想いの先へ(5)
「あのさ、さっき高瀬……泣いてた、よね?」
駅へ向かい始めてすぐ、並んで歩く侑希がぽつりと言い放った。
予想もしていなかった内容に、一瞬歩みを止めそうになってしまう。
「――――気になんのか?」
傘と一緒にレインコート代わりにと引っ掴んできたカーキ色のリネンシャツを羽織りながら、何気なさを装って訊いてみた。
……つもりだったのだが。
「うん……何か泣き顔がね。なんだろう……実はちょっと前からすごい気になっててさ」
あまりに落ち着いた物言いと静かな横顔に、完全に虚を突かれていた。
「……」
「西野が好きなクセに節操なし、って呆れる?」
いつの間にかすっかり目を瞠っていた様に気付いて、侑希が自嘲めいた笑みを浮かべて見上げてくる。
「あ……いや」
そういうふうにはまったく思っていなかった。
が。
意外な思いにとらわれてしまっていたのは事実だ。
「や……全然。つーかむしろ安心した。おまえ、無茶苦茶正常。鬼のように正常」
「ええ? 何それ」
軽く笑って、また先を真っ直ぐ見据えて歩き出す侑希。
何かを吹っ切ったような、清々しいとさえ思えるその横顔を軽く視界に収めながら、じわじわと込み上げる思い――嬉しいような苦しいような……これは何だろうか。
おそらく、心のどこかではちゃんと憶えているのかもしれない。幼いころ一緒に過ごした大切な子のことを。
自分が消し去ってしまった記憶の、本当に大事な部分を。
彼自身に自覚はなくとも。
だからこそ、ああいった夢も見るのだろう。
そう考えると決心が揺らぐ。
伝えたからといってどうなる?と数時間前に彩香を制止しにかかったのは自分だ。
思い出したとしても侑希がまた彼女のことを好きになるとは限らない、と。
が――。
そんなふうに少しでも高瀬柚葉のことが気になっているのなら――伝えてみても、いいだろうか?
伝えたほうがいいのだろうか?
消えてしまった侑希の記憶にいた大事な少女は、まさに彼女だったのだと。
(でも……)
それでも、どこかでまだ迷っている自分もいる。
また「今」の想いを蔑ろにして「過去」を取り戻させようとしているのかと疑われかねない、という心配もなくはないし……何よりも、
(侑の、彩香を想う「今」の気持ちそのものを潰してしまっては……)
下手な誤解を植え付けてしまってはいけない。
それだけは避けなければと思うのだ。
でも、それら自分の心配や恐れといったもの一切を排除して、純粋に侑希の記憶のことだけを考えるならば。
やはり伝えるべき――なのではないだろうか。
先ほどとは打って変わって冷静に心の内を明かしてくれる幼馴染を前にしたら。
こんな……思いのほか高瀬柚葉を気にかける一面を見てしまったら――
(話してみても……いいだろうか?)
そう思えてきてしまった。
徒労に終わらないかもしれない、というわずかな可能性を見出してしまってからというもの。
会話も上の空に、どこからどう切り出したものかと、いつの間にかかなり真剣に思考を巡らせ始めていた。
暗い天からは細かな粒が降り始めていた。
◇ ◇ ◇
携帯には変わらず反応が無い。
こちらからのコール音が長く虚しく響くだけ――。
(どうしよう……。一度、柚葉の家電にかけてみようか)
普段あまり利用することのないコンビニの軒下に駆け込み、息を切らせながら彩香は手早く高瀬家のナンバーを表示させた。
そこに前髪から頬から、次々と雨雫が滴り落ちてくる。
傘も持たずに走り回っていたため全身ほぼしっとりと濡れそぼっていたが、ぶっちゃけそんなことはどうでもよかった。
買い物を終えて出てきた中年サラリーマンの不躾な視線にも構っていられない。
発信ボタンをタップしかけた指をピタリと止め、でも……と思いとどまる。
(本当に家に帰り着いてたらいいけど……。でも……まだ帰ってなかったら――?)
そうだ。もし娘が帰って来たならさすがに柚葉の母親が連絡をくれるだろう。
後で取りに寄ると言って荷物も置かせてもらってあるのだから。
――ダメだ。
探してくると言って飛び出しておいて「まだ帰ってないか?」などとは訊けない。
彼女の母親にまで心配を掛けてしまう。
(ちっきしょー……! 柚葉に何してくれやがった、あのモテ男ども!)
歯噛みする思いで、あの時何も聞き出せなかったことを心底悔やんだ。
せめてあの時の――あの部屋に三人でいた最後の状況が少しでもわかれば、柚葉のとりそうな行動、行きそうな場所に関して何かしらのヒントでも心当たりでも浮かんできたのではないだろうか、と思うのだ。
……実際はそれでも望み薄かもしれないが。
(こんなことなら、早杉さんの連絡先でも聞いておけばよかった! ――――って……う、ううう、うわああああああ!)
ふと考えてしまってから、何と大それたことをっ!と脳内で軽くパニックを起こしてしまった。
そんな瑶子の目をますます見られなくなりそうなことなどできるはずがないし、そもそもそっち系の度胸やテクなどこんな恋愛偏差値ゼロ人間に初めからあるはずもない。
ダメだ、ナイナイ……と一瞬でその考えをかなぐり捨てることに成功する。
(けど……連絡先、か)
沖田侑希の連絡先なら、去年のうちに陸部一年の間ですでに交換済みなため知ってるけど……と、憮然とスマホ画面を睨みつけてしまう。
(いや……っ、駄目駄目駄目あいつはっ)
今は意地でもコンタクトを取りたくなかった。
絶対あいつが何かしでかしたに違いない! 柚葉があそこまで取り乱す、ってやっぱり原因はあいつしか考えられないじゃん!(早杉さんにはまったく興味なさそうだし)という考えからだ。
このまま見つからなければつまらない意地も張っていられなくなりそう――ではあるのだが。
なるべく、いや極力、奴に訊くのは最後の手段としたい。
意地やら怒りやらといった複雑な感情が収まらないまま、雨足の強くなってきた真っ暗な空を見上げる。
(柚葉……どこ? 大丈夫? 変なこと考えてないよね?)
電話やメールにも反応がない以上、今はとにかく思い当たる場所を手当たり次第に探してみるしかない。
大げさかもしれないが気になるのだ。
あんな大泣きで取り乱した姿など、今まで見たことがないのだから。
少しくらい強さを増した雨なんて構っていられない。
(あとは? 心当たり全部あたった? どっか見落としてない?)
あと他に柚葉が立ち寄りそうなところは――?
次の目的地もはっきりと定まらないうちに、逸る気持ちのまま再び彩香は駆けだしていた。




