そうではなかった。ベルタが耳をつんざくような悲鳴を上げ、そして叫び終えた途端、その場に頽れた。
「マティアス!」
倒れたベルタを支えながら思わずマティアスの名を呼べば、マティアスがカシャリと剣を構えた。
「あれが竜? ただの煙に見えるけど」
おい。ただの煙は人を腐らせんだろ……。君、さっきの見ていなかったの?
けれどマティアスの言う通り竜には見えないことも確かだ。今はまだ、だけどね。
「……竜の正体は自然から発生した魔素の塊が肉体と意思を持ったもの。封印がすべて解かれれば、周囲の魔素を取り込んで古の邪竜の姿が蘇る」
私がそう言えば、マティスは黙ってしまった。でも兜のせいで表情が見えにくいから何を考えているのかはわからない。
しばらくしてからマティアスが口を開いた。
「……どうすれば復活を防げる?」
――どうすれば? えっと、どうすればいいんだっけ?
小説の中では全員で協力して邪竜を倒していた。邪竜の魔力を魔術師が抑えて、騎士であるマティアスと彼が持つ剣に魔術師が魔力を付与していた。魔力の乗った剣での攻撃が、魔素の塊である邪竜を消滅させたのだ。
「……復活しきる前にまた封印を施すか……まだ弱いうちに魔力で倒すことが出来れば――」
ああでも――そうだ。
封印だって普通のやり方では無理なんだ。何故なら邪竜は魔素の塊で、この世界の穢れが形を持ったものだから。
穢れは様々なもので出来ている。代表的なものが人間が生み出す妬み、怒り、憎しみなどの負の感情。そしてこの世界に生きるすべてのものが生み出す「死」による穢れだ。
かつて聖女と英雄が邪竜を倒した時から千年以上の時が過ぎている。この時代に邪竜が蘇ったのは、すでに封印が限界だったからだ。
だから、ベルタの死を防いでも二股野郎のたった一滴の血で封印が解けてしまったんだろう。それ以前にも二人で散々泥沼の口論してたんだろうしな……。
かつての邪竜はこの場所で倒された。そして邪竜の残滓をこの場所に封じ込めたのだ。
封印とはいわばこの世界の穢れを抑える装置。それも今よりさらに質の高い魔術を行使していた時代の封印だ。今それを出来る人間は恐らくいないだろう。
そしてその封印にしても、永遠のものではない。この世に人が、そして死が存在する限り、穢れはいつか溜まっていくものだから。
んな殺生なって思うよね。生きてても、そして死んでも穢れが溜まるなんて、もうどうしようもないじゃん。
とにかく、封印はダメ。無理。ならあとは魔力で倒すしかない。
マティアスとマティアスの剣に魔力を付与出来れば邪竜に対抗できるかもしれないけれど――問題は誰が魔力を与えるのかってこと。
質問。十年後の戦いでマティアスに魔力を与えたのは?
答え。魔術師です。
うん。魔術師いないね。魔術師超重要。魔術師必須。
ねえ、魔術師がいなければどうにもなんなくない、これ? 剣でただ攻撃したとしてもあまり意味はないだろうし。怪我してもすぐ周囲の魔素取り込んで治しちゃうからね。だから一撃必殺で倒さなきゃなんないんだけど。
――詰んだな、これ。短い人生だった……。
けれど、短い人生だったと己の人生を儚んでいた私の耳に、マティアスの悔しそうな呟きが聞こえた。
「魔力か……俺の魔力じゃ足りないだろうな」
絶望にどっぷりと身を浸していた私は、マティアスの言葉に一瞬呆けた。そして浮上した。
何? マティアス、魔力持ってたの? あれ? でもそんな描写あったっけ?
――……あったような気がする。ちらっとだけど、マティアスも以前は魔力を持っていたけれど、復活した邪竜との戦いで使いきったと書いてあった気がする。でもだからこそ生き残れたって。
じゃあ、今のマティアスは魔力が使えるってこと? それなら――。
一か八かやるしかない。
「マティアス。あの漏れ出ている魔素をありったけの魔力を込めた剣で斬り伏せて!」
もしかしたら魔力をぶつけるだけでも良いのかもしれないけど、出来るだけ小説での勝パターンと同じにしておいた方が安心だと思う。剣じゃなきゃいけない理由があったのかもしれないし。
「……剣での攻撃に魔力を込めるって難しいんだけど? それに俺の魔力じゃ……」
「大丈夫! あなたならやれる!」
自分で言っといてなんだけど、めっちゃ軽い感じの言葉に聞こえるな。
でもきっと大丈夫。だってマティアスは未来の竜殺しだもん! 英雄だもん! 魔術師いないけど、やれる! っていうか頼むからやってくれ、私に出来ることだったら何でもするから! せめて最後まで抵抗しようよ!
「まったく……仕方ないな」
ねえちょっと……。お前我儘だなあ、って感じで言ってるけどやらなきゃあなたも死ぬんだからね?
ああもう、黒い靄がどんどんと大きく、何だか形さえ出来つつあるような気がする。
あれだよ、あれ。あの西洋式のドラゴンの形。間近で見ると超怖いね。なんていうか、禍々しい? 今や大きく広げられた双翼が、目の前の景色を覆いつくしているよ。
でもなあ……。
今更だけど、もしかしてマティアス連れて来たのって失敗だったかな?
万が一ここでマティアスが死んだら十年後ってどうなるのだろう? 小説の中ではマティアスはこんな祠の近くまでは来ていない。だって私が連れて来たんだもんね。いくら魔力があってもこんな近くで邪竜の攻撃を受けたらさすがに死んじゃわない?
結局ここで邪竜を止められないなら、十年後確実に邪竜を倒してくれるマティアスだけは逃がした方がいいのかな? それとも、マティアスがいなくても他の誰かがやってくれる?
どうだろう。わかんないな。未来のことなんてわからない。
それでも、未来の竜殺しがいなくなる。それってかなりまずいような気もするけど………うん。
まあ、しゃーないか。なるようになれだ。未来の英雄を殺したというこの罪は、私一人が背負うことにしよう。多分私も死んじゃうけどね。
――それに……もしかしたらマティアスだけは主人公の一人だから、こんな状況下でも生き延びるかもしれないし、なんてちょっとだけ思ってもいるし。




