2.記憶 1
『ん?…いい匂いがするな』
マリアンナが『シロ』と呼んだのは白銀の輝く毛皮を持つ美しい獣だ。
こちらの世界でこういう形の動物は耳や体がもっと大きかったり目が複数あったりする”魔獣”となるのだが、マリアンナの元に現れたのは一般にいう”猫”だった。
一般というのは地球の一般だ。
シロはぴょん、とテーブルの上に跳び上がった。
「クッキー焼いたんだけど、食べる?」
『ヒトの食べ物か。そんなもので腹は膨れんが…これは魔力を入れたのか?』
シロはくんくん、と鼻を近づけて匂いを確かめる。
「分かる?試しに焼く前の生地に魔力を注いでみたの。
これならシロも美味しく食べられるかと思って」
『試しにってお前な…』
じろりとマリアンナを睨んだ瞳は見事な金色だ。
瞳孔部分はより濃い。
「まあまあ。普通の動物と違ってこういうのも食べても大丈夫なんでしょ?
いいからちょっと味見してみて」
マリアンナはクッキーを割ってシロの一口サイズにした。
シロは恐る恐る一かけら咥えて咀嚼した瞬間、ガツガツと音を立てて一気に食べてしまった。
ペロペロと皿まで舐める。
『うまい。もっとないのか。なぜ1枚なんだ』
シロが詰め寄ってくるその鼻の頭をひょいと除けて、マリアンナは指先に小さな水球を出す。
「試しに作ったって言ったでしょ!これで我慢して」
ぽい、とシロに向かって水球を投げると食いついた。
『薄い。さっきのをまた作れ』
「いいわよ。…1年後にね」
『はあ!?待てるか!』
「私が唯一まともに作れるのがあれなの!頻繁に作ってこっちに持ってきてたら変でしょう?
それに教育熱心な師匠のおかげで全く暇がないし」
『お前…あっちで30年も生きてまともに作れるのがあれだけなのか…?』
信じられない、と目を見開く。
猫なのに表情豊かだ。
「うるさい。実家暮らしでご飯は親任せだったの!
…あ、この体だとまだ無理だけど、魚を捌くのだけは任せて」
『……』
シロの口があんぐりと開く。
よりにもよって何故そこだけなんだと思っているに違いない。
マリアンナが初めてその猫に出会ったのは半年ほど前だ。
裏の家からそれほど離れていないところに初級傷薬用の薬草であるヨムの葉が群生している。
半年はマルグリットと通って、マリアンナが迷わないことを確認してから一人で来る許可が出たのだ。
その日は納品の日が迫り、一気に作ってしまおうと思ったが材料が少なかったので採集に向かった。
何度も通って道ができていたので迷うようなところではない。
初めて一人で向かうことにワクワクして、気分が高揚していた。
『あやめ』
最早誰も呼ぶことのないはずのその名前が背後から聞こえて、一気に冷や水を掛けられたようになる。
一瞬固まって恐る恐る振り返ると、たった今マリアンナが歩いてきた道に美しい毛並みの猫が座っていた。
「あ…あなた…っ!」
その金の瞳と目があった瞬間、思い出した。
この猫が、あやめが転生した原因だったことを。
***
『おい、目を覚ませ』
むにむに、と頬に柔らかい感触がする。
気持ちよくてその柔らかさを堪能していると、爪が出た。
「痛っ!」
上半身を起こすと、真っ白な空間がどこまでも広がっていた。
いや、白すぎて分からないが実はすぐそこは壁かもしれない。
その中に、金色の瞳が2つ浮かんでいた。
「ぎゃ!!」
よく見ると白すぎて見えなかっただけでちゃんと体がある。
心臓が止まるかと思った。
「え?何ここ、どこ!?」
あやめはこの無機質な空間の中で、唯一血が通っていそうなものに縋りついたが、猫に何かできる訳がない。
先ほど聞こえた気がする声はどこから聞こえたのだろう。
あやめが辺りを見回そうとすると、突然目の前の猫が声を発した。
『やっと起きたか』
「ひっ」
可愛い姿に似合わない妙に色気のある男性の声だ。
「猫が喋った…!」
『喋ったくらいで何を驚く』
「いや、普通喋らないから」
思わずあやめが突っ込むと、猫はふんと鼻を鳴らした。
「あの、ところでここ…どこなの?」
この際猫が喋ることについては置いておこう。
不思議猫には不思議空間のことが分かるのかもしれない。
『ここは私が作った。世界と世界を繋ぐ道のようなものだ』
ごめん、全然意味が分かりませんでした。
「…は?」
『あやめ、今からちょっと私が生きる世界に来てくれないか』
「はい?!何言ってるの?というか私の名前どうして…」
『私がお前をここに引っ張ってきたからな。少し魂の情報を見た』
「いやいや勝手に見ないでくださいよ。個人情報保護法ってものがありまして…
―――――魂?」
『ああ。体は邪魔だったから中身だけ連れてきた』
「はあ!?」
思わず両手を広げてみると、少し透けているような気がしてきた。
「ちょ、ちょっと待って。え?私の体は?そうだ仕事!仕事に行く途中なの。帰してくれない?」
『体の方はもう無い』
淡々と言う猫の言葉に愕然とする。
「な、無い?体が無いってどういうこと?」
『お前の体は…死んでしまった』
「……何言ってるの?」
さっきからこの猫は本当に意味の分からないことを言う。
『ちょうどお前の世界に行って色々見て回っていたのだ。
お前は仕事に行く途中だったのだろう、車輪が2つついただけの乗り物を器用に乗りこなしていた。
あぜ道にもかかわらずかなりの速度で走っていて驚いたものだ』
そういえばちょっと遅刻しそうだった。
『その前に猫が飛び出した』
「あなた!?」
『私はそのような愚かなことはしない。
とにかく驚いたお前は避けようとして体勢を崩して乗り物ごと派手に転がり、作物が植えてある場所の水路で頭を』
「あー!もういいです」
間抜けすぎて自分を呪いたい。
あやめは頭を抱えた。
『あまりの速さですべてが起こったので何もできなかったが、丁度お前のような綺麗な魂を持ったものを探していたのだ。
後で説得しようと思って中身だけ連れてきた』
「…ああー!私、親不孝者だあー」
全く親孝行していない。
これから先いくらでも恩を返せると朧げに考えて何もしなかった自分が情けなかった。
自分だけは大丈夫だと思い込んでいた。
『自分が死んで一番に考えるのが親の事という所もなかなか好ましい』
「ごめん、ちょっと待って。今何を言われても頭に入らない」
『悪いが時間がない。もうこの場所を維持する力がそれほど残っていない』
「え!?私はどうなるの?!」
完全に頭に入りました。
『だから私の世界に来ないかと聞いている』
「え?どうして?」
『お前に助けてもらいたい者がいるのだ』
「はい?…どうして私なの?」
『今あちらに助けられるものが存在しない。適応するのがお前の国の者だった』
「ごめん、ちょっと意味が分からないけど…私が助けないとその人はどうなるの?」
『このままだと命を落とすと思う』
情けない感じで失ってしまった自分の命、それが誰かの助けになるのなら。
少しだけ心が傾く。
『ちなみに私の世界はこちらと違って皆が魔力を持ち、魔法が使え「行きましょう!」』
あやめが猫にかぶせるように答えると、突然足元が歪んだ。




