エピソードー2
「よっしゃ、こいこい!」
「1番、1番、1番!!!」
ある週末。新年も迎え落ち着いた日の頃。都内某所にある競馬場に二人はいた。槇が競馬に一時期はまっていたことを知り、千佳子が誘ったのだ。
槇からしてみれば「マジで?」というわけではある。昔大枚を叩いて以降控えていたが、千佳子に誘われたら仕方ない。寒空の下、新聞とボールペン片手に身を乗り出して叫んでいた。
『4コーナーのカーブを回る! さあルリイロノソラの逃げが鈍った!ルリイロノソラ鈍った! 後続馬が追い込んでくる!その中からユウキノカケラが来るか! ユウキノカケラだ!いや、シロイツバキだ!!シロイツバキだーーー!!!』
「いけー!シロイツバキーー!!」
「ルリイロノソラーーー!!」
『ルリイロが来た!ルリイロ頑張れ!ツバキが粘る! ルリイロを追ってユウキ!ルリイロ来る! 外からユウキ!ツバキ!ツバキが逃げ切るか?!』
声が枯れるほど叫んだ。ワーワーと応援する。1着2着を予想したレースだ。ふたりは朝から新聞やネットの予想レースを見て賭けに臨んだ。
その結果。
「キターーーー!!」
「っしゃーーー!!!」
きゃーっと二人で抱き合って笑いあった。
騒いだ拍子に開けっぱなしにしていたビールが倒れる。
こぼれた!臭え!なんて慌てながらも寒さも全く気にはならなかった。
「まさか勝つとはねえ」
「もっと賭けとけばよかったぜ」
帰り道、勝ったお金で食事をした。大した金額にはならなかったけど、それでも十分だった。お金より楽しい時間だ。
「今度ゴルフでも行く?」
「朝はえ〜よ」
「三連休とかならいいでしょ?」
ラーメンを啜りながら千佳子が笑う。槇はようやく出会った時と同じぐらいにはわがままを言うようになった。あの時と違うどうでもいい相手ではなく、千佳子に心を許した上でのわがままだ。
「そうだなー」
「どうせなら近くに温泉とかあれば良くない?」
「温泉かー」
「なんだったらいいのよ」
こうやって色々提案しているのにいまいち反応が良くない、と千佳子は剥れる。まあいつものことだ。
今日だって「競馬ぁ〜?」と非常に面倒くさそうだった。休日は一緒にいないと寂しいみたいなことを言ってたくせにこれまではどこも行かずにゴロゴロするばかりだった。クリスマス時はイルミネーションを見に行ったり、年明けはセールに借り出したりとなんだかんだ連れ回すようになったのは二日も家でゴロゴロ引きこもるのは千佳子の休みの過ごし方に反するから。寒いからと出て行かないのは余計にストレスが溜まる。よって千佳子がこうやって無理に連れ出している。
「じゃあ何処だったらいいのよ」
店を出た帰り道手を繋ぎながら歩いた。最近は外で手を繋ごうとしても嫌がらなくなった。付き合った当初は嫌がられた。それで喧嘩もしたのだ。手を繋ぎたい千佳子と恥ずかしくて繋げない槇だ。
「袖を掴むのはいい」と言われた時はいつぞやの女を思い出して千佳子がキレた。まあ彼女とワンナイトの女を同列に扱うなということだ。
ただ槇にしてみれば恥ずかしいだけで同列に扱ったつもりはない。二人でよくよく話をして、結局「別に裸を見せるわけじゃないのに」と千佳子が拗ねて剥れたところで軍配が上がった。
槇はだんだん千佳子に甘くなってると思いつつも、昔のように突っぱねることができない。それに「わかったよ」と言うだけで千佳子が嬉しそうにするのだ。
同じ40を過ぎた女なのにこんな顔を見るとつい可愛いな、と思ってしまう。そう思ってしまうあたりだいぶ自分は毒されているし、この関係に馴染んできたんだろう。
「んー、千佳ん家は?」
恋なんて知らなかった。本当の意味で、恋など愛など知らなかった。
いや、知ろうとも知らなかったし知りたくなかった。
「私の家?」
「あー、そっちじゃなくて実家」
実家?と千佳子が首を傾げる。だけど直ぐに理解したのだろう。
「ええ?!」と声を上げた。
「いや、期待させて悪いけど今はまだそういうんじゃない」
「…だったらなんなのよ」
一気に舞い上がった気持ちが萎む。若干泣きそうになりながら槇を見上げた。
「ただ、ちゃんと付き合ってます、って言った方がいいんじゃねえかって。この年齢だし好きにしろって言うかも知らねえけど、相手いるって知ってるのと知らないのとでは違うだろうし」
槇は苦笑しながら解かれた手に自分の手を差し出した。
「ほら」と言いたげな手に千佳子が自分の手を伸ばす。
「……どうしたの?頭でもぶつけた?」
「うるせー」
「いや、嬉しいんだけど、その、そんなこと、考えてなかったから」
