想いの先へ(6)
自宅を出て間もなく遠慮がちにこぼれ始めた雨は、藤川洸陵高校敷地内に到着したころにはすっかり本降りになっていた。
陽が落ちきったうえに視界も悪く、フェンス横の外灯が無ければ泥濘んだ足元を判別することもままならない。
「うーっわ、この靴もう無理じゃん」
テニスコート脇にできた水溜りを懸命によけながらも、すでに泥まみれになっているスニーカーに視線を落として、翔は引きつった口の端を上げた。
「無理」は言いすぎで、実際洗えばどうということはないのだが。
侑希は侑希で、昇降口ではなくまずは鞄を置き忘れたらしいクラブハウスへ(厳密には最後にどこに置いたか憶えていないのだという……)向かいだしたところを見ると、真っ先に内履きを救済することをすでにあきらめているらしい。
どのみち酷いありさまだし明日は土曜で部活しかないため内履きの出番は無いからいいや、といったところだろうか。
「翔……」
「ん?」
呼びかけられて初めて、並んで歩いていたはずの侑希が五メートルほど後方で立ち止まっていたことに気付く。
「――言っとくけど……さ」
雨脚のせいなのか単に言い淀んでいるのか、わずかに開かれた彼の口の動きが見えただけで、そこから出たらしい言葉を拾い損ねてしまった。
「えー? 何? 何だって?」
いや……実際は口を開いてもいない、のだろうか?
距離もあるし、わずかな灯だけでは視覚的にも自信がない。
「侑?」
今度は待てどもなかなか発されない。
その言葉の続きを促そうと、歩を戻しかける。
――と。
「さっきの言葉、全部撤回したいと思ってるわけじゃないから」
意を決したように侑希が口を開いた。
「瑶子先輩のことまで持ち出して、とんでもない――卑怯な言い方したのは謝る。けど、翔の本心を聞き出そうとしたことについては、俺間違ったことしたと思ってないよ」
「――」
「それだけは後悔してないし、今でも聞きたいって思ってる」
本心を――
「他のやつだったら全然関係ないよ。翔だから、ちゃんと言ってほしい」
「侑……」
ゆっくりと側まで歩み寄られ、すでに動揺も反省も拭い去られて落ち着き払った表情を目のあたりにする。
向けられてくるのは真っ直ぐな瞳。
怒りどころか少しの翳りもない、数時間前とは対照的なその様子にあらためて目を瞠らずにはいられない。
彼はどうやって、その静かで揺るぎない心境に至ることができたのだろうか……。
状況や相手がどうあろうと自身の心の内を真っ直ぐに出せる強さと誠実さ――
それをどこか羨ましくも感じている自分に気付く。
――『言っていいよ。言うべきだよ。俺も西野が好きだ、って』
――『気を遣うとこ間違ってるよ翔は! 俺にも瑶子先輩にも!』
――『いや……そうじゃなく、俺は……』
(俺、は……)
彼の言うとおり、気を遣っているに過ぎないのだろうか。
気付かないうちに彩香のことを――?
「――――ま。いっか。じゅうぶんわかったから」
決して短くはない沈黙を断ち切ったのは侑希のほうだった。
思いのほか朗らかな声で、微かな笑みとため息とともに。
「え……?」
さも納得できたとばかりに安堵の息をつかれ、逆にハテナが増えたこちらは間の抜けた声をもらすしかなくなる。
「お、おい……わかったって何――」
「今まで好きな子のこと、どう訊いても何回訊いても散々はぐらかしておちゃらけてきてた翔がさ? ……言葉に詰まって真剣そのもので悩んでるんだよ? その表情が答えだってことだろ」
困ったような笑みを浮かべたまま、侑希が肩をすくめた。
「――」
「ああああ、もーっ。結局こうなるのか……。ほら、やっぱり一番嫌なライバル! 俺勝ち目ないじゃん、わかってたけど!」
だから言ったじゃん!と笑顔で悪態をつきつつすぐ横を追い越し、侑希はクラブハウスに向かい始めた。
その背中を眺めながら、どうするべきか……と一瞬だけ悩む。
まだ迷いはある。
――が。
「すまん、侑……」
とりあえずは言っておかなければ、と後に続きながら翔は躊躇いがちに口を開いた。
「だーからぁー、謝られる筋合いもないんだよね。西野と俺、付き合ってるわけでも何でもないんだよ? わかってる? 現に怒る気も起きないっていうか、すでにあきらめモードに入んなきゃって感じだし――」
「……や。違う」
ぼそりと否を唱える声に、わしゃわしゃと髪の毛を掻き乱していた侑希の片手が静止した。
そのまま歩みまで止めておもむろに振り返る。
「え?」
「ぶっちゃけ、わかんねーんだ」
自分が西野彩香のことをどう思っているのか――。
仮に侑希に気を遣わなくていい状況だったら?という前提まで無理やり設定して、それこそ自室に居た時からこっちずっと考えてはいるのだが……。
そんな設定を認めることさえ罪深い自分には許されないと、やはり心の底で思い込んでしまっているのか何なのか、一向に答えは見えてこない。
「おまえに対しては正直じゃねーと、って思ってすっげー色々考えた。考えたけど……。なんつーか、好きだって思えたほうがまだマシだった……っていうか、いや……やっぱ上手く言えねえ。マジでわかんねえ……あいつのことどう思ってんのか。だから――――ごめん」
侑希の真剣な想い、真摯な態度に対して、今度こそ自らも誠実に向き合わなければと、向き合いたいとは思うのだが。
真面目な話、自分自身がわからない。
前提云々を抜きにしても、だ。
確かに変わった女だと――今までに会った他の誰とも違う種類の存在だと思うし、そのせいか最近やたら目にもつく。
不覚にも反応や言動がどこか面白いとさえ思ってしまっている自分もいる。
時々妙に突付きたくもなるし。
それも認める。
が、だからと言って好きかと問われたら――――首を傾げてしまう。
考えれば考えるほどよくわからなくなってくるのだ。
この気持ちがどういったものなのか。
包み隠さず打ち明けようにも、その本心を自分自身まるで掴めていないのだから……どうしようもない。
先ほどつい彩香に対して「鈍い」などと言ってしまったが、ひょっとして自分こそが鈍感なタイプだったのではないか、と情けなくも驚くばかりだ。
よって現時点では「この体たらくで、すまん」……と、この誠実な友には謝るしかない。
「『わかんない』って……」
しばらくの間ポカンと見返してきていた侑希が、不服そうに眉をしかめた。




