大人のレンアイってなんですか?ー5
たまたま空いてた個室を大将は快く使わせてくれた。
槇の自宅まで行く時間もエネルギーもなかった。何より誰か人の気配がある方が千佳子は冷静に話ができると思う。そして、鞄で打たれた拍子に擦り傷がついた頬を槇は氷で冷やしながら不貞腐れていた。
「…暴力はだめだろ」
「それだけのことをしたって理解しなさいよ」
「…はじめから約束だっただろうが」
「気持ちなんて変わるわよ。どうして分からないの」
今までだってこういうことあったでしょう?千佳子は苛立たしげに言い放った。そんな女たちと自分が同列だなんて本当に不本意だ。こんな男に沼る自分も、こんなにも感情に乱されていることもすべて気に入らなくて認めたくなかった。
でも認めるしかなかった。否定したところで千佳子は可愛い女にはなれない。自分の気持ちを認めた以上白黒はっきりさせたいタチだ。どうせ可愛く訊ねたところで槇にはのらりくらりかわされるだけ。そもそも一回ポッキリで終わらなかった関係だから、槇だって少なくとも情ぐらいあるはずだ。
「……分かるわけねえだろ」
「嘘。私はわかったわよ。少なくとも私は内側に入れてくれてるって」
「……自惚れだな」
「じゃあ、誰でも家に居れるんだ?毎日誰かがいるのは嫌だって言っといてホイホイ簡単に家を教えるのね?」
「そういうわけじゃ」
「そう言ってるのと同じでしょ!」
はいよ、落ち着けー、と間伸びした対象の声が外から聞こえた。
気を利かせて飲み物を持ってきてくれたらしい。
「…落ち着けよ。何にそんなに怒ってるんだよ。俺の答えがそんなに気に食わなかったのか?」
「ええ。気に食わないわよ。したこともないことを想像だけで出来ない合わないっていう弱虫だと思わなかったわ」
「へいへい。俺は弱虫だよ。弱虫でいい。ってか自分のことぐらい自分で」
________バシャッ
槇は何かを諦めたように言い放った。どこか投げやりで言葉の端端から拒絶も感じた。「それでいーよ。どうでも」と内側から外へ押し出した。千佳子はそれを敏感に感じて腹立たしくて、厚意で出してもらったお茶をそのまま槇にぶっかけた。
「…ムカつくのよ。人をこんだけ振り回しておいて、向き合おうとした途端ポイってなんなの。私のこと舐めてるでしょ?」
「…舐めてねえよ」
「じゃあちゃんと向き合いなさいよ!」
「飛躍しすぎるんだよ!突然一緒に住もうってアホかってなるだろうが。一緒に住むことがお前の言う向き合うってことなのかよ、違うだろ!!」
槇の言うことは最もだった。飛躍しすぎだと言われるとそうかもしれない。
大将だけがおろおろとしている。どちらの言い分にも穴が合った。
「……知りたいって思って何が悪いのよ。もっと一緒にいたいって。……一緒にいると楽しかったから、もっと近づきたいと思ったのよ」
楽しかった。槇は無茶苦茶な奴だけど、居心地が良かった。
取り繕わなくてよかった。何より千佳子を女として求めてくれた。
たとえそれが勢いで始まった関係でも。遊び感覚だっても。
「……嫌なのよ。だって絶対他の女抱くでしょ!!すごく腹たつの!!」
千佳子の目からとうとう涙がこぼれ落ちた。この男の前で泣きたくなかった。それでも、他の女を抱く槇を想像するだけで怒りで身体が震える。自分のことを棚に上げてなんて言い草だと思うけど、そもそもこの男は嫉妬などしなさそうだ。
「……そんなこと言われてもだな、」
槇は眉を下げて苦笑する。女に泣かれるのが一番困る。
いつもならここで冷たく突き放すが、千佳子の場合それをすると余計に逆上してきそうだ。
「…仕方ないじゃない。…好きなのよ、気付きなさいよ!分かってて見てみぬ振りするな!好かれる覚悟ぐらいもっときなさいよ!」
好きだから近づきたい。知りたい。もっとそばにいたい。
そんな感情が湧くのは必然だった。だから千佳子は槇に「住みたい」と言った。自分の感情を先に伝えると逃げられると思って“貸しいち”を利用しようとした。でもきちんと理由を言わなかったせいで槇が逃げ回った。自業自得だ。それをこんなふうに感情に任せてぶちまけることしか出来ない自分にも腹が立つ。
千佳子はたった今、上がってきた階段をヒールを鳴らしながら降りていった。きっと下にいる客にも声は聞こえただろう。それぐらい噛みついた自信がある。
(もういいわよ。もう)
失恋は新しい恋で癒せばいい。言いたいことを言ってスッキリすればあとは前を向くだけだ。それでもまだ胸がもやつくのは、ここが槇と出逢った店で、グダグダになりながら歩いた景色。朝日に眩しさを感じながらタクシーの中からぼんやりと何度自宅に帰っただろう。
その度に「何やってんのかな」と思いながらも槇と過ごした夜を思い出して胸を焦がした。めちゃくちゃで自分勝手なのに憎みきれないのは、槇はちゃんと千佳子との距離感を間違わなかったからだろう。
(そもそも理想とは全然違うもの)
強いて言えば、年上で身体の相性がいいということだけだ。
家事はしたくない、性格は雑、ズボラ。デリカシーがない。
(…そうよ。結婚したい男を探さないといけないのに)
こんな典型的なダメ男に沼っている場合ではない。千佳子にはタイムリミットがある。40歳。結婚するなら子どもは欲しい。でも本当に欲しいかと聞かれると正直わからない。自分が結婚して誰かと一緒に暮らしていることすらイメージがつかない。でも槇とは、なんだかんだと言いながらもソファーでダラダラしながら過ごしている自分達をイメージできたのだ。
