分かっているけど分かりたくないー5
「お姉さん、ひとり?」
牛丼屋の外で待っていると、店から出てきた酔っ払いに絡まれた。
千佳子はわざとらしく酔っているふりをする。
「男待ちでーす」
「え、すごい酒くさ!って汚れてんじゃん!冷たいでしょ?ホテル行く?」
「てめえとは行かね…っもがっ」
「はいはいお待たせしました。悪いね、君。彼女ちょっとイラついててさ。あと酔ってるからあまり近づかない方がいいよ」
全身で男を威嚇しようとした身代わりの速さに男はビビった。だが、ちょうどよく店から出てきた槇が千佳子を抑え込む。慌てて逃げていく男から「まじやべえ」と聞こえた気がするが誰に向かって言ってるのか、千佳子は憤慨した。
「お前、本当にやべえやつだぞ」
「いーのよ。変な人だと思われる方が変な奴寄ってこないし」
「おまわり来るだろうが」
「職質されるかもね、フフフフフ」
それすらも楽しんでいる千佳子に槇はげんなりする。
「さあ、帰るぞ!」と意気揚々と歩き始めた背中を見て槇はやれやれとため息をついた。
「ふーさっぱりした。ありがと」
千佳子は槇の自宅に上がると、もう慣れたように浴室に直行した。
バスタオルのある場所は知っている。槇に着替えは借りるつもりだ。
ついでに先ほどコンビニで槇にメイク落としと下着を買わせた。
槇に「文句言うなよ」と言われたがコンビニの下着なんて誰も期待していない。
「みそ汁さめちまったぞ」
「チンするからコップ借りるね」
「へいへい。好きにしてくれもう」
背中まである髪の毛をバスタオル包み込みターバンみたいに巻いた頭で千佳子は槇の部屋着を着ていた。下着はコンビニ。顔はすっぴん。
千佳子はあまり使われた形跡のないキッチンからマグカップを拝借すると容器からみそ汁を移してラップをかける。
電子レンジで温めている間に牛丼の準備をした。
だがこちらも冷めていたため温めようと開けた蓋をふたたび閉じる。
牛丼を食べていると風呂から上がってきた槇が冷蔵庫から缶ビールを取り出した。それを見た千佳子が食べながらもしゃもしゃと「私にも」と手を伸ばす。槇は嫌がる素振りもなくもう一度冷蔵庫を開けてビール缶をひとつ取ると、千佳子の隣に腰掛けた。
「一口くれ」
「そのつもりで特盛にしたんでしょ」
「バレたか」
「さすがに多いと思うわ。しかも卵ふたつあるし」
「俺は卵だらけが好きだからな。って真っ赤じゃねえか」
「私は紅生姜が好きだからね。ついでに七味もてんこ盛りにした」
牛丼は卵の海に紅生姜だらけだ。ついでにそこかしこに紅と黒の粒々が散らばっている。槇がうへえ、と言いながら千佳子の手から箸と牛丼を奪う。千佳子は缶ピールをプシュッと開けてグイッと飲んだ。
「お箸あるでしょ?」
「開けるの面倒臭え」
子どもか、と千佳子は眉間に皺を寄せる。
そんな千佳子の視線をもろともせず、槇はいつもより紅生姜と七味が良く効いた牛丼を口に入れた。もしゃもしゃと咀嚼しながらごくりと飲み込む。
「…。意外とうめえな」
「でしょう?お酒にも合うしね」
槇は旨いとわかると大きな口でガポガポと牛丼を頬張り始めた。男はこれぐらいガサツでいい。そこに男らしさを感じて千佳子はじっと見る。だが槇は、「食べ過ぎ」と咎められると思ったのだろう。唇の端に米粒をつけて「はいよ」と返してきた。
「もういいの?」
「一旦返す」
「ふーん」
千佳子は槇から牛丼を受け取り大きめの肉で紅生姜と米を包んで口に入れる。シャリシャリの紅生姜とつゆの染み込んだ牛丼が千佳子の空腹を癒してくれた。
「ねー、泊まってっていい?」
