遅刻にて
肉体と精神の強さは比例しない。
その事を、よく理解した方が良い。
私の言った
「寒い」
という言葉の真意を、雄一郎さんに伝えた、その瞬間だった。
「おやおや。それは」
雄一郎さんは私に向かって、何かを言いたげな素振りを見せたのである。
恐らく、先程の
「心が寒い」
という私の発言に、思う所があったのだろう。
なければ、私が困る。
だが私は、わざと雄一郎さんの言葉を遮るように
「仕方ないだろう?こんな寒い中、駅で空しく独りで、人を待っていたんだ。体も心も冷えるさ」
と、こう言ったのである。
別に、小言が聞きたくなかったという事ではない。
「おやおや」
「多分原因は、目の前にいる老紳士殿が今日に限って、一時間も待ち合わせの時間に遅れたからだろうね」
そして、こんな寒い日に薄着を着てきた私の判断誤答だろう。
「それは、申し訳なかったです」
「本当にね。事故とかじゃなくて、安心したよ」
実際、雄一郎さんを駅で待っていた時には、何かの事故や事件に巻き込まれたのではないかという不安が、私の頭を駆け巡っていたのだ。
それが杞憂だったと知った時は、安堵の息を吐いた事も自覚している。
「でも、一時間は流石に長すぎだよ。手が人形みたいに冷たくなったんだからね?」
だが、言いたい事は、言わせてもらう。
このような時にしか、言えないからである。
すると、雄一郎さんは
「本当に申し訳ない」
と、頭を下げてきたのだ。
これに、慌てたのは私の方だ。
何しろ、雄一郎さんに頭を下げてほしかった訳ではないからである。
「ちょっと、頭上げてよ。別に良いよ。無事に目的地に到着できたんだ。それに、いつもは私の方が貴方に迷惑をかけているからね」
「おや。それも、そうですね」
私の言葉に、ようやく落ち着いたのだろう。
雄一郎さんは虚をつかれたような顔つきで、こう言ったのだ。
そして度重なる私の攻撃的な言葉が、雄一郎さんの癪に障ったのだろう。
雄一郎さんが責めるような口調で
「ですが、そこまで寒いと言うのであれば、近くの暖かい店にでも入って、時間を潰していれば良かったではありませんか」
と、告げてきたのである。
「今の、私に、それを、言うのかい?」
しかし、その言葉は、今の私には禁句であった。
理由?
直ぐに解る。
「ああ。そういえば、家に携帯電話を忘れていたのでしたね」
そう。
これが理由である。
これは、とても大きな、失態だった。
一年に起こった失態の五本指に入る程の失態である。
なんと、私は今日に限って、家に携帯電話を忘れてしまったのである。
それは私にとって、最高気温が一桁の時に半袖で外を出歩く以上の、愚行であった。
「見事にね。貴方を外で待っていたのも、それが理由さ」
「おやおや」
「だって、入れ違いになっても嫌だし、一人だと喫茶店に辿り着けないじゃないか」
なにせ、この時の私にとって勝手な単独行動という行為は、行方不明になるという事と同等の意味を成していたのだ。
恐らく、このまま街に一歩でも足を踏み出していたら、迷子になって警察のお世話になっていただろう。
容易い想像が出来る。
簡易即席麺が出来上がるよりも早く、私は迷子になるだろう。
「携帯電話が、ありませんからね」
「そうだよ。持ってないって気付いたときには、遅かったね」
ちなみに、携帯電話の不所持に気が付いたのは、待ち合わせ場所に着いた瞬間である。
そう。
愚かな私は、揺ら揺らと優雅に電車に揺られていた二時間という長い間があったにも関わらず、 携帯電話の不所持という事態に気が付かなかったのである。
これには、私が一番驚いている。
「僕も、遅れるという連絡はしていましたが、持っていないとは思いませんでしたからね」
恐らく、その連絡は家で健気に通知を鳴らしている携帯電話だけが、知っているだろう。
