分かってるけどわかりたくないー8
認めたくない。認めたくないけど千佳子はこの胸の締め付ける感情の名前を知っていた。遠の昔に感じたものだ。会えば嬉しくて、でも素直になれない。憎まれ口を叩くのはいつも素直になれないから。
特にこんな男性、槇のように普段から喧嘩越しのような相手にはどんな顔をすればいいかわからない。初めからお互い「結婚を前提」のお付き合いならもう少し何か違ったかもしれないが。
でも二人はたまたま居酒屋で知り合った。成り行きで身体を重ね、お互いのいいような関係を作った。千佳子は婚活の息抜きに。槇は都合のいい関係を築ける異性を求めて。
しかしもうこのままの関係を続けるのは難しい。今更見て見ぬふりはできない。
隠し通すことが苦しいならいっそもう吐き出した方が楽だ。
千佳子は帰り際、槇のせいで汚れたスーツが入ったクリーニング屋の袋を受け取った。元々はこれを渡したくて槇は千佳子に連絡したのだ。その話を聞いて千佳子は呆れる。その時ひとついいことを思いついた。今しがた認めてしまった気持ちをなんとか通じ合わしたくて閃いた。
千佳子の不安は槇の気持ちがわからないこと。
でも、槇もきっと自分を嫌ってはいないはずだ。ひとつ踏み込んでみた。
「ねえ、あの貸し返してもらっていい?」
「貸し?」
「あの女から匿ってあげたでしょ?自分で『貸しいちにしてくれ』って言ったこと忘れてるなんて言わせないわよ」
千佳子が笑顔で問い詰めるものだから槇は慌てて「お、おう」と頷いた。例え忘れていたとしても「忘れていた」と素直に言えない。おまけにあの事件を牛丼と自宅に泊めたこととクリーニング代で手打ちにしてもらったつもりだったなんて死んでも口に出せなかった。
「…お、俺にできることなら」
槇は若干引き気味にわかったと頷いた。
この男、寝る時は大概自分主導だがこういう隙があるから変な女に付き纏われるのだろう。
千佳子は自分のことを棚に上げて内心毒づく。そして過去の女たちとの所業を考えるとなんとなくムカムカした。
千佳子はこのどす黒い感情がなんなのかも知っていた。
なんという名前でどういう時に感じるのか、嫌というほど知っていた。
若かりし頃は彼氏ができるたびに感じた。千佳子自身束縛は嫌いだが、度を越さなければ愛情表現とも受け取れる。逆に全然束縛がないと不安にもなる。 つまり、「嫉妬」というとてつもなく面倒くさくてくだらないもの。
しかしその感情を認めてしまった以上、千佳子は見て見ぬふりなどできなかった。また先日のように言いよる女が出てくるかもしれない。この間はたまたま自分がいたからよかったものの、そう何度もうまく撃退できない。
「…しばらくここで生活させて」
「はぁ?」
「あ、もちろんその間の家賃は半分払うし」
「いや、意味わかんねえし」
槇は唖然としながら千佳子を見ていた。その目は真偽を探るものだ。
だが千佳子の目が真剣でふざけているわけではないと理解したらしい。
「どうしてそこに至った?」
「手っ取り早いかなって」
「いや、そこを省略するなって言ってるんだよ」
意味がわからねえ、と槇はガシガシと頭をかく。
「あのエンジニアは?」
「まだ付き合ってないし。とりあえず出かけはするけど」
「俺はなんなんだ?」
「…セフレ以上恋人未満?」
「…その境界線は?」
槇は頭が痛いと額を抑えている。千佳子は少し躊躇って答えを出す。
「……気持ちがあるかないか、かな?」
「なるほどな。仮に俺がお前に気持ちがあったとしたらそれは恋人になるのか?」
「え?あるの?」
「仮にと言っただろうが!仮に!」
槇が「ちゃんと聞け!」と怒る。
千佳子は「はいはい」とわざとヘラりと笑った。
わかっていたけどちょっとだけ傷ついた。
それほどまでに「仮」を強調しなくてもいいだろうに。
「あー、はいはい意味はわかった。でもそれはなし」
槇は盛大に吐いた溜息と呆れた表情を隠しもせず、面倒くさそうにシャットダウンした。少しも考える素振りがなかった。ただ「頭が痛い」という煩わしさだけだった。
「……どうして?」
「俺は今のままでいい。だいいち、こういう気楽な関係をはじめに提案したのお前だろ。婚活の息抜きとかって」
槇の言葉に千佳子は奥歯を噛み締める。槇の言う通り、千佳子が自分で提案した。今回の貸しを返す、というのはその提案をひっくり返すことになる。
「人の気持ちは変わるわ」
でもそれの何がいけないのか。
槇と一緒にいて楽だった。居心地がよかった。そして自分の気持ちに気づいた。気づいたら行動せずにはいられなかった。この鈍ちんにハッキリ言わないとこの先の関係を築けないと思ったから。
「俺は残念ながら変わらねえ。会いたい時に会って、飯食って、セックスして。それでいいんじゃねえの?そもそも俺は結婚する気はねえ」
線引きされた。
わかっていたことなのにずしりと重しが乗る。
つまり、自分を結婚相手の候補に入れるな、という槇のメッセージだ。
千佳子はぎゅっと手のひらを握りしめた。
「……そんなに嫌なの?私と住むの」
一緒に過ごした時間が楽しいと思ったのは自分だけだったのか、と言いそうになって無理矢理言葉を飲み込んだ。悔しい。そう思っていたのが自分だけだったなんて悔しくてたまらなかった。あれだけ人を好き勝手に、と詰ってやりたい感情と理性がせめぎ合う。
「……誰とも一緒に住んだことねえから正直分からねえよ」
そんなんじゃねえ、と槇は今日何度目になるかわからない溜息をつくと片手で顔を覆った。そんな槇に千佳子はもう一度プッシュする。
「だったら住んでみればいいじゃない」
「だから嫌だっつってるだろうが」
「何が嫌なのよ!はっきり言いなさいよ!!」
千佳子は畳み掛ける。「これはきちんと言わなきゃ終わらねえな」と槇は面倒くさそうに言い放った。
「自分のテリトリーに毎日誰かがいるのが嫌なんだよ。だから結婚もしないししようとも思わない」
「……後輩が羨ましかったんじゃないの?」
「羨ましいとは思った。でも俺には無理だとも同時に思ったな。自分の時間なんてほとんどない。俺はわがままで気まぐれだから、誰かの人生に責任なんてもてない。結婚ってそういうものだ。だから俺は羨ましいと思う反面向いてねえって諦めてる」
だから期待しないでくれ。
槇はそう言うと「帰れ」と千佳子を促した。
そして千佳子を見送ることなく先に部屋に戻っていく。
千佳子は槇の言葉に何も返せないまま込み上げてくる涙を無理やり抑え込んで乱暴に部屋の扉を閉めたのだった。




