補足1.受験勉強における努力とはランク分けのための言い訳でしかありません。真に受ける必要はありません
■努力という言葉は、一般的には良い言葉とされているように感じますが、人を殺す言葉でもあります
一般的に”努力は美徳”とされているように感じますが、実際は人を殺す言葉でもあります。
なんでもかんでも、個人の努力の問題として、企業が努力を強いると、パワハラ、ブラック企業とか呼ばれて非難されますが、就職以前(学生時代)はどうなのでしょうか?
成績悪いと、『努力が足らない努力しろ』とか言いますが、自分の意思で転職できる大人より、自力では転校できない子供の方が、逃げ場が無く、より深刻な問題だと思います。
努力を強いると、特に、効果が無いことを努力、努力と言って強いると、人は、壊れてしまいます。
その危険性が、あまり認識されず、努力という言葉が乱用されているように感じます。
人にはそれぞれ個性があり、同じ事をしても結果が変わります。
つまり、同じだけ努力しても結果には差が出ます。
これ自体は単なる事実でしかないので、異論は少ないと思います。
■皆が同じように努力しても、成績には差が出ます
”皆が同じように努力しても、成績には差が出る”
これは、おそらく、ほぼすべての人が知っている事実です。
にも拘わらず、何故か ”できないのは努力が足り無いからだ” と言い出す人が居ます。
同じことやっても、結果が変わることは知ってるはずなのですが、これを言います。
いったい、どれだけ頭が悪ければ、そのような結論になるのかわかりません。
教育の効果が十分に大きければ、成績を付ける意味はありません。
教育の効果が高ければ、同じ教育を受けた人はすべて同じ成績になるからです。
同じ教育を受けた人の結果に差が出ているのは、教育の効果が低いことを意味しています。
教育の効果が少ないから、成績に差が付くのです。
すごく簡単ですね!
そして、じゃあ何が差が付く理由になっているかと言うと、素質です。
努力が足りないから差が付くわけではありません。
(努力が足りない人だけに差が付くわけではないわけで)
元々差が付くものなのです。
だから、成績に意味があるのです。
差が出ないなら成績付ける意味がありません。
なので、差が出る前提で付けている。
つまり、教育効果が低いことを利用しているのです。
学校でやるような勉強と全く関係の無い仕事をするのに、学校歴(偏差値)で、人を選ぶことができる理由は、偏差値高ければ、素質自体が高い人材である可能性が高いからです。
そもそも、素質を分離しないと、教育の効果はわかりません。
その子が勝手に伸びたのか、教育の効果で伸びたのかが、わからないからです。
なので、それを調べるとこうなります。
↓
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https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53474
(安藤 寿康慶應義塾大学教授 行動遺伝学、教育心理学)
より引用。
遺伝要因は子ども自身にはどうすることもできない。その上、親も家庭環境も子どもが自由に選ぶことはできない。子ども自身にどうしようもない要因で、学業成績の80~90%が説明されてしまうのである。
にもかかわらず、学校でも塾でも親からも「できないのはおまえのせいだ。努力不足だ、勉強の工夫が足りない、やる気がない。だから成績が伸びないのだ」と成績の出来不出来の責任を子ども本人に押しつけている。こんな不条理があるだろうか。
実のところ知能と学業成績に関するこの知見は、1963年にそのときすでに30以上あったさまざまなの知能の血縁相関に関する研究をまとめた先駆的論文(Erlenmeyer-Kimling & Jarvik, 1963)以来、行動遺伝学の歴史の中で常に明らかにされつづけている頑健な知見だ。私たちの行った双生児研究はじめ、日本の研究でも再現されている。
========
”遺伝”と書くと、親から能力を受け継ぐという意味でとられてしまうことがあるので、”素質”と書きます。
素質(遺伝子)がどれだけ影響しているかと言うのは、双生児法という方法で調べます。
(なので、教育学部のある大学の付属中学とかにも、双子枠があります)
双子には2種類あります。同じ遺伝子を持つ一卵性と、別々の遺伝子を持った、二卵性です。
双生児法というのは、この2つの組み合わせのデータを大量に集めて比較します。
一卵性は同じ遺伝子を持ったクローンです。
よく、クローンを作ると同じ人間が複製されるイメージがありますが、年の離れた一卵性の双子の兄弟が産まれるだけです。
あんまりおもしろくありませんね!
比較した結果の中で、一卵性双生児の”身長”は、極めて近いという結果が出ています。
これは、実際の経験と照らし合わせても、納得しやすいと思います。
同じ遺伝子持ってるから、だいたい同じになります。
二卵性だと、だいぶ差があります。
そこで、もう1点注目したいのが、勤勉性です。
二卵性の身長よりも一卵性の勤勉性の方が類似性が高いのです。
そして二卵性の双子では、勤勉性にほぼ類似性がありません。
勤勉性は、素質の影響が大きいと言うことです。
一般的に、背の高い親からは背の高い子供が生まれやすいという傾向があります。ですが、二卵性の双子の身長よりも、一卵性の双子の勤勉性の方が類似性が高いのです。
努力するかしないかが、遺伝で決まっているという話を聞いたことが無いでしょうか?
アレのことです。
この結果がどのくらい正確かはわかりませんが、一卵性と二卵性で勤勉性に大きな差がある可能性が高いというくらい言えるのではないかと思います。
教育の効果を測るためには、素質と教育を分けて調べる必要があります。
勝手に伸びたのか、教育で伸びたかがわからないからです。
そして、本人の素質を無視して比較をすると教育に効果があるように見えますが、素質を無視するから、そう見えるだけで、素質を考慮すると教育の効果は見えなくなってしまいます。
つまり、教育の効果は見えなくなるほど小さなものです。
世界的に、非常に多くの人が調べていますが、教育にあまり効果は無いという結果は出ますが、効果があるという結果は出ません。
↓上で紹介してるのと同じページです
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53474
一応保険で書いておくと、狭い範囲で限定的に行われる調査では、差が出るように見えることもあります。
長期的な効果が確認された例と言うのはあまり無いのではないかと思います。
つまりこうです。
差を出すことを目的に調査をすれば、差を出すのは簡単なのです。
極端な話、先に出題内容教えておけば、点数は上がるわけです。
黒板に書いて、『ここテスト出るよー!』ってやつです。
その結果を教育の効果がありました!と言っても、実際には、その人の学力は上がっていません。
カンニングで高得点とっても、実際の学力は上がっていませんよね。
ただ、最低限の教育には効果があると思いますので、教育には効果があるが容易に飽和する、と表現するのが良いのではないかと思います。
例えば、ある程度、学習時間に対してリニアに効果が出るのは、最初の1000時間くらいで、5000時間くらいで頭打ちになるとか……そういうレベルで飽和があるように感じます。
或いは時間ではなく、難易度的に頭打ちがあるのかもしれません。
一方で、多くの人が頭打ちになっても、飽和せずに伸び続ける人が居ます。
それが素質の差です。
同じ教育を受けても、伸び続ける人と伸び悩む人が居る。
教育の効果が大きければ、教育を受けた期間と学力の伸びは、高い相関があり、概ね比例するはずですが、実際は、個人の素質に合わせて選別して、個人のレベルに合わせた教育を行っている。
伸びる子を選抜して、伸びがあるように見せているだけです。
多くの人が大学に行くようになった結果、中には九九、つまり一桁の数字同士の掛け算ができないなんてレベルの学校が存在するという話もあります。
※九九を暗記していなくても何も問題ないと思いますが、
簡単な掛け算できないと、日常生活に支障が出そうです。
(大学進学率25%の時代には、滅多に居なかったと思いますが)最近では%を理解できない大学生がいるという話があります。
これ、若い世代の学力が全体的に落ちているという話ではなく、もともと%が理解できない人もたくさん居たけれど、大学進学率が25%の時代には、そのレベルの人は大学に進学できなかったけれど、大学進学率が上がった結果、そのレベルの人まで大学に行くようになったというだけではないでしょうか?