千佳子の目にぶぁあと涙が浮かぶ。泣かせるつもりはなかったのにまさかこんなところで泣くなんて、と槇が困った。周囲は「喧嘩?」とすれ違いざまにじろじろと見ていく。槇は仕方なく、千佳子の手を引きながら歩き出した。
「…泣くほどのことかよ」
「あったり前でしょ!!!」
千佳子は泣きながら怒った。槇と一緒にいたくて結婚なんか諦めていた。第一親に会わせるなんて考えたことがなかった。そんなの期待させるに決まっている。でも槇は確かに「今はまだ」と言った。それは「未来はわからない」と言うことだ。そしてそれはつまり将来を共に歩む可能性もあるということでもある。
「だって、一度も”好き”って言わないじゃない」
槇はこの道を歩く度に酔っ払いに絡まれてやり返す千佳子を思い出す。そしてその後食べた紅しょうがと七味で真っ赤になった卵まみれの牛丼をふたりで分けて食べたことも。
実はあの後、もう一度同じものを食べたくて同じように注文した。
でも一人で食べても全然美味しくなかったのだ。一回冷ましてチンするという同じ工程をまでふんだのに。
「…そうだっけ?」
下手くそな惚け方だな、と自分で言って苦笑した。千佳子はキッと目を吊り上げて怒っている。
「わたしのこと好きでしょ?」
「うん」
「ほら!!」
いつもこうだ。「うん」しか言わない。
槇もそれを自覚していた。そしていつか千佳子にそれを指摘されるだろうと言うことも。
そして、それまでは言わないでおこうと思っていた。だって言ったことなんかない。告白なんて無理だ。動物みたいにセックスだけしていれば楽なのにどうしてこう人間には言葉があるんだろう。いや、もしかすると動物にも彼らの中で言葉はあるのかもしれないが。
「でも一緒にいるだろ」
「いるけど!」
「セックスもする」
「するけど!!」
でも聞きたいのだ。槇の声で槇の言葉で。それを望んではいけないのか。千佳子は奥歯を噛み締めながら槇を見上げた。
しかし、千佳子はそれを言葉にできなかった。槇浩平はこういう男だ。大事なことは決して言わない。のらりくらり躱す男だと。初めからわかっていたことだ。ただ、そんな男もこうしてここまで教育したのだ。付き合って半年。間も無く出会って一年経つ。千佳子の目にまたぶぁあ、と涙が溢れた。
「…千佳」
「…なによ」
春を告げる冷たい空気が頬を撫でる。鼻の奥をツンと突くような冷気がまた涙を誘った。
「俺、お前を傷つけるって言ったよな」
千佳子の心臓がドキンと大きく鳴った。嫌な汗が吹き出してくる。
間違ったのだろうか。これ以上まだ求めてはいけなかったのか。千佳子は緊張しながら槇の次の言葉を待つ。
「多分、お前は俺の知らないところでたくさん傷ついてきたと思う。ごめんな」
「…な、によ。別に傷ついてないわよ」
「そうやって強がってきたんだろ。俺はそんな千佳に甘えっぱなしだった。きっとこれからもそうだと思う。自分なりに譲歩しているつもりだけど、こうやって40年以上生きてきたから直ぐにそれに応えられなかった。悪いな」
槇は涙を流しながら首を横に振る千佳子を抱き寄せた。
思えば千佳子は自分の前でよく泣く。普通40も過ぎればというか大人になればなかなか泣かないものだが、彼女の涙はよく見た。
そしてその原因は全部自分だった。自分が千佳子を泣かせているのだ。昔の自分なら「ピーピー泣くなら寄ってくるな」と思っただろう。「泣くのがうざい」と思っていた時もある。
だけど、千佳子の涙は苦手だった。
自分までとても苦しくなるからだ。こっちまで泣きそうになるぐらい、千佳子の涙は槇にとって悲しかった。そして、その涙を作る原因である自分にも腹がたつこともある。
どうして俺は彼女を泣かせてばかりなんだろう、と。自分の不甲斐なさに打ちひしがれて、その度にどうしたら千佳子が笑ってくれるか、喜んでくれるのかを考えた。
千佳子が付き合ってきた歴代の男たちはきっと槇よりスマートにもっとちゃんと付き合ってこれたはずだ。もっとうまくやりたいのに、できなくて、この半年は本当に落ち込むことばかりだ。今だってもっと良い言葉がきっとあるだろうに。
「……きっと千佳が思っている以上に俺は千佳が大事だ。こんなこと言ったことがねぇからわからねえけど、千佳がいるから毎日が楽しい。……多分これが好きだってことなんだと思う」
千佳子の耳元に静かな声が落ちてきた。それは本当に本当に小さな声だった。言葉を選びながら辿々しく話す槇の真剣な表情に見惚れた。
どこか調子良くて適当で自分勝手な槇が、千佳子の気持ちに寄り添おうとしてくれる。まだまだ不器用で、全然格好良くない。これまで付き合ってきた彼氏と比べてもスマートどころか、ボコボコだ。