今夜の槇は千佳子のお願いをすべて叶えるつもりだった。さすがに程度というものはあるが、酒をぶっかけられたことを予想以上に咎められることもなく、シャワーを貸して牛丼を買っただけだ。下着とメイク落としを買わされた時はなんとなくそんな気はしていたが、風呂に入り小腹を満たした彼女はもう動きたくないとソファにぐったりと背中を保たれかかせ、いつもシャンとしている姿勢がひどく崩れている。
「…いいけど、明日仕事だろ?」
「出る時一緒に出るわよ。あ、クリーニングよろしく。あとこの服借りてっていい?もちろんタクシー呼ぶけど」
いいけどさ、と呆れれば千佳子はよいしょ、と立ち上がる。
そのまま「ふぁあ」とあくびをすると自室に戻るように先にリビングを出たのだった。
当たり前のように槇の寝室に入り自分のベッドのように潜り込む。千佳子はそんなことを遠慮するタイプではない。
そもそも今夜の槇は何を言っても許してくれそうな雰囲気を醸し出していた。さすがに一定のラインはあれど、千佳子はもう睡魔に負けたのだ。たとえそのことがなくても槇は許してくれそうな気がした。ただの勘だ。そもそも元を辿ると槇がこの家に先に連れてきた。ホテルを探すのが手間だからというなんとも言えない理由だが、どんな些細な理由でさえ、少しは内側に入れてくれている証拠。千佳子はその辺りを敏感に感じ取ってギリギリのラインを責めているつもりだった。
(さて、寝るか)
千佳子が槇のベッドに潜り込んで間も無くこの家の主人が入ってきた。我が物顔でベッドで目を閉じている姿を見てまた呆れる。
「もっとよってくれ」
「落ちるじゃない」
「俺が落ちるわ」
「そんだけ空いてたら落ちないでしょ」
千佳子は文句を言いながらもよいしょと少し身体の位置をずらした。
槇は「サンキュ」と言いながら「はぁ」とあからさまに溜息をつく。
「…なによ」
「いや、悪かったなと」
「…どうしたの?熱でも出たんじゃない?」
千佳子は手を伸ばして槇の頬に触れた。
槇は「あのなあ」と視線だけこちらを見る。
「…なによ、言いたいことあるんなら言いなさいよ」
「……なんでもねえよってか早よ寝ろ」
「話しかけてきたのはそっちじゃない」
「うるせー。こっちだって予想外なんだっつーの」
「だからなにがよ」
「言わねえ。ってかマジで寝ろ。もうそんな若くないんだから」
「私より三つも上のくせに人を年寄り扱いしないでよね」
「はいはい、俺の方がジジィだよ。もういいだろ」
槇の腕が伸びてきてぎゅっと抱き込まれた。
驚いて見上げるとちょっとだけ目を吊り上げた槇と目が合う。
「黙れ」
「…わかったわよ」
だけど千佳子は急に抱き寄せられた腕に胸の高鳴りが止まない。
目を閉じて寝たふりしていたもののさっきの睡魔は呆気なく飛んでいった。しばらくして槇の寝息が聞こえて余計に彼を疎ましく思うぐらいにはこの場をどうしようか悩んだ。
翌朝、いつの間にかぐっすりだった千佳子はコンタクトでパサついた目をしょぼしょぼさせながらリビングに向かった。槇はすでに起きており、シャツにスラックスとすでに着替えている。
「…はよ」
「おう。コーヒー飲むか?」
「そうね」
千佳子は「んーー」と目を閉じたまま軽く伸びをした。目の中がゴロゴロする。やっぱりコンタクトを外せばよかった、なんて呟けば槇から「だったら早く帰れ」と言われた。
「そうするわよ。あ、私の携帯は?」
「知らねえよ」
「コンセントある?」
充電あったかな、と千佳子はリビングに置きっぱなしの仕事用の鞄の中を漁った。プライベートの携帯は予想通り充電が切れていた。槇は「そこ」とコンセントの場所を指す。千佳子は言われるがままコンセントに充電器を挿すと携帯を充電し始めた。
「あと何分で出る?」
「30分」
「じゃあそれまで充電させて」
好きにしろ、と槇はソファーに座りながら新聞を読んでいた。
複数新聞を取っているらしい。
千佳子も隣に腰をかけると、すでに読んだと思われる新聞に手を伸ばした。