元々学力で中央付近の人の中の人には、掛け算できない、%わからないなんて人は普通に居て、大学進学率25%時代には、そのレベルの人は大学には入れなかったけれど、今は入れるだけなのではないかと思います。
でも、元々、大学進学率25%の時代でも、簡単な数行の文章を読んで理解できない人は結構居たので、あんまり問題にならないのかもしれません。
(読めなくても普通なので、問題にならない。AIと同じで、パターン化して過去の経験から推測して読んでいるだけで、文章の意味を理解しているわけではないようです)
人の能力にはばらつきがあります。
学力と言う基準で見た場合、生まれながらに優れた人とそうでない人が居ます。
そして、学力によってランク付けされることになります。
こう書くと何故か自動で、私が学力によるランク付けを問題視しているように思われてしまうようなのですが、
★私が問題視してるのは【学力でランク付けされること】ではありません。
むしろ、学業以外に実績の無い新卒の能力を見極める方法として、学力以外の目安はあまりないと思ってます。
問題だと思うのは、こっちです
↓
★【学力が低い理由を、”努力が足りない”せいにするな!】というところです。
理由はコレです。
↓
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https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53474
(安藤 寿康慶應義塾大学教授 行動遺伝学、教育心理学)
より引用。
遺伝要因は子ども自身にはどうすることもできない。その上、親も家庭環境も子どもが自由に選ぶことはできない。子ども自身にどうしようもない要因で、学業成績の80~90%が説明されてしまうのである。
にもかかわらず、学校でも塾でも親からも「できないのはおまえのせいだ。努力不足だ、勉強の工夫が足りない、やる気がない。だから成績が伸びないのだ」と成績の出来不出来の責任を子ども本人に押しつけている。こんな不条理があるだろうか。
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同じ努力で達成できるレベルは人によって異なります。
そんなの当たり前で、誰でも知ってることなのに、なぜ学力低いと努力が足りないと言い出すのかがわかりません。
■ほとんどの大人は小学校レベルを超えることはできない
学力は長期的に見ると、それ自体は意味無いことが多いです。
実は普通の大人は、小学生レベルの知識があれば解けるはずの簡単な問題に正解できないようです。
↓こんなテスト結果があります。日本はまだマシな方です。
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文部科学省
国際成人力調査(PIAAC:ピアック)
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/data/Others/1287165.htm
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テスト結果と、テスト問題見るとわかりますが、ほとんどの人は、簡単なグラフを読んで答えることができません。
小学生でも、できそうな問題でも正解できません。
簡単なグラフ読めたらちょっとしたエリートです。
日本でも4人に1人か、5人に1人くらいのレベルです。
このテストを受けた人達は、恐らく、学校行ってた頃は、もっとずっと難しい問題が解けたはずです。
ところが、実際テストすると、とても簡単な問題でも正解できません。
習った問題をテストすると高得点を取れるけれど、テスト対策した問題以外は、簡単なものであっても解けない。そんな感じでしょうか。暗記しただけで、理解はしていないのでしょう。
でも、仕事でグラフくらい読むでしょう。仕事でやってる人は全員読めると思います。
おそらく、日頃繰り返しやってる以外のことはできないのです。
10年以上教育受けても、小学生でもわかりそうな問題が解けないのです。
教育の効果と言うのは、そんなレベルです。
上で紹介したPIAACの結果を見る限り、そう読めます。
それでも日本は、他国と比べるとまだマシなのです。
そして、わざわざ習わなくても、この程度の問題解ける人には解けます。
そして、おそらく、習ってわかるようになった人のほとんどは、大人になってから小学生レベルの問題が解けなくなってるのではないかと思います。
何故かと言うと、この程度の問題は、ほとんどの人が習ったときには正解できたはずだからです。
でも、大人になったら正解出せないわけです。
教育の効果と言うのは、そんなレベルです。
解ける人は習わなくても解けるでしょう。
大人の能力の中央値はそんなレベルなので、高校レベルの学力とか、そんなに求められていないと思います。
(学力上位の人だけで構成される集団では、昔習ったことを即使えるのが当然かもしれません)
高校生の時点でできなくても、使うときに使う範囲に絞って理解できるようになれば良い。
幅広く高度な学力が必要とされる仕事は教育関係を除くと、そんなに多くないです。
学力が高くても、あまり有利になる場面は無い。
少し長い目で見ると、わかりやすいのですが、
学力高くても仕事できなければ、結局評価は下がります。
学力低くても仕事できれば結局評価は上がってしまいます。
どっちにしろ、最終的には仕事ができるかできないか、で判断されるので、中途半端に学力高くてもあんまり意味無いです(凄く高ければ、それは武器として使いやすいと思います)。
学力が高いこと自体に意味のある層もありますが、殆どの人はその層に該当しません。
仕事できなきゃ落ちていきますし、仕事できれば上がっていきます。
そもそも学力低いと駄目な人か?と言うと、そうとも限らないわけです。
例えそうであったとしても、勝率の低いところで勝負してはいけません。
勝てるところで勝負すべきです。
努力はそのような方向にするべきです。
■通常の学校教育は全ての人に役立つものではない(合わない人も存在する)
日本では、ほぼ全ての人が義務教育を受けていると思います。
毎日学校に行っている人の中にも、実際には、『こんなの受けて何の意味があるのだろう?』と思う人も存在します。
義務だからやってるだけで、学校に行くことや、授業を受けることに、何の意味があるのだろうと疑問を感じるような人も存在します。
勉強って何のために必要なのだろう?と感じる人が居ます。
学校って何のために存在するんだろう?と感じる人が居ます。
それを口にすると、”それは逃げだ”とか言われるわけですが、実際に授業を受けた結果、その人にとって勉強や学校に効果が無い、意味が無いから、そう感じてる可能性も高かったりします。
”勉強や学校に効果が無い=能力的に劣ってる”と思われることが多いと思いますが、案外そうとも限りません。
そういう人は、馬鹿正直に真正面から受験に挑むより、他の手段も考えた方が良いかもしれません。
一般的な正攻法で効果が出ない人も存在する。
そういう人は、一般的に言われる正攻法を続ける必要は無いという話です。
効果の無いことをやり続ける必要は無い。
もちろん、本人が続けることを望むのであれば、続けるのも構わないと思いますが、続けて意味があるのかな?と思うなら、効果のありそうな別のことをやった方が良いかもしれないです。
……………………
これを書いている背景として、私自身が、子供の頃、合わない生活で危うく精神破壊されそうな状態から、九死に一生、何とか生き残ることができたという実感を持っているからというのがあります。
私自身が、”普通の人間化改造”からのサバイバーなのです。
それに対して、子供の頃勉強しなかったことで、大人になってから困ったことがありません。
(もともと、”やってもプラスの効果が無い”=”やる意味が無い”なので、勉強しなかったことで後悔する理由が無い)
私にとっては、学校行って勉強することが、超ハイリスク、超ローリターンでした。
私は元から考える能力が高く、記憶力が低いのです。
