第百九十一話 レザドⅠ
「うーん、醤油に近いようで若干醤油とは違うような……まあ、これはこれでありか……」
俺は刺身に魚醤を付けて、口に運ぶ。
魚醤とは魚を発酵させて作った調味料である。
味は醤油に似ている……が、やはり醤油とは何かが決定的に違う。
まあ、醤油の代替ではなく魚醤として食べるのであれば十分美味しい。
「しかし……生魚を生で食べるのはよくありますが、タコを生で食べるのは聞いたこと有りませんでした。最初は気持ちが悪いと思ってましたが、案外イケますね」
アレクシオスがタコの吸盤の部分を魚醤に付けて口に運ぶ。
さっきからこいつ、吸盤の美味しい所ばっかり喰ってるな。
「でも僕は魚醤で食べるよりも、カルパッチョの方が好きです」
「そうか? まあその辺りは人それぞれだろうけど……」
俺はどちらもイケる。
……醤油かカルパッチョかと聞かれたら醤油だけど、魚醤かカルパッチョかと聞かれたら悩むな。
現在、俺はレザドに居る。
今までアレクシオスに投げていて、報告だけ受け取っていた諸行政の指示のためにやってきたのだ。
今はアレクシオスと会食中である。
刺身を食べる経緯は、アレクシオスの奴が「陛下、魚を生で食べてみません?」と提案してきたからだ。
というのも、アデルニア半島南部の沿岸部では海魚はよく食べられる。
生魚を食べる文化もある。
アレクシオスはアデルニア人ではなくポフェニア人だが……
ポフェニア人は海洋民族。
生魚を食べる文化を持つのはおかしなことではない。
とはいえ、生魚を食べる文化はあくまで沿岸部に限られる。
魚は傷みやすいため、内陸部に運べない。
干物と言う形なら相当量が流通しているが、生魚は取引されていない。
よって、ロサイス王の国の人間……ユリアやテトラは生魚を食べない。
きっとあの二人は顔を顰めることだろう。
ちなみに二人とも魚は大好物だ。
先ほども行ったが干物は流通しているし、川魚だってよく食べる。
魚がダメなのではなく、火が通ってないのが問題なのだ。
アデルニア人には文化的な食の好き嫌いは殆ど無い。
アレクシオスとしては、内陸部出身の俺を驚かせたかったのだろう。
しかし俺の心には大和魂が躍動している。
生魚、大歓迎だ。
魚醤を使っている経緯だが、二人でカルパッチョを食べている時に俺が醤油の話題をしたのだ。
それにアレクシオスが喰いつき、似たようなモノがあると言いだした。
……心の底から醤油じゃないかと期待したんだけどね。
まあ大豆すら見たこと無いのに、醤油にお目に掛かれるはずがない。
「で、改革の進行について改めて聞こうか」
俺は最後の一切れを咀嚼し終えてから、アレクシオスに言った。
「まず第一の課題……一級市民と二級市民の法的、税制的な平等は達成しました」
レザドは高額な人頭税を支払っているか、支払っていないかで一級市民、二級市民と二つに分けている。
徹底的な財産政治を行っていたためだ。
とはいえ、我が国では全ての平民も豪族も王族も、法の元には平等だ。
豪族や王族には一部の免税特権《荘園》が存在するが、それもごく僅か。
支払う税金は同じである。
そういうわけで、レザドにも同じような税制を敷く必要がある。
しかしそれには二つの障害があった。
一つ、住民票の登録。
というのも、今まで二級市民は納税の対象では無かったためその人口は正確に把握されていなかった。
偶に国政調査のために大まかな調査をして、その人口を把握する程度。
しかし税金を採るのであればしっかりとその数を把握しなければならない。
二つ、住民の抵抗。
一級市民からすれば、今までの政治的な特権が取り払われて二級市民と同等になる。
ロサイス王の国の税制は、定額制ではなく定率制。
だから金持ちほど多くの税金を支払うことになる。
権利が欲しければ金を払え。
というのが国風であるレザドの住民からすれば腹が立つに違いない。
また二級市民からしても面白い話ではない。
というのも、レザドでは二級市民には権利も無い代わりに納税の義務も無かったからだ。
しかしロサイス王の国の税制は全ての市民に平等に課せられる。
今まで払う必要の無かった税金を支払わなければならない。
だから俺としては相応に時間が掛かると思っていたのだが……
どうやらあっさりと成功したみたいだな。
「先の戦争で改革の障害となる大商人は国外に逃亡するか、ロサイスの貴族になってしまいましたからね。残ったのは中小商人たちだけです。……彼らにとっては定額制の税金はそれなりに重い税金でした。ですからすんなりと受け入れられました」
「二級市民は?」
「彼らは……何と言いますか、そもそも納税の対象にはならないんです」
アレクシオスの話によると、二級市民というのは全員が小作人か労働者、もしくは乞食のような存在らしい。
そもそも土地を持って居なければ地税の対象には成らず、商売をしなければ売上税の対象にはならないと。