でもそれで良かった。その表情も、何か言いかけては閉じる口元も全部千佳子を真剣に思った結果。だから千佳子は静かに待った。槇が一生懸命伝えようとしてくれる言葉を一言一句逃さないように、決して聞き漏らさないように、と待ち続けた。
___これからもそばにいてほしい。
そんな懇願が千佳子の耳に落ちてきた。
さっきまで馬を応援していたせいで声がひどく掠れていて声が聞き取りづらい。それでも千佳子の耳にはちゃんと聞こえた。
「…うん、うん。いるわよ。ようやくわかったのね、私の気持ち」
千佳子があの居酒屋の座敷で告白した時に言ったことを槇は思い出していた。あの時しらばっくれたし、まったく気づいてなかったけど、きっとあの時からもう楽しかったのだろう。
「うん、わかるわ。見てて危なっかしいし、こえーもん」
「はぁあ?!」
「だってお前、告白してきたくせに他の男に抱かれるほど節操なしだし。自分で巻いたタネだけど俺はそこまでじゃねえよ」
でもそれは槇が悪いのだ。自分でわかっているから千佳子も追及しない。
ここは大人しく飲み込んだ。
「すげー怒るし、笑うし、泣くし。40過ぎてこんなに感情の起伏が激しい女逆にやべーだろ」
「うるさいわね。好きになったら仕方ないじゃない」
「…好きになったら、か。それも今ならわかるわ」
槇はフと笑うと抱きしめた腕を解いて歩き出した。目を真っ赤にした千佳子がその後ろ姿に訊ねる。
「ねえ、知ってる?それ嫉妬っていうのよ」
「あぁ。知ってるよ。すげーイラつくやつだろ」
「そうよ。他の男に会ってると気になって仕方ないのよ。あとね、自分だけのものにしたくて仕方ないの。独占欲っていうのよ」
槇はハッとして立ち止まる。ワクワク顔した千佳子と目が合った。そろりと目を逸らす槇に千佳子は口元を緩めてニマニマしながらかけよる。
「結構初めから独占欲全開だったでしょ?」
「うるせーな」
「もうあの時から好きだったでしょ?」
「っ、好きだったよ!」
「きゃああ!やった!やっと認めた!あはははははっ!!!」
千佳子は小さな子どもみたいに飛び跳ねて喜んだ。今日馬券が当たった時より嬉しい。嬉しくて大笑いしながら槇にしがみついた。
通行人に変な目で見られても気にしない。無視だ無視。
だって今、たった今、好きな人から初めて「好き」だと言われたのだ。こんなの嬉しくないはずがない。
「ねぇ、もっかい言って」
「言うか!」
槇は顔を赤くしながら「くそ」と吐き捨てた。でも千佳子がたった一度で諦めるはずなどない。「ねえ」とめげることなく槇にねだった。
「もいっかい!」
「言わねえ」
「浩平」
千佳子の期待のこもった目が槇を見上げる。
洋服やジュエリーなど強請られたことはなかった。その代わり、今こうして槇に言葉をねだっている。一番苦手なものを。
「っ、あ゛ーーーっ」
こんな風に言うと思ってなかった。
勢いだったが言った。言ってしまった。
でもどこか清々しくてそれ以上に恥ずかしい。
「…浩平」
そして千佳子はやはり逃してくれない。
千佳子にしてみればせっかくのチャンスだ。
ようやく槇の気持ちを彼の言葉で聞けたのだ。
思い出しながらではあるが、きっと槇は今相当恥ずかしいのだろう。
なんたって、結構早い段階で千佳子を好きだったと認めてしまったのだから。ただ本人に自覚がなかっただけ。
「……好きだ」
観念したように槇は細く長い息を吐き出しながら自分の気持ちを伝えた。
「とっくに好きだったわ」
その答えを聞いて千佳子は泣き笑いのように顔をくしゃくしゃにする。嬉しくて幸せで胸がいっぱいだ。その喜びを伝えたくて槇の腕にぎゅうと抱きついた。
「あー、40年生きてるのに知らないことだらけだわ」
「浩平はいろんなものから逃げてきたから仕方ないのよ」
「うっせ」
「だから私がいてあげるのよ」
ふふふと涙を頬につけたまま嬉しそうな視線が槇を見上げた。槇はそれならそれでもういいかと諦めに似た気持ちを覚える。
「だったらまあ、一生面倒見てもらうか」
「…え?」
「まあ、おいおいな」
千佳子の目にまたうっすらと涙が浮かぶ。
人生は闘いだ。
学校、恋愛、就職、結婚とライフイベントそのものが闘いである。
どんな友人と連れるのか、どんな異性を恋人にするのか。それがステータスであり自分の価値を高めるものだ。
だけど、本当はそうではない。意地も見栄も必要なかった。
本当に好きな人と傍にいられる未来があれば、大人とか子どもとか言い訳せずに素直になった方がいい。
感情を晒して、お互いの意見を伝えることが大人だとも思えるから。
end.