そもそも、頭の中で名詞や言葉を使わないので、暗記型の勉強とは相性が悪いのです。
頭の中で使わないものは、覚えることが難しい。覚えても、頭の中で使い道が無い。
そして、知識の量が人より少ないかと言うと、そんなこともありません。
(物凄く偏っていますが)
だいたい教科書は、用語の説明から入り、一般的に物事は、用語がわかってないと低レベルと判断されますが、用語を知る以前から現象の方を理解している人から見ると、用語と中身の理解関係無くね?と思うわけです。
身近な自然現象や、社会現象は、用語知らなくても、それ以前から現象を理解してますから、その現象を理解するための手段として、名前を覚える必要が有りません。
なので、用語を知らないとレベルが低いと判断するその人が、その現象や内容の本質の方は何も理解してなかったりすると、”なんで、この人は用語を知っているかどうかに拘るのだろう?”と、そこに疑問を感じます。
その人にとっては、そこが入口だからだと思いますが、私にとっては用語なんて知らなくたってかまわないわけで、そんなものは知らなくても実行できる。
そんな感じで、人とは感じ方が違います。
一般的には、真面目に学校通って地道に勉強するというのは、ローリスク、ハイリターンになるのでしょうが、人によってそのくらい変わってきます。
合わないことを強制するのは、とても危険なことです。
特に逃げ場のない子供の頃は大変危険です。
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私は”習ってできるようになったことは何も無い”と感じているほどに一般的な教育は教育効果が薄いです。
残念ながら、記憶があるのが小学二年生からなので、小学一年生の時、或いはそれより前は、習ってできるようになったことも有ったのかもしれませんが、小学二年生以降は無いような気がします。
(教科書読んで自分で理解したことは、”習ってできるようになった”にカウントしていません)
習わなくてもできるようになる身近な例があったので書きます。
実はうちの子は、全く教えていないのに3歳の時にはローマ字入力で、キーボードで文字打ってました。
そもそも3歳児にPCの使い方なんて教えません。ローマ字変換表も見せていません。
勝手にキーボード押して、どのキーを押すと何の文字が出るかを自力で調べて使っていただけです。
文字は2歳の時にはかなり読めていました。
これも、文字を教えるつもりはありませんでしたが、絵本の読み聞かせはしていました。
3歳児が教えなくてもローマ字打ちする。
定型の人はそれを聞くと”天才だ”と思う人も居るようですが、私は3歳児がローマ字入力しても、”子供ってこういうことするよな”と思っただけでした(妻もなんとも思ってなかったです)。
能力的に高く見えるかもしれませんが、習わなくてもできる子は、習うのは苦手だったりします。
教えなくても勝手にできる子が、学校行って優等生になるかと言うと、そうでもない。
自分でやり方を発見しながら学習していきます。
私もそんな感じだったのだと思いますが、私は学校で授業を受けても、そもそも授業が何を目的としているのか、さっぱりわかりませんでした。
(授業受けても学力は変化しない人は、このように感じます)
私が3歳の時にローマ字入力可能なPCは無かったので、そういうわかりやすいエピソードは無いのですが、2歳くらいで大人のように話していたという逸話は残っているので、似たようなレベルだったのではないかと思っています。
口が達者だから弁護士になれと言われていたのは覚えていますが、大人になってから知った弁護士の仕事は喋ることではありませんでした。
なお、私が弁護士に憧れていたわけではなく、私の周囲の大人が、弁護士は喋る仕事だと認識していただけです。
私は(独学可能なことで)習ってできるようになったことは一つも無いと感じているくらいなので、基本、習わなくてもできるようになります。
特徴的なのは、基本練習は必要無いというところです。
①やってみたらできた
②やってみたけどできなかった
③再度やってみたら、知らぬ間にできるようになっていた
④何度やってもできるようにならなかった
の4パターンに分かれます。練習したらできるようになった……というのは無い。
練習しても、わかった気はしないのです。
そして、練習しなくてもできるようになる。
知らぬ間にできるようになっているので、何が原因で、いつできるようになったのかは、私にもわかりません。
この『練習は不要であり、やっても意味は無い』というのは、いくら人に説明しても、ぜんぜん理解してもらえません。
ただ、実績としては、『習ったかどうかは関係無い』というのは事実であり、私が子供の頃、猛烈な学歴主義者で根性論大好きだった親も、後に『授業を受ける必要(学校に行く必要)自体、無かったのではないか』と見解を変えています。
……………………
私は子供のころ口が達者過ぎたことと、難しいことも話せたので、周囲では頭の良い子としてけっこう知られていました。
元々天才児扱いだったのです。
”十で神童 十五で才子 二十過ぎれば只の人”なんて諺もあるくらいですから、子供のころ賢く見えるというのは割とありがちだと思います。
普通はすぐに忘れ去られる話だと思うのですが、私の場合、小学校入るなり落ちこぼれていますから、話のネタとしても美味しく、覚えている人が多かったのだと思います。
天才だと騒いでいたら、実際にはいきなり小学校から落ちこぼれた。
ただ、この諺に当て嵌まる人は、早熟系の人が多いのではないかと思います。
私は成長速度は非常に遅めだったように感じています。
私の記憶に残っているのは落ちこぼれになった後の記憶ですから、私の認識では最初から落ちこぼれだったように覚えています。
私は学歴にはそれなり効果があると思っていたので、私はきっと、ある程度貧しい生活を送ることになるだろうと思ってました。
そして、時は経ち、大人になってからは、意外に健闘した。
この健闘したというのは、絶対値としての話ではなく、元ヤン効果的なやつです。
小学校でいきなり落ちこぼれていた割に、しかも就職氷河期なのに、まともな学歴持った人と同等以上くらいには健闘した。
基本、私の親世代の感覚では、人生の早い時期に決まる学歴が、その後の人生に対して圧倒的に支配的なパラメータであり、それを覆すのは容易ではない(そんなことは滅多に起きない)と思ってました。
”小学校から落ち個こぼれていた割に、まともな学歴持った人と比べても、十分以上に健闘している”
というだけではありますが、子供のころから成績優秀だった人が学歴を得て、順当に歩んだ結果と変わらないように見えるくらい健闘した。
(凄く普通の人になりました。私は仮に健闘することがあったとしても、もうちょっと特殊な人になるのかと思ってました)
私も学歴にはそれなり効果があると思っていたので、子供の頃は、おそらく私は大人になったとき、収入は中央値を下回る可能性が高いだろうと思ってました。
実際は、学校で落ちこぼれて、そのまま放置していても、悪い結果にはならなかった。
※私は授業を受けても受けなくても学力は変化しないという特性を持っているので、
このように感じていますが、たぶん一般的では無いのだと思います。
結果、”本当に授業受ける必要無かったのではないか?”と言われるようになったようです。
私は元からそう主張していたのですが。
なんで学校行くのか理由を聞いたことは100回くらいはあると思いますが、あまり納得できる理由は返ってきませんでした。
内容に意味があるようには思えないけど、行く義務があるから行っていた。
何で学校に行く必要があるのかわからない。
学校が悪いと言う気は全然無いです。
多くの人にとっては役立つ施設なのでしょうから。
ただ、私にとっては(少なくとも授業自体は)受ける必要無かったと思っています。
私にとっては……という特別扱いになるのは、私の能力の凸凹のせいです。
あまりにも巨大な凸凹は、人と物事の難易度を共有することを絶望的にしており、能力の高低以前に、普通の人が『少しずつ練習からやっていきましょう』という、非常にまともな提案をしてくれても、私にはそれが死亡フラグになるというくらい、難易度の共有ができません。