どうやら俺はロサイス王の国の感覚でモノを考えてしまったらしいな。
我が国では平民の大部分は自作農だ。
だから二級市民も何割かは小さな土地くらい持っていると思っていたのだが。
どうやらレザドは相当貧富の差が激しいみたいだな。
「ただ一つ問題があります。それは兵役です」
ロサイス王の国では、大きく三つの税金がある。
一つは売上税。売上の五%を国が徴収する。
もう一つは借地料……実質的な地税だ。これはその土地で得た収益の一割。
そして最後に兵役。
しかし上二つは兎も角、レザドでの兵役は難しい。
というのも、征服されたレザドの人間からすると俺の戦争に付き合う義理など無いからだ。
無論、レザドの安全保障や治安が維持され商人達が安全に商売が出来るのは俺のおかげだ。
レザドがポフェニアに略奪されず、今の今まで存続しているのも俺のおかげ。
そして多くのレザド人を奴隷狩りから救いだしたのも俺だ。
そんなことはレザドの人間は理解している。
しかしだからと言って、王のために死ねというのは話が違う。
理屈で納得しても感情的には納得出来ない。
そしてやる気の無い兵士を戦争に狩り出しても仕方が無い。
これがアデルニア人なら問題無かった。
アデルニア人にとって兵役は最も名誉な税とされる。
金を支払って兵役を免除するなど、臆病者のすること。
という考えが一般的である。
実際、国内のアデルニア人は富裕層も貧困層も装備の差があれど皆、兵役には応じる。
豪族も百人隊長以上の待遇とはいえ、子息を戦争に送りだしている。
兵役の拒否をするということは、国に対して自分たちの権利や生命・財産の安全について抗議する時だけだ。
アデルニア人には、自分たちの生命や財産を守り、土地を戦災から守ってくれる国や権力者に対して奉仕するという考えが広く一般的にある。
だから俺が、割譲されたり征服したりして得た土地のアデルニア人も、俺に忠誠を誓うかどうかは別として兵役には応じていた。
半農半兵で、各地に王制の軍事国家が乱立し、年柄年中戦争が起こるアデルニア半島で育ったアデルニア人にとって、戦争とは挑み立ち向かうもので、逃げるモノでは無い。
まあ、年柄年中耕す暇も無く、戦死者に溢れるほど戦争を繰り返されれば別の話だろうが。
アデルニア人は全体主義的な民族性を持つ民族なのだ。
それに比べて、レザドの住民……というよりキリシア人は個人主義的である。
正確に言えば、世界市民主義というのが正しい。
キリシア人は自分たちの民族に誇りを持っているわりに、祖国が危機に陥るとあっさり離散してしまう民族だ。
まあそもそもキリシア人自体が一つの国に纏まった経験が無いため、キリシア人という民族と国家は関係ない、という考えなのかもしれない。
国や土地に囚われず、船に乗り込み、帆で風を孕ませ、大海原に乗り出す。
それがキリシア人の魅力であり、欠点と言える。
まあどちらの民族が素晴らしいかどうかは議論の余地があると思うが、少なくとも為政者である俺からするとキリシア人ほど面倒な民族は居ない。
さて……
そんな個人主義的な民族でありキリシア人が兵役に応じてくれるはずがない。
「しかし兵役を実施しないわけにはいかないからな……直轄地にした以上。兵役免除税も導入できないし……」
ロサイス王の国の強さは徴兵制にある。
戦時に大軍を瞬時に、かつ安価に組織出来る。それが我が国の強みだ。
兵役免除税など導入すればそれが崩れかねない。
しかしレザドだけ特別扱いというわけにもいかない。
「僕もいろいろ考えたのですが……レザドの住民はロサイス王の国や陛下に対して忠誠は無いにしてもレザドという街への愛とポフェニア人への増悪はあります。重装歩兵としては使い物にならなくとも、三段櫂船、五段櫂船の乗り手としてならば十分に役に立ちます。レザドを海軍専門にして、陸の徴兵に関しては免除する……という形は採れませんか?」
……ふむ、ありだな。
海は常に海賊が出てくるから、決して陸に比べて出動回数が少ないということもない。
それにレザドの住民も、『アルムス王の領土拡張のための戦争』よりも『レザドの領海と商圏の防衛、そして憎きポフェニアとの戦い』の方がやる気に成るに違いない。
というか、キリシア人とは逆にアデルニア人はおそらく海では役に立たない。
アデルニア人の大部分は『人は水に浮きません』という奴らばかりだろう。
それに三段櫂船の漕ぎ手ならば、特別な武器も技術も要らないという利点もある。
戦争で使う武器は持参が原則。
武器など持っていない&買う余裕の無い二級市民は勿論、そもそも戦ったことが無いレザドの住民もそれなりに戦えるはずである。
それに海戦は陸戦と比べて手馴れているだろうし。
よし、それで行こう。
「ありがとうございます、陛下。これで税制上の改革を完成させられます」
で、政治上の改革はどうなってるんだ?
「それが紛糾していまして……」




