分かっているけど分かりたくないー4
「いらっしゃい!」
いつものようにカラカラとスライド式の扉を開ければカウンター内のスタッフと目が合った。この店は槇との待ち合わせ場所に週末にしか訪れない。
そのせいか顔馴染みのスタッフは「珍しい」とありありと表情に出していた。
「お。なんだ来たのかい」
「わたしが来ちゃダメですか」
はいよ、とおしぼりを渡されて荷物を置いて受け取った。
だが次の言葉に千佳子は目を細める。
「いや、そこに槇くんも来てるんだよ。ホラ」
まさか今夜もいたのか、と千佳子が目を丸くする。
だが、槇の隣には見知らぬ女性が座っていた。どう見ても知らない人というよりは顔見知りのようだ。
「仲良さそうで何よりです」
「これが正妻の余裕」
槇と千佳子が付き合ってもいないことを彼らは知っている。
だが毎週末、ここで飲んでいたら自ずとなんとなく二人の関係はわかっているだろう。
「槇くん、千佳子さん来たよ」
「え?!千佳子??」
誰〜?その人〜?と隣の女が猫撫で声を出す。
パッと見30になるかならないかわからないぐらいだ。
あざと可愛い女子を演じているのか、ぶりっ子も大概にしたほうがいい。
(めちゃくちゃ嫌いなタイプ)
千佳子はなんとなく面白くない気持ちを抱いた。
ふたりは特に付き合っていないので別に誰と飲もうが寝ようが文句を言える立場ではない。それに槇は千佳子が佐野と付き合えばこの関係が終わると言っている。当たり前だが、それを少し寂しいと思ってしまった千佳子なので、今この状況は非常に不愉快だった。
そんな千佳子の不満に気づいたように槇は言い訳しようとオタオタしている。別に言い訳なんてする必要はないのに、と内心ツッコミながらもその余裕が崩れたことで少しだけ胸が空いた。
いつものたこわさとビールを頼む。小腹がすいたのでご飯物のメニューも開いた。その時カタンと椅子が引かれて隣に誰かが座る気配がする。誰だろう、と横目に見ればまるで許しを乞うように千佳子の様子を伺う槇だった。
「え?なに?どうしたの」
(匿ってくれ)
槇は小声でそう言うと、ちらりと視線を元の席に戻した。
元の席の隣ではぶりっ子女が頬を膨らませて睨むようにこちらを見つめている。
(そんなの自業自得でしょ)
(冷たいな。貸しいちでいいから)
しょうがないな、と千佳子はどこか胸が弾む感覚を無理やり抑え込みながら「で?」と呆れた視線をそのまま槇に向ける
(何をすればいいの?)
(…付き合ってるフリ?というかあの女が諦めたらそれでいい)
槇も特段何をすればいいかと具体的な対策はなかったらしい。
苦虫を噛み潰したように苦笑する。過去に一度関係を持ってしまい、偶々先日再会したらしく、この店によく来るようになったとか。
(呆れた。また食ったんでしょ、どうせ)
千佳子は槇に追求しながら自分の胸がヒリヒリと痛むことに見て見ぬふりをした。あれだけ自分とヤッておいてこの男はこんなにも節操なしなのかと殴りたくなる。
(…それは千佳子と出会う前だったし)
(ふーん?)
千佳子はそういう面で男の言うことは信じない性だった。
なぜならあれだけ性欲が有り余っているのだ。
千佳子と会う前にしろ、会った後にしろ、今の二人の関係で千佳子はそのことを咎める権利はない。
「大将〜、焼きおにぎり2個」
「はいよ」
「俺も食うからあと2つ追加で」
「ひとつお茶漬けにするのでその様にしてもらえる?」
「だったら俺も」
なんだこの真似っこは。千佳子が信じられないものを見るように槇の顔を見る。だが槇はニヤニヤと笑うだけ。その代わり、ぶりっ子女がすごい形相でこちらを睨んでいた。
(やだ。怖いんだけど)
(怖かねーよ。自分が一番でチヤホヤされたいお子ちゃまなだけで)
(いるわよね、そういう面倒臭い女)
「ちょっと、聞こえてますけど!何こそこそ喋ってるんですか、堂々と言いなさいよ、堂々と!」
キィっと悔しそうな金切り声が聞こえた。その瞬間、周囲の客たちが声の主に注目する。
「うるさい」
「黙って食え」
「食わないなら帰れ」
「営業妨害はんたーい!」
「槇さんは千佳子さんと仲良しなんであんたの様な女が出る幕なんてねえよ」
まさかの周囲からの援護射撃だ。主にスタッフと常連だが、言われた本人は顔を真っ赤にしている。
「嬢ちゃん、悪いけどここはキャバクラじゃねえんだ。酌は自分でするし、シナを作って寄りかかる様な下品な店じゃねえ」
大将が笑いながら「GO OUT」と玄関に視線を向ける。
ぶりっ子は「ふん!」と鼻息荒くしながら椅子から立ち上がると荷物を引っつかんでヒールをカツカツと響かせながら扉に向かった。
「つめっ?!」
「それは違うだろーが!!」
だが、ただ逃げ帰るのはその女のプライドが許さなかったようだ。