そもそも、頭の中で使わない内容を覚える意味も無いので、覚える意味も無いことが多い。
結果として、テストの点が悪くて成績が悪くても別に構わない。
成績が良くなければならない理由も無い(私にとって重要な問題では無い)。
なので授業受ける意味が無かったです。
凸凹と書いてる通り、出っ張った部分もありました。
特に何もしなくても偏差値高い教科もありました。
落ちこぼれと言う割には、偏差値は悪いとも限らなかったのです。
私は練習して何かができるようになったことは無いと感じています。
もしかしたらあるのかもしれませんが、練習無しでできるようになることが多いので、練習した効果があったのかを知る方法が無いのです。
なお、できない→できるという0→1への移行を練習で実現できないだけで、10→11は練習で行ける感じです。
ただ、それも気のせいで、1回やって半年放置すれば、半年分上手くなってるだけなのかもしれません。
勉強に限らず、数年続けても、ほとんど上達しないというのは体験済みです。
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社会は普通の人専用にできていますから、そうでない人にとっては、とても危険な場所になります。
学校も普通の人用にできていますから、そこから外れる人にはプラスにならなかったりします。
そして、マイナス面は極めて大きかったりします。
努力が足らないとか言われて過ごしていると、そのうち破壊されてしまいます。
そして、びっくりなのが、勉強しなかったからと言って、大人になってから、ぜんぜん困らないというところです。
(私は、正直、少しくらいは困るものだと思ってました)
むしろ、なんで、そんなどうでも良いことに、莫大な時間を使うことを強制されたのか、意味がわかりません。
私は子供の頃、凄く困っていましたが、大人になってからは、あまり困っていません。
それをグラフにしてみました。私の感じた困り度なので、100%私の主観です。
一番難易度高かったのが、小学生のときです。
人生最大の危機が小学生のときに訪れます。自由度が無いからです。
体力的にも、親に勝てませんので、一方的にパワハラ、暴力受け放題です。
難易度は、もうちょっと徐々に上げていって欲しいものです。
恐らく多くの人は、歳と共にだんだんと難易度が上がり……となるのではないかと思います。
さらには、恐らく、私がさほど困っていないと言っているレベルが、一般的な人の困っているレベルなのではないかと思うのです。
つまり、私は学校生活に問題なかった人たち並みに、楽々生きていると言っているのではないか?そんな気がしています。
正直、ブラック企業くらい、子供の頃の困難と比べたらたいした問題では無かったです。
嫌なら転職すれば良いだけですし。
逆に言うと、子供の頃、他の人たちとは桁違いの困難の中、生きてきたのではないかと考えています。
※今でも、ストレスチェック受けると偏差値25とか出るので、
一般的な基準では、ものすごく困っているのだと思います。
でも、子供の頃の困難と比べたらゴミくらいのレベルです。
同じように難易度グラフ書いても、人によって形はだいぶ変わるでしょう。
ただ、私と同じように、大人になる前の方が難易度高かったと言う人も、けっこう居るのではないかと思います。
苦労の甲斐有って、大人になって楽できるという人は別として、子供のうちはさっぱり駄目だったのに、大人になって困っていないという人も、(比率としては少ないとしても)人数としてはそこそこ多くいるのではないかと思います。
大人になってから困っていない人は、わざわざ『困って無い』と言って大騒ぎしないのが普通ですので、あまり存在が知られていないだけで、けっこう存在するような気がします。
子供の頃に困難に立ち向かわずとも、大人になって特に苦労しない人でも、
大人になる前に精神破壊されていたら、その後の生活で極めて大きな支障が出るでしょう。
これは単なる想像図ですが、あの時壊れていたら、きっと、こうなっただろうと、私がリアルに感じているものです。障害が一つ増えると劇的に難易度が上がります。
こんな感じです。
↓
一生報われない人生を送ることになります。
放っておいても、働いて税金納めるのに、壊してしまえば、社会保障費で重荷になります。
該当しない人たちは、そんなレアケースに構ってられないと思うかもしれませんが、こんなことになると、中には、社会に復讐してやろうと考える人も、たまには出るでしょう。
そういう意味でも危険です。
なので、特定の人にだけ、極端な負荷を強いるようなことをしてはいけません。
教育は、本人のためにと言うのが建て前なはずですし、そんな危険を冒してまで、やらなきゃならないほど重要なことなのか?という思いがあります。
私は実際、勉強しなかったことで、困ったことが無いのです。
大人の能力の中央値がかなり低いところにありますので、学力に関しては、あんまり困ることが無い。
逆に学力が高い人のケースを考えるとわかりやすいと思います。
発達障害持ちの障害は、学力が高くても発生する。
少なくとも、私は、”大人になってから困らないための対策”の方が苦痛で、大人になってからの困り度は、それと比べると遙かに小さい。
そして、あまり苦痛の量が大きいと折れてしまう可能性があります。
折れるほど酷くなると、障害が追加されて行き、困難が倍々に上がって行くので、それと比べたら、障害増やさないようにうまく逃げた方が良いと思います。
私は相当頑張って逃げました。
良い高校行って、良い大学行ってと呪文のように繰り返し言われましたが、目的が別方向に向きます。
子供の頃に、家や学校で酷い目に遭うと、良い高校行って、大学行ってとか考えません。
第一目標が ”自由を手にすること、家を出ること” になります。
これは、不幸な幼少期を過ごした人にとっては、割と普通の感覚だと思います。
私は中学卒業後、早々に家を出ています。
大人の発達障害は、実は多くの場合、”大人の発達障害では無く誤診である”という説があるようです。
子供の頃に困難を抱え、大人になるにしたがって軽減する例が多いのだそうです。
まさに、私と同じですね。
大人になって軽減した状態でも、子供の頃よりマシなだけで、十分人より苦労しているような気がします。
結局、能力の凸凹は大人になったからといって、変化したりはしませんから。
■IQと成績の関係には専門用語が存在します
IQと学校の成績、学力は必ずしも比例しませんが、ある程度比例する傾向があります。
専用の用語が存在するくらい当たり前の話です。
なので、小学校入学前後に知能テストがありますね。
(今そのタイミングであるかはわかりませんが、私のときにはありました)
既に全員が同じ授業受けた結果であれば、単純に学力で見れば良いのですが、小学校のはじめの頃は、能力をIQで調べます。
IQに対して予想されるより上の学力を持つことを、オーバーアチーブメントと言います。逆がアンダーアチーブメントです。
期待以上の成績を出す子がオーバーアチーバー、逆がアンダーアチーバーです。
興味ある人は、”アンダーアチーバー”とかで検索してください。
私は数字だけで言えば、間違いなくアンダーアチーバーの方です。
ただし、凸凹が猛烈に激しいので、オーバーとかアンダーとかとは別次元かもしれません。
私は勉強してもしなくても成績はほとんど変わりませんでした。
勉強しても上がらないし、しなくても上がるという特性を持ってるのです。
IQ高すぎる人も、学業で脱落しやすくなります。
米国では、IQ100付近の子供と比べて数倍脱落率が高いという結果が出てました。
脱落者にIQ高すぎる子が高確率で含まれていることがわかったのです。
一般向けの授業がその人たちには合わないからです。この現象は浮きこぼれとも言われます。
興味があればギフテッドで調べてください(なお、私が書いたのはIQが高すぎる子の話です。
絵や音楽で優れた能力があってもギフテッドと呼ばれる場合がありますが、そっちは無視してください)。
教育も普通の人向けですから、そこから外れる人には正しく機能しません。
高くてもダメなのです。
理由は、社会は平均的な人専用にできてるからです。いつも通りですね!