「それは、ごめんなさい。多分、家で充電しようとして、そのまま置いてきたんだと思うけど、本当にごめん」
しかしこれは、常に携帯を持っているだろうという、思い込みが原因だろう。
「そのように、謝らないでください。気にしていませんよ。誰だって、物を忘れる時くらいありますから、ね?」
「それでも、言いたいんだよ。ごめんなさい」
これは、自分が謝りたいという自己満足でもあった。
「気にしていないと、言ったでしょうに」
「だって、私は貴方に、怒鳴っただろう?」
そう。
私は、この温厚な友人である雄一郎さんに対して、自分の怒りを発散するが如く、怒鳴ってしまったのである。
怒鳴ったのは、完全に、八つ当たりだった。
この原因は、待ち合わせの時間遅れた雄一郎さんに対する苛立ちと、自分が携帯電話を忘れた事に対する焦りなのだろう。
しかし一番の原因は、私の精神がそれらの感情に犯されてしまった事である。
実際、私は雄一郎さんに向けて、非道い言葉を、沢山言ったのだ。
「ええ。来るのが遅いやら、携帯電話はどこだやら、色々と言われましたよ」
「ほら」
携帯電話の所在など、雄一郎さんが知っている訳がないのに、そんな事を言ったのだ。
「しかしそれも、気にしてはいませんよ。誰だって、一時間も遅れたら怒ります」
「でも」
それと、これとでは、話が別ではないか。
そう。
私が言おうとした瞬間だった。
「これ以上、何か言うつもりなら、僕は帰りますよ」
雄一郎さんが、私の言葉に門を閉じてしまったのである。
流石に、くどすぎたのだろう。
そう。
雄一郎さんは、判決を言い渡す裁判長のような鋭さで、こう告げてきたのだ。
「ごめんなさい。もう何も言いません」
そして、そのような事を言われたら、私に出来る事は唯一つだけになってしまうのである。
何であろう。
そう。
速やかな閉口である。
「まったく。悪いのは僕なのですから、そのようにご自身の事を責めないでくださいよ」
「え」
「これなら、僕の事を泣かせる勢いで責め立てられた方が楽でしたよ」
「いや。それは、嫌だよ」
これは、私の本心だった。
だって、誰であっても人が泣いている姿を見るのは、気分が悪いだろう。
いや。訂正する。
人の泣き顔を見ながら興奮する、特殊性癖の人間以外なら、気分を害されるだろう、と。
すると、その私の言葉を聞いて、雄一郎さんが感心したように
「貴方は、優しい人ですね」
と、言ったのである。
は?
どこが?
「それは、無いよ」
反射だった。
瞬間的に、言葉が出てきた。
なぜなら、私が雄一郎さんを責めない理由は、下心による親切心だからである。
本当に優しい人は、下心によって他者に優しい行為を行わないだろう。
そう。
本当の善人は自分の傷を治さずに、他者の傷を治そうとする人物なのだ。
だから、間違えてはいけない。
それは、本当に優しい人に失礼なのだから。
すると、雄一郎さんは
「さて。これ以上話しても、また謝罪を聞く事になりそうですからね。話を変えましょうか」
と言ったのだ。
賢明である。
そうしなければ、私は
「このまま本当の善人とはどのような人物の事を指すのか」
という事や
「自分の犯した所業の数々に対する後悔の念」
という事について淡々と、延々と、話を始めてしまうと思ったからだ。
だから私は、これらの言葉を飲み込み、
「解った。この話は、ここまでにしよう」
と言ったのだ。
言った瞬間に、嫌われるかもしれないという危機感もあったが、それも過ぎた事だ。
気にしてはいけないだろう。
なにせ、雄一郎さんが
「そうしましょう。それにしても、今日の店内は、随分と華やかですね」
と、次の話題を用意してくれているのだ。
これは、ありがたい。
やはり、私の有能な友人は、人格者なのである。
お読みくださり、ありがとうございます
それでは、次回作にご期待ください




