忠告にて
自己の否定は、想像以上の攻撃性を秘めている。
私は、その事を忘れていたのだろう。
私は、自分の精神状態に、気付いていなかったのだ。
だから、気付いた時には
「あ゛」
という、汚い声を出していたのである。
「おや、随分と痛々しい声ですね。どうかされました?」
そして、その声を聞き、雄一郎さんが、不思議そうな声を上げた。
「いや。少し、嫌な映画の事を思い出しただけだよ。大した事じゃない」
恐らく、数分前に心の中で呟いた自己嫌悪という言葉に、触発されたのだろう。
思い返すだけで苦汁を無理矢理飲まされた気分になる、とある三部作映画が私の思考を掠めた。
「それは、少し気になりますね。どのような映画だったのです?」
友人が不思議そうに聞いてきた。
この時、反射で
「正気か?」
と尋ねなかった私を、誰か褒めてほしい。
私は、あの映画が、苦手だからである。
思わず、常日頃好ましく思う素晴らしい雄一郎さんの知的好奇心を、嫌らしく思った程だ。
「食事が不味くなる映画だよ」
だからこれは、親切心から出た忠告だった。
しかし、私は思い出すべきだったのだ。
知りたがりな雄一郎さんが私の忠告を聞く訳がないという事実に。
そして、気付くべきだったのだ。
忠告をするだけ無駄であるという事実に。
「そうですか、残念です。とても気になりますが、食事が美味しくなくなるのは僕の本意ではありませんからね」
「だろう?」
「ええ。ですから、妥協案を出しましょう。どのような登場人物がいるのか教えてくれませんか?後で自力で調べます」
これが私の、妥協案という言葉を嫌った瞬間である。
そう。
これが、答えだったのだ。
猫に忠告は意味を成さない事が証明された。これは、決して覆らない事実だろう。
しかし、雄一郎さんはその優秀な脳味噌に遠慮という言葉を叩き込んだ方が良い。
ここは廃墟のような見た目をしていても、喫茶店である事に変わりはない。
私は規則は守る人間なのだ。
第一、なぜ貴方が妥協案を出す?
普通に考えて、それは私の役目だろう。
雄一郎さんは不思議そうに私の顔を見つめてきたが、私も不思議なのだ。
全くもって嬉しくない共通点を生み出した瞬間である。
けれど、結局私も同じ穴の狢だったらしい。
「それは、構わないけど。後悔しないでよ?」
と小声で警告するだけで、話を止めるという考えが頭の中に存在しなかったのが良い証拠だ。
気になった事を目前にすると、どれだけ残酷な事実が立ち塞がっていても、調べたくなるのが人の性なのだろう。
すると、雄一郎さんは
「僕から言い出した事ですから、しませんよ」
と、紅茶を妖艶な手つきで飲み干しながら、小声で笑ったのである。
危なかった。
私には友愛感情はあっても恋愛感情はないというのに、その防波堤が一瞬にして崩れ去るところだった。そう。雄一郎さんの溢れた色気に惚れそうになった。
これが世に聞くイケオジ。
紅茶を飲み干すという動作だけで、人を狂気の沼に突き落とせるとは。
「あ゛、う゛、ひぃ」という声しか、喉から出てこなかった。
雄一郎さんは自身の一挙手一投足が人を狂わせる事を自覚した方が良い。本当に。人は簡単に狂うのだ。
しかも、当の本人は私の奇行に対して
「おやおや」
と言ってくる始末である。
傾国か?
狂うぞ?
しかしこのような事態になった理由は、元々は私の言葉なのだ。
これは、覚悟を決めた方が身のためだろう。
そして、この三部作映画の中にも、そのような一線超えた人物が出てくるのだ。
そして私の繊細な心は、直ぐに記憶の渦に呑みこまれるので、きちんと雄一郎さんにも、警告をしなければならない。
「えっと、映画に出てくる人、ほとんど癖が強くて、悪意に満ちてるんだよ?」
事実。
この映画には、自身の快楽のために、他者を欺く人がいる。
意見の合わない他人を、暴力で人を支配する人がいる。
自身の過去を捨て去る事が出来なかった為に、世界を狂わせようとした人がいる。
だからこれは、
「そんな個性豊かな人達が闊歩している映画を知りたいとか、酔狂だね?」
という確認の意味での言葉だったのだ。
だが、結果は、想像通り。
「益々、気になりますね。後悔とは川の向こう側にいるような人たちでしょうから」
という偶に出てくる、詩的な雄一郎さんを残して何も収穫はなかった。
そして、これ以上言ったら、機嫌を損ねる可能性がある事も私は解っていた。
諦めた訳ではない。
「解ったよ。これ以上は何も言わない。それで、紹介するのはそれぞれ三部作の主人公で良いよね?」
紹介する人物くらいは決めても良いだろう。
それぞれ、最も善意に溢れた人達だ。流石に悪辣な人を紹介する気にはなれなかった。
「ええ。お任せします」
その時だ。
雄一郎さんの目が、子供のように輝いているのを私は見た。
どうやら、とても、気になったらしい。
「嫌な気分になっても、知らないからね」
そして、何度目になるか解らない忠告をして、私は話を始めた。