■人の能力は正規分布しています
人間の能力は数値化して並べると平均付近に多く、平均から離れるほど減っていきます。
下の図のように分布しています。
正規分布の絵です。偏差値は皆知ってると思いますので、この部分の説明は省きます。
わからなければ検索して調べてください。
IQは真ん中が100として、標準偏差15で書いてます。
中心付近の人が殆どで、端に行くほど減っていきます。
生まれながらにして差があります。
高いにしろ低いにしろ本人の落ち度では無いので、個性として見てください。
なので、同じことをやっても差が出ます。はじめから差があるからです。
人の1/10しかできないなら、10倍努力しろ!と言っても、6歳から学校行って12年後の18歳の時に期待されてるレベルに、130歳で到達しても、そんな人に需要なんて(たぶんほぼ)ありません。
10倍努力しても意味無いです。
そして、その間に他の人も努力してしまうと、差は開くばかりです。
抜かされそうになれば、周りの人もペースを上げますから、結局どうにもならないことが多いです。
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130歳じゃねーよ!と思うかもしれませんね。1日何時間勉強してそれを何年で、という計算はできますが、単なる例えです。時間には限りがあって、成果を上げるべきタイミングが存在するのです。
既に人が1日8時間勉強してる場合、その10倍とか1日に収まりません。受験のタイミングで追いつけないから意味無いねと言う話をしています。
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全ての人が、生まれながらにして、平等に能力を持っていて、その人の努力でどうにでもなると考えている人が居るとすればその人は相当頭の悪い人、想像力の無い人だと思うのですが、残念ながら世の中にはそういう人が溢れています。
頭が悪いのではなく、建前上そう言ってるのか、そういう世界がその人にとって都合が良いのかどちらかなのでしょうが、とにかくそれが、結果として人を破壊し、将来の社会保障費を増やす結果になっていきます。
努力した → 努力が足りない → 努力した → 努力が足りない → 努力した → 努力が足りない
これを繰り返すと人間壊れます。
ちょっとした能力差が、その人にどんな影響を与えるかの例として、学年で見てみます。
学年は1年ごとで早生まれの人と遅生まれの人で、約1年受験までの期間が変わります。
4月生まれ(正確には4/2~)の人より3月生まれ(正確には~4/1)の人の方が自殺率が高いのです。その人の努力と生まれ月に関係はありません。
(興味があれば、早生まれ 自殺 等のキーワードで調べてください)
産まれた月が違うという、ただその程度のことでも自殺率が変わってくるくらい大きな問題なのです。
能力の違う人を競わせるとこうなりますよという例の一つです。
生きる希望の量が変わってしまうのです。
産まれた月は、明確にわかるので、数字として出やすいというだけで、能力の幅はもっと広く、もっともっと苦労している人たちがたくさんいます。
実際にはたいして勉強せずとも好成績の人が居れば、いくら勉強したところでたいして成績の上がらない人も居るわけです。
そんなのは世の中見てればわかることで、あたりまえの話です。
上位の人の感覚はこんなものです。
↓感想からの引用です。
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医学部に通っていました。
そこは、まさしく、
「才能のない奴は医学部へ行け!」
という世界で、
「勉強なんて、やれば、誰でも出来るよね」
「勉強が出来るから頭が良い
と思っている人って、
本当は馬鹿なんじゃないの?」
と皆言っていました。
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このくらいの差があります。
「勉強が出来るから頭が良いと思っている人って、本当は馬鹿なんじゃないの?」
こういう世界です。並の人からはこういう発言は出ません。でも、そんな世界があるのです。
世の中は、とっても不公平にできています。
皆が同じように頑張っても、成績には差が出るのです。
これは、すべての人が知っている事実です。
そこをタブー視して、努力を言い訳に使って、実際にはランク付け、選別を行います。
つまり、努力は選別のための言い訳です。
「あんたのランクが低いのは努力が足りなかったからだよ」と言う訳です。
私が問題視してるのは、学力によるランク付けではありません。
↓ こっちです
”努力のせいにするなよ!”というところです。
一般的に努力は美徳とされているように感じますが、その言葉のせいで死んでいる人が毎年かなりの数発生していると思います。
死ねと言われて死ぬ人数と、努力が足らんと言われて死ぬ人数とでは、どっちがどれだけ多いのでしょうか?
■学歴(学校歴、偏差値)がランク分けになる理由は採用コストです。学力自体は必要では無い分野が殆どです
中学までは義務教育があり、偏差値で分けられない場合が多いですが、高校は偏差値別に分かれます。大学も偏差値で分かれます。
そして、就職先も人気ランキングと学歴、偏差値にある程度の相関関係があります。
学力と労働生産性には直接の関係はありません。なのに何故学歴(学校歴、偏差値)を目安に企業が選ぶのかというのは、学歴とシグナリング効果という説で説明されています。
学力自体は無意味であっても、人と同じ期間で高学力を持つ人は、労働生産性も高い可能性が高いから、企業がそれを目安にするのは妥当であるというような内容です。
なんと、ノーベル賞ネタですよ。こんな小学生でも思い付きそうなネタがノーベル賞って、びっくりですね!
こんな感じです。
↑パレートの法則と学歴のシグナリング効果を考慮して私がテキトーに作成した図です。
テキトーに書いた図であると言うことを明記しておきます!
理由はもちろん指摘されるとめんどくさいからです!
男女のペアリングでも似たような図がありますよね。1番人気同士がくっついて……という図です。
8割の人が2割の就職先に殺到します。公務員とか有名企業とかです。そこに受かる人も、学歴(正しい意味の学歴ではなく、学校歴、偏差値の意味合いが強い)の高い人が多くなります。
(8割と2割は、多くの人が小さな枠を目指して競争すると言う意味で使ってるだけで、数字自体はテキトーです)
採用する側もまた、上位の少ない枠を奪い合います。
完全に納得とは言わないまでも学歴(学校歴、偏差値)上位、就職先の人気上位の2~3割くらいは、ある程度、相思相愛状態が成り立ちます。
ここでのポイントは、相思相愛が成り立たない割合、人数の方が多いところです。
特に、はじめから下位に居るのが分かってる人を、わざわざそこで勝負させようとするのはなぜでしょう?という疑問にも繋がります。
下位に居る人は別の武器を持って、そこで戦いを挑んだ方が勝率が高いです。
なぜ受験で戦おうとするのでしょうか?