「先に顔洗ってこいよ」
「そうね」
だが千佳子は新聞をペラペラと捲るだけだ。槇は促すことも面倒くさくなり、そのまま放置することにした。
「おい、そろそろ出るから用意しろ」
「はいはい。あ、タクシー呼ばなきゃ」
携帯が少し復活したので配車アプリを開く。早くて五分後に来れるらしい。以前槇の自宅から自分家に帰るときにここの住所を登録していた。おかげですぐにタクシーが捕まりそうだ。
「五分後にくるって」
「じゃあそれに合わせて出るか」
槇は袖のボタンを止めながら時計をちらりと見る。千佳子はもう下に降りてもよかったが、この格好で待つ姿を見られることは正直嫌だった。
槇の気の利く言葉に甘えながらメッセージアプリを開く。すると昨夜佐野から連絡が来ていたことに気づいた。
「降りるぞ」
「うん」
「なんだ、男か?」
「う…ん」
文面を読みながら返事をしたせいで取り繕うことも忘れて返事をしてしまった。だが、別に悪いことはしていない。ちゃんと槇には婚活宣言しているし、それまでの関係だと槇自身も割り切っているはずだ。
それに千佳子が言い出したこと。槇は自分を取り繕わなくて良い相手で、気を遣い結婚相手を探し回る束の間の休息の相手だ。だから別に罪悪感を抱く必要はない。ないのだけど少しは妬いて欲しいな、なんて思ったりする。
そんな千佳子の願望が少しだけ伝わったのか槇の雰囲気が若干ピリッとしたものに変わった。千佳子は人の心に過敏な方だ。多分。自意識過剰じゃなければ槇の中で自分は気に入られてる部類だとは思っている。
ただそれは槇の噛み癖を理解した上で男女の関係を受け入れているという理由もあるだろう。あとは、何か買ってくれとねだったり甘えたりしないからだと思っているので本当にただの都合のいい女だ。
「ねえ、ちょっとは妬いてくれてるの?」
「ぁあ?んな訳ねーだろ」
「だってなんか怖いし」
それでも一応つついてみることにした。この反応で千佳子の出方も変わる。 だが、槇ははぐらかすように「さっさと降りるぞ」と千佳子を自宅から追い出した。それが照れ隠しなのか本気なのかまではわからない。
一方槇は槇でなんだか面白くない気持ちに自分で戸惑っていた。どこまで本気なのか自分でもわからない。もちろん千佳子もどう思っているかなんてわかるはずがなかった。
鍵を閉めながら伺うように見るすっぴん40歳の独身女を見下ろす。
なんでもないふりをして敢えてその話題に自分から突っ込んだ。
「んで、どんな男だよ」
「え?どんなって」
「なにしてる奴だって。仕事だよ」
「え?なに急にどうしたの?お父さん?!」
「こんな娘いらねぇ」
槇は千佳子を睨みながら鍵を閉めるとエレベーターホールに向かう。
千佳子は槇の隣を歩きながら佐野のことを話した。
「ほら、この間言った人」
「あー、なんだっけ。エンジニア?」
「よく覚えてるわね」
「ひとりしか聞いてねーからな」
「今度ビール工場の見学に行こうって」
「小学生か」
「なんか試飲とかできるらしいよ。ビール検定持ってるんだって」
「何でもかんでも検定を作ればいいわけじゃねえっつうの」
それには同感だ、と千佳子は笑う。
「お前を大事にしてくれそうな奴なのか?」
「んーどうだろう。優しいとは思うよ。フルリモートだから家に引きこもってるっていうし浮気の心配はなさそう。料理も作ってくれるらしいし」
「浮気なんて今の時代どこでもできるだろーが。まあ楽しんでこいや」
エレベーターがちょうど地上に到着する。
エントランスの前に既にタクシーが停まっており、千佳子が近づくと後部座席の扉が開いた。
槇は「クリーニング出来上がったら連絡するわ」と言って手を振る。
千佳子はなんとなく槇が離れて行ってしまう気がして閉まりゆく扉からその後ろ姿を目で追いかけた。