_______っ、!
前のめりで早足に人波を縫うようにして歩いていく。少し俯き加減で歩いているせいか誰も千佳子が泣いていることなど気づかないだろう。誰とも目を合わせないように、この場から逃げるように大股で歩く。
_______っ!!
遠くから誰かに呼ばれた気がしたけど、千佳子は歩きながら横目で周囲をうかがってすぐに気のせいだと思い直した。
(来るわけないのよ。あいつが)
期待するだけ無駄だと千佳子は知っている。
あー言う奴は結局なんだかんだ自分の意見を貫き通すのだ。
千佳子だった数日後には「すげー勘違い女に追いかけ回されてさ」なんて話のネタになっているかもしれない。職場と自宅の間だったのもありとても便利だったけど、しばらくはもうこのあたりに飲みにこない方がいいかもしれない。
(もう一生顔も見たくない)
「千佳子さん!!」
はっきりと聞こえた声は、期待していた声とは異なった。「一生会いたくない」なんて言っておいて、彼とは違う声を聴いて落ち込む自分が嫌になる。
「やっぱり、千佳子さん。…はや、って、何かありました?!」
はぁはぁと肩で息をしながら千佳子を追いかけてきたのは佐野だった。
佐野は千佳子の腕を掴むと「止まってください」ともう片方の手を膝に付く。
だがすぐに千佳子が泣いていたことに気がついたのだろう。ギョッとして掴みかかるように千佳子の両肩を掴んだ。
「どうしたんですか!?一体何が…!もしかしてどこが痛いんですか!?」
あまりにも支離死滅な佐野に千佳子は眉を下げた。佐野と話す気分ではないけど少しは笑う余裕があったようだ。
「…どこも痛くないわ」
「でも」
泣いてるじゃないですか。
佐野は千佳子の両頬を包むと親指や手のひらの柔らかい部分で溢れた涙を優しく拭った。
「…話したくないなら話さなくていいです。でも、このまま一人にはできないですよ。少し落ち着くところへ行きませんか」
ね、と小さな子どもに言い聞かせるように宥めた佐野は千佳子が否定しないことをいいことに手を取って歩き始めた。千佳子は叱られた子どものように俯いて黙ってついていく。
「…そいつ、誰だよ」
俯いて歩いていたせいか千佳子は佐野が元来た道を戻っているとは思わなかった。ここはいつもの居酒屋の近くの交差点だ。ちょうど信号が青になり横断歩道を渡ろうとしたところで後ろから腕を掴まれた。
「お前だって人のこと言えねーだろーが」
槇が苛立ちを露わにしながら千佳子を責める。千佳子が口を開こうとしたところで「パン!」と乾いた音が聞こえた。
「はい、ここまで。続きはどこかに入りましょう。えーっとあなたが、千佳子さんの想い人でいいですか?」
そう尋ねられると槇は「うん」とは言えなかった。そろりと千佳子に視線をやる。千佳子は不貞腐れた子どものように真っ赤になった目を逸らした。
「で、お二人の間に何かがあって千佳子さんが泣きながら歩いているところで僕は出会しました。佐野と言います。とりあえずどこかに」
結局槇と千佳子は数分前に出たばかりの居酒屋に逆戻りすることになった。佐野は「こんばんは」とナチュラルに会釈して店に入ると二人を追い立てるように席に向かう。
千佳子はとても気まずくなり「先ほどはすみませんでした」と大将に謝罪した。
「いーって!ただの茶だし、ほとんど槇くんが被ったからうちに被害はないよ!」
ハハハハハ、と笑う大将は懲りずにまた飲み物を準備してくれた。
今度は佐野の分も合わせて三つだ。
「で、えーっと」
「佐野と申します。先ほど千佳子さんが泣きながら歩いているところを見かけたのでどこか落ち着く場所を探していました」
「なるほど」
大将は新たな登場人物に驚きながらも佐野を受け入れた。もちろん内心面白がってはいるが、千佳子と槇のふたりがどう結論を出すかによってリピーターが減る。それは困る。
「平日だし、この時間だし、この部屋は使ってくれて構わないよ。あ、佐野さん。二人が殴り合いになったら止めてくれるかい?」
「う、腕には自信がないですが」
「見るからに喧嘩慣れしてなさそうだもんな」
大将が苦笑する。佐野と和やかな雰囲気を作っているのに、千佳子も槇もぶすくれたままだ。
「…もういい。もういいわ。もう」
千佳子はまた溢れそうになる涙を雑に拭うと立ち上がった。
「ハッキリしない男は嫌いなの。そこまでして認めたくないんでしょ?」
「…認めたくないって」
「どう考えてもヤキモチじゃない!“お前だって人のこと言えねー”って、そういうことでしょ?!自分のことを棚に上げて人を責める権利はないわ!」
「その言葉そっくりそのまま返してやるよ」
「だったらもうとっととくっつけばいいだろうが。何をそんなに揉めてるんだよ」
大将が呆れるように本音をこぼした。その瞬間ピキリと三人が固まる。
「大将、それはダメです!僕は千佳子さんとお付き合いしたいんですから」
「え?やっぱり?だったら掻っ攫っちまうか?」
「それができればいいんですけど、彼女がこの状況で無理やり連れ込めるほどクズではないです」
「それはクズとは言わねえけど・・・」
大将がチラッと槇を見る。槇はハッとして目を逸らした。
「好きだけど一緒に住みたくないんですか?」
「……」
「結局はヤリたい時だけそばにいれればいいという思考ですか?」
「……っ」
「だったら千佳子さん、僕と一緒に住みません?そしたら彼のこと忘れられるでしょう?」