別の方向で頭使った方が良いです。
■勉強以外の方向……と言っても、いきなり変な方向に突っ走っちゃダメです、需要を考える必要があります。
そこでいきなり”俺は音楽の才能あるからミュージシャンになる!”とか言うのは駄目です。
ちゃんと需要があって、勝てるところに進んでください。それが音楽であれば音楽でも良いです。
でも、音楽で食おうと思うと10万人に1人くらいの才能と運が無いと無理だと思います。
10万人に1人の運と才能が無い人は、仕事ではなく趣味としてやってください。
夢を追うと言うのは、それはそれで良いことだとも思います。
私が書いてるのは、”それで食っていくことを前提で考えるとこうなりますよ”と言う説明です。
納得の上で挑んでみるのは良いことだと思います。
悔いは残さない方が良いでしょう。夢はかなわないかもしれません。
それでも、一番納得できるように行動するのが良いと思います。
今はすっかり斜陽ですが、昔、テレビ関係が高給で絶好調でした。
※今でも本体は超高給ですね
そして、放送業界には、学生のうちにバイトで入っておいて、新卒で放送業界入るというのが割と定番でした。
新卒で入って最初にやる制作の下っ端仕事とバイトの内容が被っていたので、バイトやってて業界に入るといきなり経験者で有利だったのです。
内情知ってれば、面接でも有利です。
これだと、学歴にプラスする職歴としては十分使えました。
ライバルとの差別化ができるという意味でです。
放送業界に限らず、ちょっとしたことでも新卒時に学歴+実務経験と言うのはかなり有利に使えました。無いよりはずっとマシです。
放送業界に関しては、だいぶ昔の話で、今は制作は下請けの制作会社に出してるので、下請けの制作会社に入るには有利になるでしょうという感じでしょうか。
実務と言っても、コンビニのバイトリーダーでした……は、あんまり効果無いと思います。
英検4級持ってます!って勝ち誇っても、むしろ逆効果ですよね。あんな感じになると思います。
あんまり高くないことを勝ち誇ると、むしろレベル低く見えてしまいます。
物書き(ライター)はミュージシャンと比べたら、もっとずっとハードルが下がりますが、好きなこと書けるわけではなく、金貰って説明書やら宣伝文書くことが多くなります。
それが合うなら、それをやるのも良いでしょう。
金を出す側は、あなたの書いた文を読みたいから金を払うのではないです。
宣伝や説明書のために金を払って、その仕事があなたに回ってくるだけです。
だから仕事は宣伝文を書くことになります。
だれが何のために金を出すのか考えればわかりますね。
でも、物書きの場合、ステップアップはある程度可能です。
ミュージシャンと比べれば需要が大きいからです。需要があれば実績を積む機会があり、実績があれば、仕事が選べるようになるかもしれない。
小説だと、安定して食っていくにはどうすれば良いのでしょうか。
やっぱりこれも、10万人に1人の運と才能が無いと無理なんじゃないかと思います。
1回書籍化とかならもっともっとハードル下がりますが、それは食っていくための職業とは別です。
趣味か副業としてやるのが良いでしょう。
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仕事としてやっていくためには、あくまでも、需要があるところを探さないと駄目です。イラストレーターになりたい!とか思っても、並のレベルじゃ扶養の主婦の小遣い稼ぎと価格競争になり、食っていける金は手に入らないでしょう。
日本には扶養という制度があります。
専業主婦は扶養ですし、大学生の多くも扶養されています。
その人たちはある程度の金額までは税金引かれずに全額自由に使えます。
なので、その人たちと重なる部分で食っていくのは難しいです。
価格競争で勝てません。
その人たちが凄い安さで仕事受けちゃうからです。
アニメーターが給料安くて食っていけない!という話もありますが、需給バランス考えるとそうなりますよね。そしてそれを知った上で入る業界です。
今後改善されるかもしれませんが、現状はそういうところです。
役者さんも似たような感じでしょうか。
私は昔趣味でゲームを作ってました。
当時の仲間の多くはプロのゲーム屋になりました。
当時需要があって、その需要の範囲内に余裕で入れる成果物を持っていたからです。
クリエイターになるには、何が作れるのかを証明する成果物が必要です。
そして成果物があっても、需要が無いところには入れません。
クリエイターは特に学歴関係ありません。
高校生でプロになったら大学卒業しませんからね。
私はプロにはなりませんでした。
金貰ってゲーム作るという条件なら十分満たせましたが、その先が見えなかったからです。
個人でゲームを作れる時代(8ビット、16ビット時代)に実績を作っていなければ、その先目立った実績を作ることができないからです。実績があるから次の大きな仕事が来るのです。
そのタイミング逃したら、雑魚枠でしか入れません。
私が機材を揃えるまでにタイミングが過ぎてしまったのです。
個人が目立てる時代は終わっていました。
勝てないところに投資しても意味無いです。
無駄な投資を避けると言うのは大事なことです。
友達は高校在学中にプロになりました。その人はバイトしなくても機材が持てたからです。
こういうところでも差が出ます。
機材の有無は、本人の努力の差ではありませんでした。
■10万人に1人は例えです
桁の話になりますので端数切って簡易化しますと、日本人は約1億人います。
少し細かく言うと1億2700万人とかそんな数です。
1億というのは1万の1万倍です。
つまり、
1万人に1人は1万人も居ます。
小説家が1万人居たとして大半の人が満足に食っていけるか?無理でしょう。
そんなにたくさん要らないです。
1000人だったら食っていけるかもしれない。100人じゃ少なすぎますね。
なので10万人に1人と書いています。なので、本当は50万人に1人かもしれませんし2万人に1人かもしれません。テキトーに10万人に1人と書いてます。
10万人に1人じゃ、東大入るより難しいという指摘を受けましたが、東大は学力優秀なら入れますし、毎年3000人です。
ミュージシャンやら小説家やらには入試みたいな一律の基準はありませんし、毎年3000人ずつ生まれても、たぶん、全員が食っていくことはできません。
頑張ったから到達できる、というものでもないと思います。
東大卒は毎年3000人いても、十分すぎる需要があります。
小説家やミュージシャンは一発屋としては、それなりの枠がありそうですが、食えるほどの枠は無いと思います。
■高等教育を受ける人が多くなるほど社会全体の生産性は下がります
努力しなかった人だけが、偏差値の低い学校に行くわけでも無ければ、努力した人が偏差値高い学校に行くとも限りません。
勉強だけできても食べて行けません。そして、勉強できなくても食べて行けます。
もちろん最低限は必要です。文字の読み書き、金勘定できるくらいは必要です。
そんなの小学校レベルでも十分です。
初等教育は重要です。
全ての人が読み書き出来て、金勘定できることを前提に社会を作れるので、効率的な社会が実現できます。
年齢の問題もあります。
人によって成長速度が違いますが、5~10歳くらいまでは特に教育効果が大きいのです。
ある程度以上は、どうせできる人は習わなくてもできますし、できない人は習ってもできない。
習ってできるようになった人の大半は、どうせ応用できないのでランク付け以外に使い道が無いのです。
上に書いた、国際成人力調査(PIAAC:ピアック)の例の通りです。
ほとんどの大人は小学校レベルの知識で答えられるような簡単な問題でも、抜き打ちでテストされると正解できないのです。
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実は、普通の大人は小学校レベルのことはできない人が多いです。
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この二つのグラフは、1960年から2005年までのメキシコ人男女の教育水準を示しています。
次の質問の答えをプルダウンメニューの中から選択してください。
1970年には、6年を超える学校教育を受けたメキシコ人男性は約何パーセントでしたか。
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問題の文章と、グラフが読めれば確実に正解できる問題です。
帯グラフは小学5年生で習うようです。
つまり、小学校レベルの知識で解ける問題です。
5年生で習うようなので、6年生なら正解できるはずですが、
習ったかどうかなど気にするまでもなく、大人だとほとんどの人が正解できそうです。
問題文を読んで内容が理解できて、グラフが読めれば正解できます。
グラフの読み方は習わなくても、見れば見当つきそうな気もします。
なので、文章が読める人ならグラフはテキトーに読んで正解できそうな気もします。
現実はこんな感じです。
↓
レベル4の問題です。
10人中8人は脱落する難問です。
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小学校で習い、日頃から使うような知識があれば正解できるはず……というか、多分コレ、習わなくても解ける人は解けます。
でも、ほとんどの人は正解できないのです。
問題が読めていないのかグラフが読めなかったのかはわかりませんが、これが正解できないのが普通の大人のレベルです。
そんなレベルなので、受験レベルの学問は、内容自体は、極一部の人以外にはあんまり意味無いです。
殆どの場合、選別にしか使われないのです。
応用できる人は、たぶんそもそも習う必要も無いでしょう。
上で紹介した医学部の人達みたいな、ああいうレベルの人達です。
意外に感じるかもしれませんが、私は学問を比較的重要視しています。
学問の専門家は学者であり、学者は必要です。
でもそれは学問で突き抜けた能力を持つ人がやるべきです。
凡人がチャレンジする意味無いです。
何故なら、人数的に、ほとんど需要のない仕事だからです。
(大事だけど、大人数は必要無い)
学者になるには高等教育必要だけど、ほとんどの人は高等教育受けても、ランク付けに使う以外に用途無いですよねと言ってるだけです。
ほとんどの人が高校卒業して、大学行く人の割合より、どう見ても高度な知識が必要無い小学校レベルの問題正解できない人の割合の方が高いので、大学卒業して、上の問題解けない人が山ほど居ます。
正解できなかった8割の人は、長く学校に通って、学力は身に付いたのでしょうか?
