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想い出  作者: 彼岸  章華


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驕りにて

 知識は偽りの真実を招き、記憶は自己中心的な思考を招く。

 私は、その事実を忘れていたのだ。




 私は、冴えていた。

 冴えていたと、驕っていた。


 雄一郎さんのあんな表情、視線を向けられたら、気付く。


 あの顔は不味い。あの顔は、愛猫に冷たい態度をとられていた飼い主が、急に懐かれた時の表情。


 つまり、()()()だ。猿でも解る。口角に締まりがないのである。


 私の優秀な第六感が、これから面倒臭い事が起こると告げている。


「おや、おやおや、おやおやおや。貴方が僕の名前を呼ぶとは、今日を記念日にしましょうか。どうです、素晴らしいでしょう?満くん」


 最悪だ。予感が当たった。

 いつもより、十割増で鬱陶しい。

 

「いや、流石に記念日はないだろう」


 別に心の中ではいつも名前を呼んでいたし、初めて呼んだ訳でもない。


 だから、驚きこそすれ、面倒な事にはならないと思ったのだ。


 それなのに、何だ、あの顔は。


 先程とは比べ物にならない程浮かれているではないか。


 まるで、赤ん坊に初めて名前を呼ばれて歓喜する親の顔だ。


 不味い。このままでは確実に、今日が記念日になる。


 どうして名前を呼んだだけで記念日に制定するような話になるのか、一切理解できないが、雄一郎さんの中では常識なのだろう。


 恥ずかしくて名前を呼んでいなかった借り(ツケ)が、()()か。


 せめて、私の話に耳を傾けてほしかった。しかしそんな私の思いは、雄一郎さんには、届かなった。


「いいえ、記念日にするべきです。僕は諦めません。必ず、今日を記念日にしてみせます」


 まるで忠誠を誓う騎士のような出で立ちで雄一郎さんが言った。


 言っている内容は心底お断りしたいのに、あまりの凛々しさに圧倒される。


 だが、しかし、断る。


 どこかの漫画作家先生の言葉を借りるようで大変心苦しいが、言わせてもらおう。


 なにせこの台詞は、言いやすい、覚えやすい、汎用性が高いのである。


 第一、私は他者の要求に否定が出来る部類(タイプ)の日本人なのである。


 そのやる気は他の事に向けてくれ。こんな恥ずかしい記念日、校庭五十周と同じくらい嫌だ。断固拒否する。


「良いのかい?多分、今の貴方の態度は、酔っぱらいが素面の人に絡むようなものだよ」


 だから、言葉の針を突き立てた。これは仕方のない事だろう。堪忍袋の尾が切れてしまったのだ。仕方がない。


 すると雄一郎さんは先程まで浮かべていた雰囲気を一変させ、早口で言った。


「虫唾が走るような事を言わないで下さい。僕があのような節度の弁えない連中と一緒な訳ないでしょう」


 まるで、獣の唸り声のような声だった。


 本気で嫌がっているらしい。


 間違いなく、私は雄一郎さんの機嫌を損ねてしまったのだろう。


 しかし、私の本懐に一歩近づいた事も、また事実だ。


「そうだね。言葉選びが悪かったよ。それにしても、貴方が酒嫌いで助かった。少しは落ち着いただろう?」


 これが、私の本懐だ。


 私は雄一郎さんに常日頃の冷静さを取り戻してほしかったのである。


「人は嫌な事を言われると反論したくなる生き物だろ?だから、これを上手に使うと会話の主導権を有利に握る事ができるんだぜ!」


 飯田、有益な情報を教えてくれた事に感謝する。


 ありがとう。後日、感謝の言葉と共に食事を奢ろう。


 まあ。つまり、私は飯田の教えてくれた通りに心理学を利用し、雄一郎さんに私の言葉を聞いてくれるように仕向けた訳だ。


 結果は言うまでもなく、明らかだった。


「ああ。お恥ずかしいところをお見せして、申し訳ありませんでした。僕とした事が節度を忘れていました」


 という雄一郎さんの顔と、声を見るだけで察しがつく。


 私の願いは叶ったのだ。

 さながら、高圧的な先輩からの圧を脱した時のような気軽さである。素晴らしい。


 いや。

 高圧的な先輩の方が強敵であるから、これは、例えとしては間違っているだろう。


「しかし、貴方(きみ)が僕の名前を呼ぶとは、明日の天気が気になりますね」


 その時だった。


 私の繊細な心に、言葉の棘が突き刺さったのである。


 雄一郎さんが、顎に手を当てながら言った言葉が、思いの外、鋭かったのだ。


 しかし、私は成長している。


「そこは安心してほしい。明日は晴天だからね。貴方の思ってるような雪も、霙も、雨も、槍も降らない」


 こんな返答を、瞬時に言えるようになったのだ。けれど、非道い言われようである。


 私の事を名前を覚えようとしない糞餓鬼だとでも思っているのだろうか。


 私だって苦手ではあるが、名前を呼ぶ時くらいある。


 しかし、私の頭脳が導き出した最高級の感謝が、名前を呼んだ事に塗りつぶされ、一切響いていないとは残念な事この上ない。


 雄一郎さんには私の感謝の言葉が、風が葉を散らせるような、靴で植物を踏み潰すような、そんな気にも留めないものだったのだろうか。


 とても、悲しい事である。


 しかし、それ以上に私の頭は、数秒前の己の独りよがりな妄想と言動に対する怒りと嫌悪が渦を巻いていたのだ。


 この憤りの前では、他者に対する苛立ちなど、四つ葉の白詰草のような儚さだったのである。

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