槇のテーブルに置いていた中身がまだ半分ぐらい残っていたお茶割りのグラスを千佳子めがけてぶっかけた。タチが悪いのはそのグラスを鞄の影に隠して持っていたせいで誰も気づかなかったこと。おかげで初動が遅れて避けることもできずに千佳子の右半身は真緑の液体を被った。
「これ訴えたら勝てるかしら?」
「名前と住所が分かればいけるんじゃねえ?」
もちろんその女は「フン!」と鼻息荒く千佳子を睨むとグラスをその場に叩きつけて粉々にして店を出る。あまりにも酷い状況に店内はみんなポカーン状態だ。誰も一言も言う間もなく、ガラガラピシャン!!と扉を盛大に閉めた。閉めた扉は勢い余って半分ほど開いてしまうぐらいだ。
「千佳子さん、申し訳ない」
「あ、いや。大将が悪いわけではないと」
「いやいや。いくら本音でも従業員を止められなかったのは私の責任です」
「悪い、千佳子。俺が巻き込んだ」
「本当にね!」
千佳子は今回の原因は全てこの男にあると思っている。
一応悪いと思っているらしいが「やれやれやっと離れていったぜ」とどこ吹く風だ。スタッフが温かいおしぼりを持ってきてくれる。
「大将、焼きおにぎりもう作り始めたか?」
「おーいどうだ?」
「まだっす!」
「悪いがキャンセルで。あとあの女の会計も一緒でいいからチェックして。千佳子お前は帰れ。風邪ひくし普通にクセェ」
「誰のせいでしょうね!?」
「俺のせいだってわかってるよ。悪かった」
「全っ然悪いと思ってないでしょ!?」
バリバリになってしまったグラスを清掃していたスタッフが慌ててそれを片付けてレジに向かう。違うスタッフがぶりっ子の女性と槇の分、そして千佳子の一杯とお通しの分を勘定した。
「あの女が来たら普通に請求すればいいから。無銭飯だと言えば次から来ねえだろうし。払うっつうなら身元の確認もして警察に連絡を。器物破損は十分訴える理由になる」
槇は伝票を受け取りながら大将にテキパキと指示を出した。
「やれやれ」と言いながらその頭をかく。
「ちゃんと払うから引かなくていいっつーの。第一俺が悪いんだし」
「だがよ」
「だったら今ここにいる人たちに一杯ご馳走してやってくれ。皆様、気分を悪くして申し訳ない。この店は悪くない。だから懲りずにまた来てやってほしい」
槇は軽く頭を下げるとレジで支払いした。
千佳子は自分の服が緑茶の粉末のせいで真緑になったことに苦笑する。
「おら、これ着ろ」
「汚れるわよ」
「いーって。どうせ安もんだし。クリーニングに出せばっ…て。そうだ。クリーニング代」
槇に上着を渡されてそれを着ろと言われた。
汚れるし、何より大きい。だから遠慮のつもりで「いい」と言ったが槇は譲らなかった。
おまけに五千円札を押し付けてきた。お釣りでもらったものをそのままスライドさせただけだが。
とりあえず外に出れば涼しい風が二人を出迎えた。
日中は夏を感じさせる気温になってきたとはいえ、朝夕はまだまだ涼しい。
ただし、風が吹いたおかげで自分がひどくアルコール臭を発していることを自覚した。千佳子は顔を顰めながら汚れた衣服を見下ろしてため息をつく。
「ねえ。こんな状態でタクシーに乗れないんだけど」
「あ?…まあそうか」
「外出たらいかに臭いかわかったわ。あと普通に冷たい」
「だろうな」
氷の入った中身をぶっかけられたのだ。溶けかかっていたとは言えしっかりと形が残っていたものもある。普通に冷たかったし普通に痛かった。
「シャワー貸して」
「へいへい」
「ついでにクリーニング出しといて」
「はぁ?」
どうして俺がなんで、と槇は嫌な顔をする。
「誰のせいかしら?」
「五千円やっただろうが」
「そういう問題じゃないでしょ」
槇にとってはそういう問題だったがこの状況は明らかに自分が悪い。
それにどんな理由であれ女性がこれだけ怒っている場合、何を言っても火に油を注ぐのとおなじだ。
そのあたりは43年間の短くはない生涯できちんと学んでいるため、おとなしく従うことにする。
それが一番手っ取り早くてそれが一番簡単だった。
「おなかすいた。牛丼食べたい」
「…わかった」
「中盛り、生卵、みそ汁追加。あと紅生姜と七味は多めにとってきて」
居酒屋から槇の自宅まで徒歩10分ほど。その道のりに牛丼屋を見つけた千佳子は食べそびれた焼きおにぎりのことを思い出して無性におなかがすいた。
それを我儘な子どものように槇に強請る。
「買ってくるから待っとけ」
「うん。徒歩でドライブスルー出来ればいいけどね」
「やってみるか?今なら酔っ払いのすることで片づけられるぜ」
「しないわよ。普通に考えてバカのすることでしょ。おとなしく買ってこい!」
「仰せのままに」
槇は今夜千佳子のいうことをすべて飲むつもりらしい。
もやもやしてイライラしたけれど、そんなことなら酒をぶっかけられたのも悪くないかと千佳子はひとりほくそ笑んだ。