学者は必要ですが大半の人に学者になるための勉強は不要です。
他にもあります。医者になるにも必要です。
でも、大半の職業では直接的には学力自体は不問です。
学力自体はFランレベルでもかまわないのです。
そう書くと、〇〇をするには、この学問が必要だ!とか思うかもしれませんか、私が言ってるのは、『そんなの学校で習う必要あるのか?』ってことです。
どうせ、それを理解して応用できる人は、習わなくてもわかるレベルの人です。
学校行かなくても本読んで勝手に理解できます。
本が無い時代ならともかく、今は情報がたくさんあるので、できる人は習う必要がありません。
自力でできるからです。
習ってやっとできるようになるレベルの人は、テンプレしかできません。
こうやってやるんだよ、というテンプレを実行することしかできません。
テンプレは使うとき覚えれば十分です。
学力の低い人にまで高等教育を行うようになると、かえって生産性を下げます。
東大入った人は、東大に入った結果、学力が上がった人ではありません。
東大に入る前から学力が高かった人です。
先に、卒業できそうなレベルの人を選別しただけで、教育の効果が高かったのかどうかはわかりません。
もっと極端な例を見ると、わかりやすいです。
東大飛び級する人は、学部で伸びる人ではありませんよね。
東大の学部卒業する必要が無い人です。東大で教育を受けて伸びた人ではありません。
生産性が下がると言うのは、大学に行くとバカになると言ってるのではないです。
大半の人は、高等教育受けてもそれを仕事に生かせません。
上で書いたPIAACの例の通り、大卒者でも、小学生レベルくらいの問題を正解できません。
半数が大学行ってる世代でも、大学進学率が低かった時代の人と比べて、そんな簡単な問題に正解できる人数は変わりません。
そりゃそうですよね。小学生でも解けそうな問題解けない人が、大学に行ったところで、小学生レベルの問題を解く能力は上がらないでしょうから。
それに対して、働き始める時期は確実に遅くなる。働ける期間が短くなる。
なので、生産性の向上によるリソース消費の効率化の効果よりも、高等教育自体に消費されるリソースの方が大きいので、結果として社会全体のトータルでの生産性は下がるのです。
シグナリング理論の話そのものです。
期待値の高い人材であることを証明するために行くだけで、勉強自体には生産性を上げる効果は殆ど無い。
なので、頑張っても低ランクしか得られない人は、ランク付けにしか使わないことに最大限のリソースを費やしても本質的にはあんまり意味無いです。
別の道があっても構わないはずなのです。
Fラン大学乱立と院の急速増加によって、奨学金破産や高学歴ワープアを大量発生させましたが、その甲斐あって、定年の延長が進みました。
新たに社会に投入される労働力を下げることに成功し、その差分を定年の延長に使ったのです。
それによって年金が多少は延命できました!今すでに年金貰ってる人は安心ですね!
でも、将来の社会保障費が凄いことになりますね!
巨大な負債を未来にプレゼントしてくれたのです!
時限爆弾ですね。
氷河期世代が、高齢になると、酷いことになることが、わかりきっているわけです。
人は1年に1歳ずつ年を取るのです。誰でも知ってるはずです。
戦争が終わって、一気に人口増えたのが団塊世代。その子供が団塊ジュニアです。
団塊世代が新卒の時、ちょうど莫大な労働力の需要がありました。
ところが、その子供の団塊ジュニアが社会に出るときに丁度バブル崩壊してたのです。
当時1年で200万人もの人口がありました。
その世代が社会に出るとき、仕事が無かったのです。
当時、非正規と言う枠もろくにありませんでした。
非正規 ≒ アルバイトです。フリーターしかできません。
その結果、派遣の報酬が暴落しました。
以前は高給のスペシャリストだったのです。
それが、正規雇用で入れなかった人枠になってしまいました。
その人たちが高齢になって、バイトにも受かりません。
いったいどれだけの人が生活保護に頼ることになるのでしょうか。
そして、その後もずっと氷河期が続いているのです。
ここ数年で求人が回復しましたが、既に40代半ばの氷河期初期世代の敗者復活は、ほとんどありません(少しはあるでしょう)。
そんな社会で生き抜くためにも、無駄なことにリソースを使ってる場合ではありません。
勝てない土俵で戦ってはいけません。
リソースは最大限に効果が期待できるところに投資すべきです。
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なんか、意図が読み取れない人が居るようなので書きますが、本人の努力や能力以外に社会情勢の影響も大きいということと、20年先のことを考えて行動しろという意味合いで書いてます。
今は就職状況がだいぶ良くなっていますが、求人が回復してから就職した人達は、氷河期世代という、ろくに活躍する場を得られなかった世代の人達の莫大な社会保障費を支える側になります。
その人たちが悪いのではありません。
誰が悪いかはともかくとして、凄くボリュームの大きな世代を、ボリュームの小さな世代が支えることになります。いろいろ破綻します。
危機が迫っているのです。
学力はそれ自体は生産性を殆ど上げません。
そもそも、ほとんどの大人は小学校レベルの問題正解できません。
大学進学率が上がっても改善しません。
受験勉強にリソース投入しても効果が薄い人は、選別にしか使わないような役に立たないことよりも、もっと他のことにリソース投入した方が良いですよという話をしています。
起こることがわかってる災害に備えないのは、頭の悪い人がすることです。
最大限に備えてください。もうすぐそういう時代になるのです。
人は1年経つと1歳年を取るのです。その未来は既に予約されています。
ますます生活は苦しくなる一方ですので、勝てない勝負するより、勝てる見込みがある場所で戦うようにしましょう。
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■学業で優秀な結果を残せない人は、Fランでも良いので履歴書に書けるネタと、それ以外に企業に興味を持ってもらえる何かを持てるように頑張りましょう
受験勉強に関しては、努力は選別、ランク付けのための言い訳でしかありません。
真に受ける必要はありません。
私の主張はあくまでも、受けるダメージは少ない方が良く、リソースは効果的に使うべきだというものですので、家に引き籠ってリソース無駄にするよりは、外で何かした方がマシだという主張にもなっています。
効果的に生かせる学校があるなら、そこに行くべきです。
学校に行かなくても構わないし、落ちこぼれても構わないと言っていますが、そこで大ダメージを受けるよりはマシだと言ってるだけです。
努力しても成績上がらないなら、そこにリソース費やしても、意味がありません。
だったら、評価されない部分に費やすリソースを、評価されることに使いなさいと言うものです。
教科ごとに偏差値に凸凹がっても許される学校があり、その学校にも、進学先、就職の需要があるなら、そこに行くのも良いかもしれません。
皆が同じように頑張っても、成績には差が出るのです。
これは、すべての人が知っている事実です。
不利な土俵で勝負する必要はありません。
他に何か強みがあるなら、学校に行かないと言う選択肢を選んでも構わないです。
ただし、履歴書的に相当厳しくなります。
どんな学校でも構わないので、高校卒業と書けた方が良いと思います。
その方が楽に就職できるからです。大卒と書ければもっと良い。
その場合、学歴は履歴書に書くために必要なだけです。名前は何でも良いです。
そして、そのとき必要なのは、履歴書に書ける学歴がどうでも良いと思えるほど大きな別の何かです。見ればわかる証拠です。
上で書いた、就職する側と採用する側のマッチングの例の通り、当然新卒でいきなり大手や有名企業、人気の職業には就けません。そういった側は良い条件で人を選べるからです。
期待値低い人たちの書類に目を通すのも無駄と判断します。
必要無いですから。時間と金の無駄です。
なので最初は大きかったり、有名だったりしない会社に入ることになるでしょう。
学歴フィルタで良い人材を得られない雇用側は、いろんな手段で人を選びます。
高学歴の人が低レベルの会社を受けに来たら、むしろ要注意人物です。
学歴の下駄履いても採用されないレベルの人である可能性を疑われます。
ある程度学業のランクの低い人は、それ自体は売りにならなくなります。
そのとき、人と違う何かを持っていると、どこかに引っかかります。
採用担当にも個性があるからです。
負けるのが分かり切ってる勝負で、何の対策もしなかった人と、何か考えて行動した人が居たらどっちを採用しますか?
普通は何か行動した人の方を選びます。
不利な状況でどのように行動するかと言うのは非常に重要なポイントとなります。
何を考えて何を実行したのか、そしてその結果どうなったのか、反省点は何か、次の行動は何か、それを説明できればOKです。
考えて動けることを、その場で説明できれば良いのです。
私は勉強しませんでしたし、就職活動にも熱心ではありませんでした。
ところが、効果の上がらない勉強をせずに、かわりに何をどのように頑張ってどのような成果を上げたか説明したら、面接は満点だったそうです(だいぶ後になってから、そのときの面接官に直接聞きました)。
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凸凹の大きな人は、相手に誤解されないように凸部分が目立たないように加減して生きていかないといけないのですが、この時点で私は自分の面接能力に凸があることを知らなかったので、むしろ凹部分を持ち上げて凸凹を少なく見せようとして持ち上げる方向に力を入れてしまったのです。
私の自己評価では、私は人と話すのは苦手で、面接は能力的には凹凸の凹が目立つ部分だと思っていたからです。そこが凸だったとは予想できませんでした。
凸凹を加減する必要があるのは、凸が目立って面接で満点とか取ると、仕事はその評価に見合わないレベルになってしまうからです。あとで酷くガッカリされるのです。真面目にやってても、サボってると思われてしまうのです。
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実は、不利な場面でいろいろ考えて効率的に動く、というのは企業から求められる、非常に価値の高い能力だったのです。それをつないで説明できると、高い評価が得られたのです。
つまりこういうことです。
王道で勝てない人は、王道では勝てない会社に入ります。
不利な勝負を強いられる場面が多いわけです。
内容が多少良くても、大企業に名前で負けて、勝てないとかそんな場面があるわけです。
もっともっと細かいところでも、不利な場面なんていくらでも発生します。
そして、負ける勝負で何も対策しない人より、何か対策できる人の方が企業からは魅力的な人に見えます。
不利な状況で勝負をしなければならない機会はけっこうあります。
そこで何の対策もしない人は、あまり必要とされない。
何かしらの対策をできる人の方が、求められるのです。
勉強での努力は選別のための言い訳でしかありません。
真に受ける必要は無いのです。
あなた自身のリソースは最大限に効果が期待できるところに投資してください。
投資先を受験勉強に限る必要は無いのです。
勝てる見込みが薄いなら、他の手段も検討する必要があります。
勉強だけやって勝てる見込みが薄いなら、是非検討してみてください。
■学歴は、不相応に高くても低くても、そのうち本当の能力がバレるので、長期的には、あまり意味無いです
一般的には、はじめに入った企業のランクで、その後が決まるような法則があるようです。
今居る企業のランクより下に移るのは容易だけど、下から上に行くのは難しいと言われます。
たしかに、学歴勝負の人だと、そうなりそうです。
でも、学歴勝負してない人だと、そうでも無いかもしれません。
私は中小スタートで、だんだん大きいところに移りました。
大きいところでも、就職氷河期は新卒採用少ないですから、後継機の頃入った世代と比べると、相対的に、転職で入る人の比率が高くなります。
氷河期世代で、うまく勝ち上がることができたような人の場合、30代の頃は、好きなとこに転職できたと言う人も居るかと思います。
企業は、勝ち残った僅かの人材(経験の長い人)を取り合いますが、負け組を拾い上げることはしないで、人材が足りないと言います。
とっても、わがままですね!
高学歴(高学校歴、高偏差値)の人でも、仕事できないと、早々に落ちぶれますし、低学歴でも20年くらいすると、すっかり学歴無視されるようになります。私は後者の方です。
実は、案外低学歴には低学歴のメリットがあります。
中小企業には中小企業のメリットがあります。
汎用性が求められずに済む機会が多く、実績を自分の望む方向で育てやすいのです。
普通科以外の高校や専門学校、高専なんかは仕事の制限に有利です。
それしかできないというアピールは、有利な舞台で戦いやすくコントロールするための手助けになるのです。
新卒で大きな会社に入ると仕事が選びにくくなります。
会社は選べても仕事は選べない。どこに配属されるかわかりません。
そのため、大きな会社では、どこに配属しても活躍できそうな人材を選ぶ傾向が強くなります。
倒産の可能性の少ない大企業は、使い回しできる汎用人材を求める傾向が強くなります。
その仕事が無くなっても解雇が難しいからです。
大きな会社は、存続自体が価値になります。せっかく広まった知名度を捨てるのは惜しい。
有名だというだけで、優秀な人材が勝手に集まってきます。
中小だと専業性が高くなり、仕事の内容があらかじめ限られていたり、新卒でも入社前に具体的な仕事の話もできることがあります。個人依存が強くなるので、会社側としても重要な話になります。
小さな会社は、仕事が無くなれば会社ごと潰して、新しい会社作れば良いので汎用的な人材は必要無いからです。
知名度が無いので、会社の存続よりも、作り直した方が効率的です。
多くの人は”選択肢が広がる”と言う言葉を好んで使います。
Fランでも大卒なら選択肢が広がると言いますが、配属先や仕事を制限しにくくなるので、望む方向に実績を育てにくくなってしまうのです。
新卒は配属先を選びにくいのです。
そして、配属されてしまうと実績は望まなくても積み上がっていきます。つまり、器用貧乏になります。
他の仕事がやりたいと思って転職しても、仕事が変わると今まで積み上げたものが生かせません。
もちろん、それで構わない人には問題ありません。
得意なこと、やりたいことが限られる人にとっては勝負に使いにくい実績が積まれるリスクが高くなります。
私はできることしかできませんので、制限できることを優先してます。
しかしながら、せっかくの低学歴(低学校歴、低偏差値)も年と共に使えなくなってきます。
結局バレます。そんなのもっとちゃんとした人にやらせろよ!というような仕事に当たってしまったりします。
学歴は長期的に見ると意味無いのです。学力は生産性と直接の関係は無いからです。
多くの場合、学歴と仕事の能力は比例するので、気付きにくいですが、年と共に評価は学歴ではなく仕事上での能力、実績に比重が移ります。
無理して高学歴とっても、気にせず低学歴で通しても、結局最後は仕事の能力で判断されてしまいます。
どうせバレますから意味無いと言うのが実感です。




